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神仙棲まう桃の霊峰  作者: 砂骸
春の章
3/25

桃花の林、中に雑樹無し

 いつまでも引き伸ばしたくなるような苦行は、前方に朱に塗られた小ぶりの祠が現れたことで打ち切られた。

 レーエが包みから盃を取り出すために手を離した時、エゼキエルは追いかけそうになる指を拳を握って押し留めた。


 桃の樹の幹にはまだ距離がある。祠は地表に出ている桃の根のうち一際太いものに寄り添って建てられていた。果実の装飾が彫られた台へ空の盃が乗せられると、朱色の漆器の底からたちまち蜜色の液体が湧き上がって盃を満たした。


 予め聞かされていただろうに、レーエは戸惑いも露わにエゼキエルに視線を向けた。エゼキエルが静かに頷いてやると、意を決して盃を口に運ぶ。

 細かな手順は無い。レーエはただ盃を干せば良い。姫神が恵んだ果実酒がその身を潤すだろう。


 エゼキエルも、他人が儀式に及ぶところに立ち会うのは初めてだった。二年前に師に付き添われて彼が同じことをして以来、姫神への挨拶を必要とするほど里と深く関わることになった外の人間はいない。年に一度、その年に生まれた赤子を集めて似たような意味合いの儀式が行われるが、赤子に山を登らせるはずもなく、母の胸に抱かれた子らの唇に桃の果汁を塗ることになっている。


 懸念はあった。何しろ、今は記憶の底が抜けていようとレーエは姫神その人の化身であるのだから。

 レーエが盃を傾ける。花のようなかんばせが器に口をつけ、なみなみ注がれた酒に波紋が浮かぶ。

 ふうわりと墨の色をした黒い髪が舞い上がる。濡れたように輝く眼は今は彼に向けられていない。


 つむじ風が吹いて桃の花弁が視界を遮る。花の嵐に盃を手元から攫われて、台へ落っこちた拍子に酒の雫が飛び散った。

 酒精が香る。頼りなく、浮ついた声。


 「姫神さま、私は、どこから来て、どこへ行けば……」


 レーエは伏し目がちに呟いた。それは彼女が今日まで人目に触れぬようにしてきた感情の吐露であった。彼女は悪しき雷によって奪われ、自らが虚偽の身の上を伝えられたことを知らず、ましてや相対した少年が邪心を抱いていることなど知るよしもなかった。

 だから、行き場のない不安を抱えて自らの身体へ縋る愚行に及ぶ羽目になる。


 「この世のどこかに、私を待っていてくれる者がいるのですか、それとも、居場所を追われて行くあてもなく出奔した愚かな女を貴女さまは拾い上げ、この里に迎え入れてくださったのですか」


 空気がざわめいた。祠の後ろ、苔むした桃の根から金糸が伸びる。樹皮が剥がれ、神気が脈打つ。

 堕ちた果実が朽ちて根に吸われる。そうであるべきだったのだ。姫神が、彼女の化身を迎え入れようと根を伸ばす。

 金糸がレーエの肩に腰に絡みつく。レーエは喜ぶでも悲しむでもなく静謐な面持ちでその光景を眺めていた。


 からん、と乾いた音が鳴った。エゼキエルが盃に残った酒をあおり、投げ捨てる。繭のようにレーエを囲む桃の根の糸に手を伸ばす。

 指が触れた途端に金糸の先が枯れ草じみて色褪せ、萎えていった。塩気にやられて最早何の力もない蔓を引き千切る。易々と折られてぼろぼろと灰を溢す。


 「私は、何者なのか……ひどく、心細くてかなわないのです」


 依然としてレーエは姫神へ憂いを紡いだ。どこか虚ろな様子で心ここにあらずといったところである。もしかすると酒にあまり強くないのかもしれない。


 エゼキエルが力任せにレーエの腕を引く。

 彼を構成するものは天辺から爪先まで彼女と、姫神の祝福を受けるこの地と相容れないのだろうと、エゼキエルにはわかりきっていた。彼がもう少し悲観的な人間であったならば言葉を交わすこともなかっただろうに。


 「帰りましょう。じきに日が暮れます」


 レーエはぐったりと項垂れたまま、手を引かれて祠を離れた。睫毛に縁取られた黒い瞳は忘我に潤み、奇妙な熱心さでもって握られた手を見つめた。

 次第に木陰を縫って夕陽が二人の影を長く伸ばすようになった。


 不意に、レーエが立ち止まる。振り返ってとうに見えなくなった祠の影を探す。

 エゼキエルは桃の樹をその眼に映すまいとするかのように構わず歩き続けた。細い腕を引く。

 そこでようやくレーエはエゼキエルに気づいたようだった。あ、と掠れた声で誰何しかけて口をつぐむ。動揺を振り払うように目を瞑り、笑みの形を作る。


 「ごめんなさい、ぼうっとしていました。私は……この里にいることを許して頂けたのでしょうか」

 「万事滞りなく……ああ、いえ。女将が貸してくれた盃を置いてきてしまいました。回収しておいて明日の朝、宿に顔を出すとお伝えください」

 「っ、申し訳ありません。私が……」


 エゼキエルはそれ以上言葉を重ねずに黙って首を振った。そうされてしまうとレーエは黙る他なくなる。

 他愛もない話をした。昨日子供達が凧揚げしていたのは見えたかとか、宿の食卓にあがる山菜が美味しいことだとか、彼の師が何でも引き受けてきては彼に丸投げするんだとか。


 嘘に嘘を塗り重ねてレーエを人に留めておこうとする。今のところその企みは上手くいっていた。

 頬を染めて笑うレーエが、心の内では戻らない記憶を恐れて不安に駆られている。それも、夏までのことだろう。姫神の力が増す夏になれば、記憶を遮る雷も抜けてしまう。

 山を下りる頃には夜闇が膨らんでいた。里の灯籠の明かりが近づいてくる。


 「私の歩くのが遅いせいで、すっかり暗くなってしまって……今日はありがとうございました。今から御山で……あれらの、後片付けをなさるのですか?」

 「夜更けまでには済みますよ」


 エゼキエルは怯えるレーエを思い出したのか、苦笑いを浮かべた。幸いにも道中見かけなかったが、時間が空いたので死骸を別の蟲が食っているかもしれない。無論、わざわざ言わずとも良い話だった。


 里の門の前で、提灯を持った娘が手を振っている。女将が迎えを寄越したのだろう、宿でレーエと同じように働く少女の声だった。レーエは見知った相手だと気づいて顔色を明るくした。手を振り返す。

 ここで別れるかとエゼキエルの顔を窺うも、彼は手を繋いだままぽつりと言った。


 「ヤエは貴女に辛くあたっていませんか?」

 「とんでもないです、皆さん、とても良くしてくださって」


 握られた手が熱い。ざらついた皮膚の厚みがまざまざと感じられる。


 「……つまらない冗談を言いました。ここは善良な集落ですから、どうか安心してお過ごしください。何か困ったことがあればオレも力になれるでしょうから」


 ヤエの元へと近づいている最中に、問いの意図を深く尋ねるのは憚られた。

 レーエは困惑しつつも、一言だけ尋ねた。


 「またお会いできますか?」

 「明日にでも。ご迷惑でなければ、またお話しできるのを楽しみにしています」


 やはり、レーエはこの少年と話していると気後れすると思わずにはいられなかった。背筋がそわそわして、平静ではいられない。

 レーエはエゼキエルの瞳を覗き込まないように気をつけて、別れを告げた。

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