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神仙棲まう桃の霊峰  作者: 砂骸
夏の章
6/25

桃花の姫、袖を濡らし想う

 開け放たれた雨戸の向こうから、鱗粉のような細かな光の粒が吹き込む。夏の夜には里に降り注ぐ姫神の気が一等濃く香りたち、目に映るほどである。


 レーエは光を拒んで布団を被り、枕を濡らした。唇を噛んで涙声を押し殺す。

 宿の手伝いに来ている娘たちは夜には帰って行くので、レーエは隅の小さな一室を貸し与えられて一人でひっそりと眠りにつくのが常だった。夏になって何組か外からの客も来訪しているものだから、間違っても女の啜り泣きなど響かせるわけにはいかない。


 彼女がどれだけ恐れようとも否応なしに季節は巡る。早熟な化身の彼女を追うように姫神の身体たる巨木は次々に見事な桃を実らせる。蛙がわあわあと歌を喚き、湿った土の香りが運ばれてくる。

 ただ時の流れが恐ろしくてままならず、惜しく思えば思うほどに慕わしい。ずっとこのままではいられないと、確信だけがあった。


 日に日に胸の奥にぼんやりと、レーエのあるべき姿が形作られていくのがわかるのだ。彼女の心を封じていた痛みが抜けていく。恋しくてたまらないのに、自分が何を恋しがっているのかわからない無力感、例えようもない大きな不安。そういったものが褪せていって、代わりに麻痺していた渇望が呼び起こされる。


 今はまだ、思い出さずにいたかった。姫神が彼女という化身を落とすに至った渇望に、そうともわからぬまま必死に目を逸らす。


 はあ、と熱っぽい吐息が漏れる。里の夏はそこまで気温が上がるわけでもなく、夜ともなれば涼しいものだ。それでもずっと布団にうずまっていれば多少は汗ばんで寝苦しいだろうに、レーエは夜更けまでそうして嘆く自分を秘匿しようとした。



 

◇◆◆◆◇




 里のあぜ道を、派手な着物を着た宿の客が一人、扇を煽ぎつつ物見遊山気分でぶらぶらと歩いていた。中々に目鼻立ちも整っていて、こざっぱりとした新興家門の若君といった風貌の人物で、彼の振る舞いは如何に怠惰なものだろうと決まってそれらしく見える独特の雰囲気があった。


 向こう側から荷車を引く少年と籠を背負った女が歩いてくるのを見て、彼は大して気負いもせず近づいて行って声をかけた。


 「やあ、朝早くから精が出るね」

 「これはハクラ殿。おはようございます」


 花のように微笑んで女が答えた。隣の異国風の少年は女と彼が顔見知りだと察したのか、会釈をするに留めて口を挟まなかった。


 「一つ尋ねたいんだが、煙を吸いたくなってしまってね。ボクはあれが無性に好きで……里にそういう類のものは置いてるかい?」

 「あら、煙……エゼキエル、心当たりはありますか?」


 女が首を傾げて少年に問うた。


 「……そうですね、飴屋を尋ねるといいでしょう。あそこは茶屋のようなものですが、ほかにも細々とした嗜好品も並べていますから」

 「有難い!あの看板娘の店だろう、ちょいとお邪魔してくるよ」


 彼は二人の手を順番に握りしめてぶんぶん振った。それから、荷台いっぱいに詰まった桃の実を感心したように眺めた。


 「豊かな実りだね、艶々してどれも立派なものだ」


 彼の様子が今にも手を出しそうなほどに食欲に駆られて見えたのか、少年が声を潜めて笑う。


 「今日は三往復目です。全て姫神さまのおかげですよ。こちらの桃は酒用でまだ硬いので、味見をなさりたいなら……」

 「こちらをどうぞ。食べごろを選んでありますから」


 女が手ずから籠の桃を差し出す。礼を言って遠慮なく齧り付くと、蕩ける果肉が口いっぱいに広がった。上品で爽やかな甘さが非常に美味である。

 彼は口元の果汁を袖で拭って、機嫌良く言った。


 「うまいなあ……やっぱりアレかい、あの山のてっぺんの大きな大きな桃の樹からたわわになった実がころころ転がり落ちて川を、こう、どんぶらこ、どんぶらこと流れて来るんだろ」

 「ふふ、ご期待に添えず申し訳ありません。林の浅いところの木から捥いでくるんですよ。また食事時に剥いてお出ししますから、沢山お食べになってくださいませ」


 彼は自分のありふれた冗談に満足してうんうんと頷いた。何度も振り返っては大仰な仕草で手を振りつつ、またぶらぶらと去って行く。避暑地における怠惰を満喫する客人として、彼は模範的だった。


 彼の姿が米粒のように小さくなるのを待って、エゼキエルがレーエに顔を近づけた。訝しげに耳打ちする。


 「あの麗人もですか。去年も一昨年も、こういう場面で出くわすと客人から決まって“どんぶらこ”かと尋ねられるのですが、この珍妙な言い回しはそんなに一般的なんですか?」

 「そういう御伽草子があるのです。今度書き起こしておいて、うたってみせましょう!」

 「その、寝かしつけられるような歳ではありませんが……楽しみにしています」


 尋ねられたレーエの方が余程張り切ってそう言うので、エゼキエルはやや気圧されたようだった。約束ですよ、と念押しされて躊躇いがちに小指を絡める。白く華奢な指は少し力を込められば簡単に折れてしまいそうだった。


 一陣の風が吹いて、黒髪が絹糸のように翻る。レーエが遮られた視界に驚いておろおろと髪を元のように括ろうとする。

 風に連れられて身軽な足音が二組、駆け寄ってきた。


 「なあー!酒蔵まで行くだろ!父ちゃんに飯届けるから乗せて!」

 「……お前は毎日元気ですね」

 「全然!もう暑くて死にそう!」

 「里は大して暑くないでしょうに」


 リョウが荷台に勝手によじ登るのを横目に、藍色の着物の子供はむすっとした顔で言った。


 「おれ、後ろ押して行きますから」

 「キロウが構って欲しいって!」

 「はァ!?言ってねえ!」


 エゼキエルはそれ以上騒ぐ声に取り合わず、レーエに向かってはにかんだ。


 「レーエさん。では、また」

 「はい、お気をつけて」


 レーエは一瞬憂げな眼差しで彼の瞳をじっと見つめた。その些細な仕草に酷く動揺させられて、何か言葉を重ねる前に、美しい笑みで塗り替えられる。


 堪らない心地だった。何もかも放り出して、やましい隠し事を一から十まで並べ立てて、許しますという言葉を賜れるまでその身を捕らえておけたなら、ひと匙分だけ、救われることもできるだろうに。


 結局、エゼキエルはすんでのところで常軌を逸した振る舞いに及ぶのを堪えた。うわのそらで足を動かす。

 二人が別れて荷車が動き出すと、リョウはわざわざ荷台から飛び降りてエゼキエルの横に来た。


 「エル!姉ちゃんと何話してたんだよ!」

 「リョウ、お前サボりたいだけだろ!おれが飯届けとくから帰れよ!」


 (うるせえ……)


 エゼキエルは立ち止まって、子供達の首根っこを鷲掴みした。まとめて荷台に放り込む。甲高い叫び声が遠ざかる代わりに、蝉の声が一層けたましくなった気がした。


 「二人とも、揺れた拍子に桃が転がり落ちないように押さえておいてください」


 はーい、と間延びした返事が青空にのびやかに飛んでいった。

 

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