然れど、禍這い寄ること尽きず
森は静かだ。生き物の気配がまるでない。
これが山を降りていって桃の樹から離れれば話は別で、小鳥の歌や小動物の鼓動も聞こえてくる。姫神を祀る霊峰としての目には見えぬ囲いの外ならば、里の人間たちも踏み入ることができる。
内側に広がる自然に分け入るのは、数十年前から霊峰に居を構えるフジヒム仙と、二年前に彼に引き取られた弟子ばかりである。
別段、姫神から許しを得たわけではない。単に彼らが蟲の蔓延る領域に踏み込むだけの力を備えているというだけの話だ。
エゼキエルは師が姫神と直接言葉を交わしたとは聞いたことがなかった。だから大方、ある日突然やってきて己の身体の傍に図々しくも棲みついてしまった仙人の男に姫神は心底怯えて、追い出すこともできずにいるのだろうと思っている。
彼は師の元にいるためには姫神の意に反して神域に居座り続けなければならないのが耐え難く、自分たちの侵犯している立場を棚に上げて、いつまでも不躾な者共を裁かない姫神に腹を立て、憎んでもいた。受け入れられるはずもないのだから、それならば一刻も早く拒絶を叩きつけられたかった。
しかし、レーエと交流を持った今ではあの内気なところのある女に毅然として罰を与えるか、さもなくば受け入れろと言う方が酷ではないかと思われてならなかった。姫神そのものは彼女よりいくらか尊大ではあろうが。
逸れた思考を掻き消して目前の獲物に意識を集中させる。どれだけ努めても甘い残り香のような気配が脳裏を離れないけれど、エゼキエルはとっくにそういうものとして割り切っていた。
百足と蜘蛛の合いの子じみた形の蟲である。他の蟲と似たようなどす黒く膿んだ体色をしている。表皮は硬質で甲虫の艶がある。牛二頭分はありそうなその蟲は三本の木にまたがって陣取り、歯軋りのような音で威嚇してくる。
見てくれのわりに巣は作らないらしい。周囲にそれらしいものは見当たらない。ただし、腹に粒々した袋を抱えている。
エゼキエルは蟲が登った木に足をかけて揺らした。木の葉の雨が落ちてくるが蟲は枝や幹に強固に脚を絡めてしがみついた。根のように枝分かれする脚の節目に狙いをつけて槍を突く。
硬いものがひしゃげる手応えがあって、鮮魚のようにのたうつ脚部が千切れる。数度繰り返すと、蟲の体が傾く。
青白い穂先が蟲の頭部から胴にかけてを斜めに貫いた。
途端、蟲は激しく身悶えしてがむしゃらに残りの脚を振り回す。顎を噛み合わせても空を切るばかりで、少年の体とはいくらかの距離がある。腹の中から焼かれた蟲の、なんとも言い難い乾いた匂いが立ち昇る。
萎えかけた脚の一本が、鞭のように蟲の腹部を掠める。脆い膜があっけなく破れる。途端、両の掌大の蜘蛛の子が勢いよく飛び散った。
エゼキエルは蟲に突き立てた槍を下に薙いで腹を裂いた。生暖かい体液が吹き出す。片手で腰にへばりついた蜘蛛の子を握り潰して投げ捨て、槍を持ち替えて大地を穿つ。槍を中心として半球状の気が拡散する。
激しい明滅、落雷の轟きが重なる。粗方の蟲は塵と化したが、同時に山をも抉る衝撃である。下生えは一掃されて灰になり、木々は焼け焦げ、青白い炎がちらちらと木のうろを舐めている。
こんなことを、繰り返してはいけないと少年は理解していた。やけになって山を焦土に変えてまで、蟲を滅ぼそうとするべきではない。
僅かに過ぎった自制心は、視界の端に逃げていく矮小な蟲を捉えた瞬間に隠れてしまう。痛々しい惨状を振り返らず駆ける。
疾駆するうち、姫神の身体に、桃の樹に、近づきすぎていると思考の隅で警鐘が鳴る。槍を振りかぶる。
蟲が、醜い脚で桃の根に這い上がる。風を切る音が迫る。寸分狂わず射抜くかと思われた刃は直前で弾かれて地に落ちた。まんまと逃げおおせた蟲が根の向こうに消える。
一拍遅れて追いついた少年が舌打ちをして槍を拾う。口の中で蟲の幸運を罵る。いつもなら、即座に踵を返すところだった。春は蟲がうじゃうじゃと湧くから、一々感傷に浸っていてはきりがない。
拳を握る。たこや傷痕でごつごつした、あまり美しくはない手だ。潮風を浴びることがなくなっても、絹のような肌になったりはしなかった。そっと開き、掌を宙に押し当てる。
もうここは桃の樹の根元だ。濃密な芳香が空気に溶け込んでいる。ある程度まで手を伸ばしたところで、柔らかい障壁に拒まれる。
力任せに押し込んでも、それ以上向こう側に触れることは叶わなかった。
穢れた蟲たちは自由に這い回り、桃の樹皮を犯すにも関わらず。
かっと喉の奥が灼ける。
苦しげに助けを求めてくるくせに、助けを向かい入れようとはしないのだ。そうやって善意のふりをして近づこうとする者の方がよほど悪質なのだと言わんばかりに、頑なに拒み、しかし排除はしない。
この神性はなんて邪悪な女だろうと、歯噛みするしかないのだ。ここに来たばかりの頃は気が触れたように許してくれ、行かせてくれと足掻いたが、もう利口なふりをするようになって久しい。
まともに向き合い続ければ、あたまがおかしくなりそうだった。まるで、慕う女が暴漢に犯されながら、お前には助けられたくないと罵ってくるようではないか。
自分がわけのわからぬ癇癪を起こす前にと、エゼキエルは足早に立ち去った。大きな蟲を仕留めた場所に戻ると、木々の炎は消えていた。綺麗に円を描く荒地を師に見つかれば小言を言われるのは間違いない。エゼキエルは頭を振って考えないようにした。
小さい蟲の死骸を掻き集めて蜘蛛のような蟲の腹に詰める。ずしりと重い脚を掴み、蟲を焼くための場所まで引き摺っていく。
山を降っていくと、歌や楽器の音色と笑い声が聞こえてきた。レーエを祠へ連れて行ってから一週間かけて行われた宴の最終日、今は騒いでいるがそのうち皆疲れて寝入るだろう。師はどうせ年長者と宿にたむろしているから、女将に迷惑をかけないように夜更けには回収する予定になっている。
だが、そんなことはエゼキエルにとってはあまり重要ではなかった。あれ以来時間を重ねて、レーエの態度も怯えは鳴りを潜め、大分打ち解けた。山中に散らばる死骸をまとめて焼き、水を浴びる頃には日は暮れていようが。
(ひやかしに行くか)