往来する男女、怡然として楽しむ
少年が女と再び顔を合わせたのは、それから実に十日ほど後のことであった。少年が山で行き倒れていたところを見つけたらしい旅人の女は、運び込まれた女将の宿で五日間こんこんと眠り、目覚めた時にはすっかり記憶を失っている様子だった。
仙人の見立てでは命に別状もないというので、女は面倒見の良い女将に世話を焼かれつつ、細々とした手伝いをしながら記憶が戻るのを待つことになった。
「ああ、来た、来た。ほら、レーエ。あの子だよ」
女将の指差す方角から、巨大な影が近づいてくる。レーエが目を凝らすとそれは身の丈の数倍ある酒樽を担いだ少年だった。レーエの方を見て会釈をし、近づいてくる。
酒樽で日光が遮られて二人の顔に影がかかる。瑠璃色の瞳がやけに印象的だった。
射すくめられて気後れするレーエに、少年が口を開く。
「お加減はいかがですか」
「ぁ……っ、はい、ええと、何も悪いところは、無いと……」
消え入りそうな返答は女将に遮られた。勢いよく少年の背を叩き、おどかすんじゃないよと小言を言う。少年は眉を下げて謝罪を述べた。レーエが慌てて首を振る。
「神酒はどこに置きましょう」
「裏に旦那がいるから聞いてちょうだい!」
少年は一つ頷くと行ってしまった。あれだけ大きなものを担いでいるのに、足音が殆どしないのが奇妙だった。
「ずっと南の方の出らしくてね、ちょっと風変わりな見た目だけど、働き者のいい子だから良くしてやって」
「南の方の……」
「そうさ、なんでも、大きな港のある街なんだと」
海って知ってるかい、と尋ねられてレーエはふるふる首を振った。あたしも知らないやと女将が大声で笑う。
不意に女将が口を閉じた。抱えていた包みをレーエに渡す。
「いけない、神酒が届いたんだ。花飾りを分けてもらっておくんだったよ。ここで待ってな、あの子にはちゃんと言っとくから」
「はい、行ってまいります」
慌ただしく去った女将を見送り、宿の塀を背にしていると上から声が降ってきた。
「姉ちゃんどっか行くの?」
振り返って、レーエは仰天した。宿の庭に植わった松の枝に宿屋の子供がよじ登っている。すぐにちょうどいい位置まで辿り着くと腰掛けて足をぶらぶらさせる。
「そんな、危ないです、リョウ……」
「へーきだって。ね、どこ行くの」
「お山に行って、姫神さまへご挨拶をするんです」
「いいじゃん、春だしなあ。おれも行きてー」
レーエがおろおろと慌てふためく。動揺する様子が面白いのか、リョウはケタケタ笑っていた。そこへ用事を済ませてきたらしい褐色の少年が顔を出す。陽の下では彼の白髪が眩しく見えた。
「遊びに行くんじゃありませんよ」
淡々とした言い方に、リョウが突っかかる。
「エルずるいぞ」
「ならオレが風呂屋の旦那に今日はリョウはサボりだと伝えておきましょう」
「ひでーや」
松の枝が身じろぎに合わせて大きくたわむ。リョウの姿が塀の向こうに消えたので、レーエが驚いて安否を問う。
少年が肩をすくめてみせた。塀の下をくぐって、リョウが転がり出てくる。
「じゃーな!二人とも気をつけてけよ!」
レーエは勢いよく走り去って行った子供に手を振るのも間に合わなかった。呆気に取られて後ろ姿を見送る。
少年はレーエがいくらか時間をかけて本来の目的を思い出すまで大人しく待っていた。彼女が我を取り戻して必死に頭を下げるのを押し留めて名乗る。
「オレはエゼキエル。畏れ多くも参飢天仙の位を戴き、この地で老フジヒム仙に師事しております。先程は不躾に見つめてしまって……女人相手に失礼でした。申し訳ありません」
「レーエと、申します。ええと、そう名乗ったと聞きました。私こそ……失礼な真似をしてしまいました、こんなに丁寧な方なのに」
エゼキエルが面食らったように目を見開く。居心地悪そうに視線が逸らされる。
「ああ……こうしているとわかりにくいかもしれませんが、くだけた言葉を使うと南部訛りが出るようで……里の皆さんの喋り方はなんだかおっとりしていますよね」
「そうでしょうか?女将さんはきびきびした話し方をするなあと……」
レーエはそこまで喋ってから否定するようなことを言ってしまったと思って表情を硬くした。徐々に語尾が掻き消えるのを聞きながら、エゼキエルがふっと笑う。
「女将にはオレもとてもお世話になっています。なんだか、母さんに似ている気がして」
内密にお願いします、と囁かれてレーエはこくこくと頷いた。
「では、参りましょうか」
「はい」
レーエは落ち着いた態度の年下の少年を相手にやはり気後れするものを感じずにはいられなかった。今まで出会った里の者たちの中に内気で気弱な女を見下す人間がいなかったことは彼女にとって幸いであった。
◇◆◆◆◇
道行きは順調だった。意外にもレーエは山道を大して苦にもせずに進んでいく。エゼキエルが彼女を旅人の女だと偽ったのが真であるかのような健脚である。あるいはそれは、彼女の神性の気が整う姫神の領域に限られた話なのかもしれなかったが。
エゼキエルは姫神の化身を攫ってきて、まず師にその旨を述べた。行き倒れの女だとして里に連れて行くつもりだと言っても、師は彼を止めなかった。理由も聞かず、彼の愚行を認めてしまった。
(オレが後生大事に姫神を抱いて帰ってきたんだから、さぞ愉快だったろうよ。その場で踊り上がるのは堪えたのを感謝してやりたいぐらいだ)
