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神仙棲まう桃の霊峰  作者: 砂骸
夏の章
8/25

天裂く慈雨、白玉のごとし

 雨、降る降る、まわりに、青葉、華やぎて薫る。


 「憂鬱なばかりの雨も、この地では随分きらきらしいものじゃないか」


 雨戸を少し開けて、里に降り注ぐ雨粒を見下ろす。濡れた地面に雫の波紋が次から次へと広がって描かれる複雑な文様は飽きが来ない。雨に打たれた土と草の、どこか哀愁を誘う香りが鼻腔に広がる。


 あまりに熱心に覗き込むものだから、頰や袖が濡れてしまった。自分の体など拭けばそれで終わりだけれど、家具が湿って痛むといけないので後で拭いておこうという気も彼にはあった。しかし、中々雨戸を閉めようとはしない。


 風光明媚な秘境の里にて、避暑を兼ねて余暇を楽しむ。日常から飛び立って、美しき非日常に浸り、まったく別の自分になる。

 空模様如きが彼の楽しみを阻むことはできない。傘を借りて水溜りを跳ね飛ばしながらぶらつくのもいいし、宿に籠って雨音に耳を澄ませるのもいいだろう。こうやって鼻先を突き出して雫を肌に受けながら下界を見下ろす仙人のような気分になるのもいい。


 彼は実に模範的な客人だった。模範的な客人とは即ち、いつも機嫌が良く、気前の良い客である。

 その日彼は、湿気った紙に持参した筆と墨で絵でも描くつもりだった。水を多く含ませた墨を使って、線が滲んでよくわからない絵をいくらでも拵えてやるつもりだった。

 とうに墨は磨ってある。彼の気まぐれが収まり次第いつでも取り掛かれる。

 そして彼は、もう一つの気まぐれを起こした。


 「おや?」


 遠く、田に向かって俯くように、一人の女が立っている。傘もささずに濡れ鼠、その姿勢のまま微動だにしない。

 彼は暫く女を観察していたかと思うと、不意に雨戸も閉めずに身を翻して階下へ降りていった。ちょうど通りがかった女将に一言告げて傘を持ち出す。


 傘に雨粒がぱたぱた当たる振動を感じながらずっと歩いていく。雨は上がりそうにない。

 はたして女はまだそこにいた。

 泥を踏んで俯く女の傍に立つ。


 「やあ、入っていかないか」


 彼は傘を持つ手を女の方に伸ばして言った。傘からはみ出た肩が雨に打たれて湿った着物が肌に貼り付いた。

 女は微動だにしない。彼が肩を叩くと、首だけがぐるりと回って彼を見た。黒々とした眼に、痩けた頰、濡れた髪が見窄らしかった。

 狐狸のような眼をすると彼は思った。卑怯者の眼だ、しかし匂い立つような妙な色気があった。


 「君、宿の手伝いの娘だろ、何度か見たよ。入っていきなさい」


 女は三度瞬きして、懐からなにやら黒くて薄っぺらいものを取り出して見せた。彼が受け取って確かめると、どうやら毛髪の塊らしかった。


 「手紙、書こうと思ったけど、うまくいかなくて。あの子がやってたから」

 「気を引きたい男でもいるのかい」


 女はこっくり頷いた。いくつか尋ねるうちに、女が自分の髪を引っこ抜いて叩いて固めたものに恋文を書いて送ろうとしていたことがわかった。


 「あまりうまくいきそうにないな。灰にしてから固めるとか、布のように編むとかの方がまだ見込みがありそうだ。墨を磨る時にちょっと灰を混ぜるくらいで満足しておくべきだったと思うよ」


 女はまた頷いた。些か無理に腕を引いて傘に入れても、女は抵抗しなかった。彼はそのまま自分のとっている部屋に女を連れ帰った。雨で皆が引き篭もり、閑散とした里に人目は無く、咎める者も無かった。


 二人の体から雫の垂れる音が室内にやけに大きく響いた。外の雨がざあざあ降るのは、まるで別世界の遠い出来事のようだった。

 揃って押し黙り、並んで座る。彼はそう促したつもりはなかったけれど、徐々に女はわけを語り始めた。


 「五年も前のことです。あたしには半ば許嫁のような、将来の決まった相手がいて、でもあの人はこっそり打ち明けてきたんです。自分は仙人に武芸を習っていて、この道を極めたい。いずれ里を出る気だと。


 あたし、言いました。そんなもんやめちまえって。やめれないってんなら、その腕あたしが斬り落としてやるって。あたしが飯食わせてやるから、何も苦労はさせないからって。

 勢いのまま、槍を持ったあの人にあたしは包丁を振りかぶって斬りつけました。あの人の腕からだくだくと血が出て、でも浅かったみたいで全然斬り落とすには足らなくて、もういっぺんと思ってまた包丁を掲げたところを、駆けつけた人たちに取り押さえられました。


 馬鹿なことをやったと思います。あんなことまでされたのに痴話喧嘩ってことになって、あたしは大して重い罰も受けなくて、あの人が可哀想。でもあの人への気持ちは一向に収まらなくて、あたし、ずっと辛く当たってました。顔を合わせれば嫌味を言って、怒鳴り散らした時もありました。


 そんなことをしているから勿論、あたしたちは疎遠になって、そうしたら飴屋の娘があの人に色目を使うようになって。まだ小さいくせに一丁前に女の顔で、媚を売って。

 あの人は、拒絶するのが怖くてできないみたいでした。だから、強いられるままあの子と一緒にいてやってました。私とだって五つ離れてるくせに、あの子とは十二も違うんですよ。なのにきっと、皆にはやぶさかじゃない態度に見えたと思います。


 あの子の方が、まだ九つのあの子の方が女としてずっと賢いんです。でも、それが上手くいくのはあたしが先に自分が腕一本で天下でも獲れる気でいたあの人の鼻っ面折っといてやったからだぞとも思います」


 一通り聞いて、終わる頃には彼はしゃくり上げる女の背をさすってやっていた。


 「姫神さまは君の恋を叶えてはくれなかったんだね」


 女は彼の慰めを肯定も否定もしなかった。彼が女を寝具の上に押し倒しても、始終大人しく寝っ転がっていた。

 事を済ませて衣服を整える段になってようやく、女は一言発した。


 「あんた女だったの」

 「そうだね、でもそれで何か変わるのかい?」


 うまい切り返しは思い浮かばないようだった。女は青褪めた肌を晒したまま、ぼうっと天井を眺めた。いくら肌を重ねても、女の肌に熱が灯ることはなかった。


 「ボク、威勢と思いきりの良い女は好きだよ。君は色っぽいしね。ボクと来ないか。しあわせにしてやるよ」

 「しあわせってなに」

 「一先ずは里を出るってことじゃないかな?うちの屋敷に置いてやる、他へ働きに出たければ紹介するし、好いた男でもできれば金を用意してやる。それともボクの愛人になるかい?向こうじゃあ淑やかで学のある女として通してるから大っぴらにはできないけど」


 彼はいかにもおかしそうにからからと笑った。


 「ボクは白楽興の娘、玉院と言う。君は?」

 「ヤエ」

 「なあヤエ、これは悪い誘いじゃないぜ」

 「あんたは悪い客だわ」


 その夜、ハクラと名乗った客人は部屋に金を残して消えた。同じ日に消えたヤエという娘の行方は依然として知れない。

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