余人、語りて言う
日暮れ時の薄暗い台所には、気怠げな女たちがひしめいていた。年頃の娘たちは嫁に行く前に女将のところで一通りのことを教わるのが習わしであるけれど、祭事ともなれば年嵩の女も集まってきて里中の人手をかき集めて支度をするものだ。
ぎいぎい軋む古い椅子を持ってきて影で酒を飲んでいる女や、木箱に座って花に甘い衣をつけて揚げた菓子を摘みながら益体もないお喋りに興じる娘たち、床に座って密かに猫を招き入れては撫でくりまわしているまだ幼い娘もいた。
宿の広間の方では男衆が騒いでいるので、そっちへ行きたい者はとうに出て行ってしまって、翌日の片付けまで台所には女たちの停滞した時間が約束されている。
春の郷土料理が山と積まれた卓の奥、勝手口のところでは遠慮がちに顔を出した少年が前掛けをしたままの女と話し込んでいた。女は皿を洗っていた途中らしかったがとうに止めてしまって、少年と顔を寄せて囁きを交わすのに夢中になっている。
女は少ししてから小皿に辛味噌を絡めた団子と、菜の花と筍を和えたのをとってきて、手ずから箸で食べさせてやった。少年が顔を背けて咀嚼するのを見て、くすくすと声を潜めて笑う。
年嵩の女の中にはまだあれこれと働いている者もいたが、恋人たちのささやかな楽しみを見咎めたりはしなかった。
楽しくも慌ただしい春で一番の祭事は山場を過ぎ、あとは最後の夜を楽しんでから皆で休んでたっぷりと昼まで眠るものなのだ。
怠惰な空気の蔓延した台所に、溌剌とした女将が入ってくる。女将は猫を遊ばせていた幼い娘のところに行くと、ぶち柄の猫の首根っこを摘み上げた。
「こぉらイチカ、タマを遊ばせるなら外でやんなさいね。猫のおまんまじゃないっていうのに、すばしこくてすぐかっぱらわれるんだから」
「はあい」
「他の子もほら、若いのはさっさと遊びに行っといで。解散、解散。また明日ね」
女将が手を叩くと、言い終えぬうちに少年が無理やり手を引いて女を連れて行ってしまった。あ、と何か言いかけた口のまま、まんざらでもなさそうに女も駆けていく。
それを皮切りに、皆が動き出した。女将に返してもらった猫を大事に抱いたイチカが、木箱に座っている年頃の娘たちの方へ歩いていく。一人の娘の前で足を止めると、これ見よがしに呟いた。
「ソウジさんどこにいるかしら……お手紙で一緒に過ごしましょうってお誘いしたのに、お返事がまだだから、探してあげなきゃ。ソウジさんったらぼんやりしてるんだから……」
イチカは十になったばかりの娘である。木箱に腰掛けた娘とは、かなり背の高さが開いていた。年長の娘は、黒々とした瞳を虚空に据えたままちらりともイチカの方を見なかった。
イチカの頭で癖っ毛の黒髪を括った赤いぼんぼりが揺れる。独り言を終えると、イチカは満足げに立ち去った。
年長の娘の肩を横の娘がつつく。
「ヤエ、向こうであたし達と飲むしょ?」
ヤエがこっくりと頷く。
「よーし、月見酒だ、ぜーい!」
威勢のいいかけ声に促されて、お喋りをしていた娘たちのいくらかが立ち上がる。残りは前掛けをとって服の煤を払ったり髪を気にしたりして、好い仲の相手を待つ準備をした。
先に寝かせた子供の様子を見に行ったり、酔い潰れているであろう亭主を寝床へ引き摺りに行ったりと年嵩の女たちも粗方去って台所が閑散とすると、女将は残った女から酒を一杯貰って飲んだ。桃の樹に供えられた酒は芳醇な花の香りが移って舌触りも良い。
台所に残った者たちは強いて追い出さず、女将は酔っ払いの世話を手伝うために広間へ戻った。
地べたに転がる赤ら顔の中央に、担ぐのに大の男が三人は要りそうな大樽が鎮座している。中身は殆ど空になっていた。
樽にもたれかかる恰幅のいい老人の姿を認めて、女将は声をかけた。
「あらフジさん、まだこっちにいたんですか」
フジヒム仙は低く唸って白髪頭を掻いた。だらしない風体の割にしっかりした眼が女将を見て、酒焼けしたしゃがれ声を出す。
「私もほどほどにして山に帰らねばならんなあとは思っているんですがね、いやはや、皆さんとお話しするのが愉快で堪らなくて……弟子が迎えにくるまでは居座りますよ、すみませんねえ女将」
「構いやしませんよ、でも、遅くなりそうですよ。ほら、あの子……仲睦まじいことで」
卓に突っ伏していた宿の旦那が急に顔を上げて茶々を入れた。したたかに酔って呂律も回っていない。
「へえ、へえ……けったいな出の余所もん同士、気が合うたあ……うまくできてらあ……」
女将は素早く旦那の二の腕を抓った。ひいぃと情けない声を出して再び顔が沈む。
フジヒム仙が腹を揺らして快活に笑う。
「あいつがゆっくりする間、私もゆっくりできるというものです。ねえ、本当に……海神飢竜に目つけられた坊主がいるから面倒見てくれと頼まれた時はどうなるやと思いましたが……海の男は気性が荒いと言いますからなあ、老体に務まるかと……」
「フジさんは誰よりもお元気じゃありませんか」
女将はそこらに転がって散乱する椅子を起こして、旦那の横に座った。酒を手元に引き寄せ、話に付き合う体勢になる。
「いい子ですよ、二人とも……レーエは炊事も洗濯も裁縫もなんでも一通り器用にこなしますしね。ただ、あの子みたいな気弱な娘が行く行くは仙人の女房だなんて人並外れたことを望みますかねえ」
「案外、記憶が戻れば豪胆な娘かもしれませんでしょう……それだと、さっさと帰って行ってしまいそうですが……天女のように……羽衣を隠しておかねばなりませんな」
「帰りたいって言うのを引き留めるもんじゃありませんよ、あの子にも故郷があるでしょうし……居つきたいってんなら里に置いてやればいいんです、似たような気性の善良な男の後妻にしてやればあの子も安心するでしょう」
うむ、うむ、と繰り返しながらフジヒム仙は困ったようにしきりに髭を撫でた。
「まあ、そのことは暫く放っておいてもいいでしょう。滅多なことは起こしませんよ。それより、浅屋敷の旦那さんは随分と頭を悩ませておいででしたよ。さっきまでそれも忘れて気持ちよく寝入っていて、手を貸してくれる奥さんににこにこ笑ってましたがね」
女将は途端に額に手を当てて呻いた。
「そうです、そうです……ヤエはとびきり気が強いですから……お転婆を超えてますよ、刃傷沙汰になんかならないといいんですがね……」
女将とフジヒム仙がぽつぽつと話す声と共に春の夜は更けていった。夜空には大輪の花をつけた姫神に遠慮するかのように、病人じみた蒼白い貌の月がぽっかりと浮かんでいた。