彼には己の師が何を望んでいるのか、攫われてきた女に何を期待しているのか、手に取るようにわかった。このままではその通りになるという危機感が働いてはいたものの、既に女を元いた場所に戻してくるには遅すぎた。
女を堕ちた果実として地で朽ちさせるくらいならば、鉤爪で引き裂かれる方が彼にとってずっとましだった。もしくは、この辺境の山奥に常人の何倍もの時間を縛りつけられることになろうとも。
横目でやや遅れてついてくるレーエの様子を伺う。相変わらず、溜息を吐きたいくらい蕩けるように美しい女だった。どこか仕草はあどけなく、温厚で控えめな気性が見て取れる。
あの嵐の日以来、否、物心ついた時から、彼の肉体を巡る血潮には所以のない怒り、焦燥が焼き付いている。この里の人間には見受けられないから、もしも人種的な欠陥だと指摘されれば彼には反論が用意できない。意識を苛み続けるそれが、桃の甘い芳香を浴びていると和らぐ気がした。
頑なに彼を拒んで、決して手に入らないと思っていたものだ。それが今、人の形をとってエゼキエルの隣を歩いている。
人の形をしてさえいなければ、欲求を振り払うこともできたろうに。
「エゼキエル?」
「どうか、なさいましたか。休憩をとりますか?」
エゼキエルはどこか夢見心地のまま答えた。レーエが恥じいって頬を染める。
「その……私の顔を見ているのかと思って……何かお話ししませんか?」
レーエの言葉は冷や水で打たれたかのような衝撃を与えた。一気に現実に引き戻されたエゼキエルは顔を顰めて片手で目元を覆う。
「……無礼をお許しください。こんなことばかりして、貴女がオレに呆れてしまわないといいのですが」
今までになく感情的な色のある声だった。レーエがぎこちなく笑って話題を変える。
「そんなこと、ありません……ほら、先程大きなお酒の樽を運んでらっしゃいましたけれど、お祭りがあるのですか?」
「ええ。あれは新年の祈祷式用のものですね。春は祭事が多くて、賑やかですよ、ここは。オレも二年前から参加しているだけですが、この季節は皆の顔つきが一際明るいですね」
「それは楽しみです。貴方は……エゼキエルも、お祭り、お好きですか?」
エゼキエルは一呼吸置いて、躊躇いがちに口を開いた。霊峰の中腹に差し掛かり、遠くで小川のせせらぎが聞こえる。
「好きだ、と言いたいところですが……準備のために山と里を日に何度も往復することになったりして本当は辟易する時もあります」
木々の葉がまだらに影を落とす。レーエは言葉の続きを待ちながら、少年の横顔を見つめていた。影がかかっているとやはり瑠璃のように青い瞳が鮮烈で、肌の色も何もかも、彼はちがうということを忘れてしまうとぼんやり考える。
「それでも、霊峰を彩る桃の花が美しく咲けば、報われる気分になるのだと、皆が励む気持ちが少しわかるようになってきたかもしれません」
彼の視線を辿って、天に枝を広げる桃の樹を仰ぐ。里からも目視できる巨木はこうして歩いていっても近づいているのかどうかわからない程に大きい。花は七分咲きといったところか、空が春の色に彩られている。
「この地の神と人は、素敵な関係を……っ、……すて、き……ああ、うぅぅ……」
弱々しく袖を引かれ、エゼキエルは周囲を警戒する。レーエを連れて行くことは前もって知らされていたので朝に一通り狩っておいたはずだが、彼には知覚できない脅威を姫神の化身たる彼女が感じ取って怯えているのだとすれば厄介だ。
「ごめんなさい、大丈夫です、もう……命はない、のでしょう?」
「えっ」
そこまで言われてから初めて、傍に蟲の死骸が転がっていることに気づく。彼はこんなのには慣れきってしまっていて、今危険が無いならばと完全に意識の外に置かれていた。
人の身の丈程はありそうな巨大な蟲である。ずんぐりした頭から伸びる胴と腹は括れていて、全体的にぶよぶよと弾力があって薄気味悪い。黒い肌を貫く傷痕から青っぽい体液が滲み出ている。彼が槍を振るった傷だ。
エゼキエルは頰を引き攣らせ、死骸を蹴り転がした。ひっくり返った腹部から生える、毛のような脚のような触手が晒される。ぴくりとも動かないが、悍ましい光景であることには間違いない。
そのまま荒々しく茂みへ蹴り飛ばして隠すけれど、エゼキエルはこの先の死屍累々の惨状を思い出して顔を青くした。といっても、彼の顔色は浅黒い肌のおかげで滅多に読み取れるものではない。
「くそ、失敗した……」
小声でぼやく。聞こえてしまったのか、びくりとレーエが肩を震わせる。癖で舌打ちまでするのを堪えたのは僥倖である。
「片付けるのは帰りでいいかと横着を……気が回らず情けない限りです。お傍を離れるわけにもいきませんし、貴女が許してくださるならば上まで担いで駆けますが」
「いえ……私は一人で旅をしていたはずなのに、こんなことではいけませんね。代わりに一つお願いをきいて頂けますか?」
「オレにできることであれば」
数秒後、少年は目元を紅潮させて俯いていた。おもむろに重ねられた手をしっかりと握り込む。レーエの手はひやりとしていた。
予想通り、登って行くほど蟲の死骸を多く見るようになった。レーエは芯から怯えきってしまって、表情を硬くしてエゼキエルに身を寄せてくる。
会話もなく、黙々と進む。
(息が、甘ったるい)
喉の奥で唸る。頭に熱が回って考えがまとまらない。だというのに不思議と内心は凪いでいた。