最終話
しかし、彼女は生き続けることはできなかった。それから、数日して彼女は静かに息を引き取った。
「本当にありがとうございます」
彼女が亡くなり、葬儀もすませ、彼女の母親の家の一室に置かれた仏壇の前に座り、ゲクトは愛する人の写真に手を合わせていた。傍らでそれを見ていた彼女の母親がポツリと呟いた。
「葬儀だけでなく、こんな立派な仏壇まで…」
「気にしないで下さい」
彼は身体を母親に向けると静かに微笑んだ。
「失礼なことは承知ですべて手配させてもらいました。彼女とはいずれ結婚をと思っていましたので、婚約者として当たり前のことをしたまでです。たとえ、これから何年経とうとも、彼女は僕の婚約者だという気持ちはなくなりません」
「それは、それは嬉しいことですが…ですが、あなたは生きている人なんですから、娘のことは忘れて新しい人と幸せになって…」
「確かに」
彼女の言葉をさえぎり彼は続ける。
「確かに、これから他の女性と新しく出会い、愛し合い、もしかしたら結婚ということはあるかもしれません。それは否定できません。ですが、今はまだ彼女は僕の婚約者です。その事実は変わりありません。そして、たとえ新しく誰かと一緒になったとしても、僕は智香のことは絶対に忘れません。彼女を愛した僕も僕という人間を形成しているわけですから、智香への愛情ごと僕を愛してくれる人でなければ、僕は一生誰も愛することはないでしょう」
「…………」
智香の母親は言葉を失った。そして、泣き崩れた。
その様子を慈愛に満ちた視線で見つめ、ゲクトは、再び仏壇の智香へと心で語りかける。
(君と過ごした最期は確かに辛かった)
知らずにいたらどんなに幸せだろうと思ったことも確かだった。彼は強く願えば彼女に奇跡が起きると信じていた。病気さえもよくなることだってないわけじゃない、と。現にそんなふうに死から免れた人だって過去にいなかったわけじゃない。だから、彼女だってもしかしたら、という思いもどうしても持ってしまうのはしかたないことだった。きっと、彼女も大丈夫だと。彼女は辛い思いを彼にさせたくないから病気のことを知らせたくなかったんだろう。だが、彼は彼女のすべてを知りたい、愛したいと思った。それなら、彼女の最期もちゃんと見届けなくちゃいけないだろうと彼は気づいたのだった。
(誰かを愛するってそういうことなんだよ、きっと)
だから、彼は彼女の分も生きる決心をしたのだった。どうしても助からなかった。どんなに願っても叶うことの無い願いだったが、いなくなってしまった彼女に囚われてしまったら、きっと彼女も悲しむだろうと、それは、彼女が言った言葉で気づいたことだったのだ。
「ティーカップの器か受け皿、どちらが壊れたとしても、新しい器や受け皿を持ってくることはできるわ。セットじゃなくてもぶかっこうでもしっくりくるデザインが必ずどこかにあるはずだから。気に入ったものはそうやって使い続けることができるから。だから、あのティーカップ、あたしとだけじゃなくても誰かとも一緒に使ってね。使われないティーカップほど悲しいことはないから」
彼女はやはり自分は長くないと気づいていたんだろう、本能的に。精一杯、彼に対して、自分がいなくなっても悲しむな、と、自分の分も生きてくれと、そうメッセージを彼に残したんだろう。それに彼は気づき、その彼女の気持ちをちゃんと受け止めたのだ。
(俺はこれからも君の分もずっと生きていくよ。そして、君ごと俺を愛してくれる人をいつか見つける)
「それでなのね。毎年これくらいの頃に花束持ってどこかに行くかと思ったら、そういうことだったのかー」
「…………」
貴世子の言葉に頷く。
「ほんと、波乱万丈な人生を歩んでるのねえ。わたしがあなたと知り合ってからも、ずいぶんとあなた浮名を流してきたけれど、わたしと知り合う前にもいっぱいそういうのあるんだもんなあ。よくそれで立ち続けられるわよね。わたしなら崩れてしまいそうだわ、そんなしんどい人生」
溜息をつきながらそういう貴世子に、ゲクトは身体を近づけて耳元に囁いた。
「そんなかわいそーな俺を今夜は慰めてくれよ…イテッ!」
いきなり頭をはたかれる。
「何だよ、冷たいヤツだなあ」
「何言ってんのよ。彼女の話をしたあとにそういうのってないでしょ。少なくともそういう話をした時くらいは慎みなさいよ。きっと、彼女、聞き耳立ててるわよ。なんでこんな薄情な男愛しちゃったんだろうかって」
「む…彼女は俺が幸せになることはきっと賛成してくれると思うんだけどな。生きてるんだから、楽しく生きなくちゃ。俺が楽しく幸せに生きれば、彼女も幸せになれる。間違いない!」
「あんた、酔ってるね」
「酔ってませぇーん!」
「…………」
大きな溜息をつく貴世子だった。だが、彼の目は決して酔っている目ではなかった。
(酔えるわけないじゃんか…)
ゲクトは心で呟いた。そして、鼻歌を歌いだした。それは、智香が死んだあとに作った彼女に捧げる歌「孤独な風」だった。それに貴世子は気づいたが、知らんふりをしつつ、じっと聞き入った。
君を初めて抱いた時に
僕の頬を孤独な風が通り過ぎていった
すべての君を愛したいと思った瞬間
僕らの目の前に赤く染まった空が広がったね
愛してると囁いて
愛してるわと応え
ずっと抱き合い僕らは生きていく
僕の魂と君の魂と混ざり合って
僕らは孤独な風を二人の風に変えていくよ
泣き顔が笑顔に
痛みを空に返して
柔らかな風はすべてを包み込んで消えていく
抱きしめた君の身体の温もりを
僕は決して忘れない
君の涙も苦痛も幸せもすべてすべて
僕の魂に刻んで
僕と君の風はどこまでも吹きぬけていくだろう
どこまでもいつまでも吹き抜けて