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神仙棲まう桃の霊峰  作者: 砂骸
春の章
1/25

漁人、桃花の姫に逢う

 滝の飛沫で白く泡立つ水面がぼやけた陽光を透かしている。滝壺の底から、どこか遠い場所を眺める気分で光を見上げる。水の音は鼓動のようだ。しかし、何か違う。


 彼は泳ぎが得意だった。生を得た時より強烈な日差しに炙られ、潮風に肌を灼かれて生きてきた。川のせせらぎは海のさざ波ではなく、ここは彼の四肢に刻み付けられた約束の地ではない。

 彼は未だ山に受け入れられていない。彼は未だ山を受け入れ、この地を己の生きる場所と見定めてはいない。


 目を瞑る。髪や皮膚に絡みついた蟲の体液が清流に洗い浄められていく。

 ふと、芳香がよぎった。彼はそれを、鼻で、目で、耳で、口で、肌で、感じずにはおれなかった。彼の中の海神の気が、嵐のように荒ぶった。


 直感的に、水底を見下ろす。何の変哲もない岩と砂利だった場所が、黄金の蜜の渦に呑まれていた。向こうから、悍ましい気配がする。死を纏う乾いた風と、それを塗り潰さんばかりの桃の香り。

 苦しげに喘ぐ、嬌声めいて甘美な女の声。


 肌が粟立つ。脳が揺さぶられ、惹きつけられて堪らない。今すぐ重苦しい肉の器を脱ぎ捨てて、一片の魂と化して数秒後に消え果てようとも、深く深く潜って行きたい。できるはずだ。泳ぐのは得意だから、何より、あの女の元へ行くのだと思えばいくらでも力が湧いてくる気がした。


 ぎりりと奥歯を噛む。芳香を振りきって浮上する。邂逅は初めてだったが、彼はこの神秘の正体が何であるか、師に教えられていた。

 水面から少年が顔を出し、岸へ上がってくる。痩せた狼のような細身に白髪褐色、麓の里の民とは明らかに人種の異なる鋭利な貌立ちをしている。


 少年は槍を取ってじっと滝壺を睥睨した。滝の水嵩に遮られて渦は窺えない。

 穂先が青白く輝く。刃を下に向け、両手を組んで捧げ持つように槍を握る。先端が水面に触れる寸前、ぐにゃりと水が弾力を備えて刃を拒んだ。


 少年は自らがひどい苛立ちに襲われていることを自覚した。簡単なことだ。山は雷を嫌う。山は海の塩気を嫌う。桃の霊峰が彼を向かい入れるはずがない。

 子供じみた癇癪が膨れ上がる。彼の中で海神が暴れ回って怒りに油を注ぎ、暴力的な衝動を育む。


 何もかもは、あの女に出逢ったせいだ。ここへ来てから丸二年、姿を現す気配もなかったくせにとうとう今日、予兆もなくふらりと隙を見せた。あの芳香を漂わせる女が手に入らないから彼はこんなにも激しく掻き乱され、故郷を奪った竜の力を借りてでも胸を刺し貫いて殺してしまいたいと考えずにはいられない。


 力任せに槍を押し込む。雷光が明滅して火花を散らす。滝の音を掻き消すほどの衝撃が襲い、一瞬意識に空白ができる。

 滝を流れ落ちてきた桃の花が一輪、浮かんでくる。少年の気を逸らすにはそれで充分だった。素早く槍が花を穿ち、灰に変える。

 穂先を払う。深呼吸をして、抑えがたい激憤を宥める。ぐしゃりと前髪を掴む。


 (もう蕾が開く季節か)


 三度目の春が、やってくる。

 天を仰ぐ。山に登る陽は柔らかくあたたかだ。うららかな桃源郷を守護する霊峰、その天辺の桃の巨木に見下ろされている。ぽつぽつと愛らしい桃色が視界に散る。


 ここでは生きていけないのに、あの目が覚めるような潮水を浴びていないと生きていられないのに、少年はここに来た。真水に放り込まれた海の魚のように、彼はみじめだった。

 二度と故郷の海に還ることの叶わないみじめさに溺れて、常に苛立ちに付き纏われながら、彼はいっそ槍で喉を突くでもなく日々をもがいていた。


 滝を落ちてくる薄紅色の花弁が水流に弄ばれて震える。その動きは些か奇妙だった。流れに逆らって滝の下に留まり、くるくる回る。なんとはなしに花弁を目で辿るうち、息が止まった。

 ほっそりとした白い脚が、爪先を滝壺に浸している。桜貝のような小さい爪が綺麗に並んでぴくりとも動かない。気配は無かったはずだが、もし密かに岩陰で体を休めていた里の民か旅人が少年が放った雷撃によって負傷したのだとしたら事である。


 「もし。お怪我はありませんか」


 呼びかけても返事はない。どおどおと滝が叫ぶばかりである。


 「其方へ参りますよ」


 岩の裏に回り込むと、滝の裏の崖が窪んだ場所に女が一人倒れていた。そうと気づいた途端に匂い立つ芳香が身を包む。

 少年はすぐに後悔した。異変を悟りつつも己のままならない怒りに拘泥して愚を犯した。しかし後悔も長続きはしない。


 薄紅色の衣がはだけて女の肌が晒されている。意識は無いようだが、零れ落ちそうなほど豊満な胸が規則的に上下している。肌は果実のように瑞々しく、顔色も悪くない。

 横たわる女の周囲には沢山の桃の花弁が流れ着いていた。少年が近づいていくと、花弁はどれも自然と水流に身を任せて離れ、川を下っていく。

 烏の濡れ羽色をした髪は腰から先は水に浸かってふらふら揺蕩っている。花弁のいくつかが女の髪に絡め取られる。

 少しだけ開かれた唇が婀娜っぽく彼を誘う。そうかと思えば次の瞬間には無垢で侵し難い神聖なものであるようにも見える。


 先程遭遇した神秘も、この女の正体も、既に知っていた。

 いつかのこと、故郷を追われて安楽の地を求める人々を憐れんだ天子が、自らの婢女を桃の苗に変えて荒れ果てた死地の岩山に根付かせたという。

 即ち、この霊峰に祀られる神こそは名を神女レーエとする姫神である。


 早咲きの桃が実を落としたか。少年は槍を置いて女の傍らに膝をついた。

 これなるは桃の姫神の化身。暫し寝かせておけば自然と大地に溶け落ち、霊峰を覆う桃の根に吸われて消えるであろう。あるいは、このように肉体が顕現していれば願うままに腹を裂き首を落として速やかに消滅させるのも容易い。

 どちらにせよ、何か意味を成すわけでもない、僅かな邂逅となるはずだ。


 (……乳がでけえ)


 無理そうだった。


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