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Tea Cup  作者: 谷兼天慈
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第5話

 だが、二人の幸せは長くは続かなかった。

 新曲作成のために何週間か家に帰れなかった時があった。出来る限りケータイで連絡を入れていたが、数日それもできないくらいに忙しかった時があり、やっと家に彼が帰った時に、彼は誰もいない冷え切った室内を見て茫然とした。

「…………」

 テーブルに一揃えのティーカップのセットが置かれてあるだけで、書置きも何もない。彼女の持ち物も何もかもなくなっていた。

 一体何が起きたのか、彼は思考が止まってしまい、しばらく何も考えられなくなってしまった。彼女はどこに行ってしまったんだ?

 前に住んでいたアパートは引き払った。そこには帰れない。だとすれば。

「母親のところか」

 彼はそう気づくと、直ぐに行動を起こした。彼女の実家はわかっている。車を飛ばして彼女の実家のアパートにたどり着く。チャイムを鳴らし、家人が出てくるのをイライラしながら待つ。思わずドアを叩こうとしたその刹那、ドアが静かに開けられた。

「智香!」

 ゲクトの声にドアを開けた人物はびっくりして声も出せなかった。智香によく似た女性だった。どうやら母親らしい。

「ああ、お母さんですね。大声を出してすみません。あの、智香はいますか?」

「………」

 彼女は複雑な表情を見せた。それでいて目が潤んでいた。

「お母さん?」

「ここにはいません…」

 か細く呟くように彼女はそう言った。その身体は震えていた。

「嘘、ですよね。彼女、ここにいるんでしょう?」

「い、いません」

「いないわけがない!」

 カッとなってゲクトは怒鳴って、それから中にいるはずの彼女に向かって叫ぶ。

「智香、出ておいで! うちに戻ろう!」

「本当なんです!」

 すると、思いのほか強い声で智香の母は叫んだ。それは泣き叫ぶといった感じの叫びだった。それを見た彼は何かただ事ならぬことが起きていると感じ、彼女の母を問い詰めた。

「では、彼女がどこにいるか教えてください。彼女に逢わせてください。どうして僕の前から消えてしまったのか。お願いです。彼女に逢わせてくれ!」

「………」

 彼女は彼に両肩を掴まれ、そう懇願され、さめざめと泣いていた。

「あの子に、彼がきても追い返してと言われたのです。あなたには逢えないと」

「どうして?」

「………」

「お母さん!」

 彼の大声に彼女は身体をビクッとさせた。そして、目を閉じる。その閉じられた瞼から涙が零れ落ちる。それから目を開けると目の前の彼を真っ直ぐ見詰め言い始めた。

「どうしてあの子はこんなに辛い思いをしなくちゃならないんです? あの子は悪くないのに。今までずっと辛い思いをしてきたのに。それもすべて母親である私のせいなのに。神は残酷だわ。罰を与えるなら私にしてくれればいいのに。どうしてあの子ばかりこんな目に…」

 泣きながら彼女は崩れ落ちる。そして、見下ろすゲクトに彼女は懇願した。

「あの子には絶対あなたに話すなと言われたのですけど、お願いです。あの子に逢ってやってください。そして、生きる気力を与えてやって」


 ゲクトはドアを開けた。室内は薄暗く、明るい場所からやってきた人間にとって、しばらくは何も見えない状態だった。彼は室内に入ると閉めたドアの前に立ったまま動かなかった。動けなかった。一歩を踏み出すのが怖かった。怖くてしかたなかった。そこには誰も何もいないような気がして。

 だが、時間が経つにつれ、だんだんと暗闇に目が慣れ、室内の様子がわかるようになってきた。窓際に置かれたベッドに誰かが横たわっている。彼は一瞬ためらったが、意を決して歩き出す。

「…………」

 傍までやってくると、横たわる智香が目に入る。まるでもう死んでしまったかのような静けさだった。

「智香…」

 彼は囁くように声をかけた。すると、彼女の閉じられた目がピクリと動いた。そして、静かに瞼が開けられる。

「俺がわかる?」

 うつろな目を彼に向ける。ちゃんと意識があるのだろうかと彼は心配になる。

「どうして…」

 かすかな声でそう答える彼女に彼は跪くと顔を近づけた。

「お母さんに聞いたよ。ごめんな、傍についててやれなくて」

「そんな、悪いのはあたしなのに…ごめんなさい、ずっとあたしについててくれるって、あなた言ってくれたのに…あたしのほうが先にいなくなっちゃう…」

 彼は首を振ると「君は悪くない」と言いながら、彼女が弱々しく伸ばしてきた手を取った。

「大丈夫だ。きっと大丈夫。君は絶対死なない。俺が死なせやしない」

「…………」

 彼女はかすかに微笑んだ。

「いくらあなたがすごい人でも、それは無理だわ…」

「無理じゃない! 強く願えばきっと叶うよ!」

 思わず大きな声を出してしまい、彼は慌てて「ご、ごめん…」と謝った。だが、続ける。

「諦めちゃ駄目だよ。君も強く願うんだよ。俺の傍にいたいって思うなら、生きたいって、何が何でも生きたいって強く強く願うんだよ。きっとよくなるって」

「そう、ね。あたし、ほんとは死にたくないもの」

 彼女の目から涙が流れる。

「あなたを愛してる」

 その声は力強かった。そして、その言葉は、彼に初めて言って聞かせる言葉だった。今まではっきりと彼に「愛している」という言葉を彼女は言ってこなかった。正直、本当に愛されているという気持ちが抱けなかった彼だった。彼女はまだネットのあの彼のことが好きなのではないかと、その気持ちがどうしても拭えなかったのだ。だが、やっと彼は彼女から気持ちを聞く事ができた。そして、その声に彼女の生きる気力を感じた。

「あなたを愛してるわ。こんなあたしでもあなたのようなステキな人が愛してくれた。あたしはそれを誇りに思う。今まで自分ほど不幸せな女はいないって思ってた。こんな人生なんて価値も意味もないって。求めるものには求めてもらえず、愛しても愛されず、あたしはあたしを生み出した存在にも、運命にさえも拒絶された生きている価値もない存在なんだって。そんなあたしはこの世からいなくなったほうがいいって。だけど、そんなあたしにも、心から愛してくれる人がいるってわかった。母やあなただけは、あたしにとって特別な存在。あたしを生かしてくれる、そんな存在だって。あたしにもそういった存在がいるんだって。だから、生きたい。母のためにもあなたのためにもあたしは生き続けたいって、本当にそう思う」

 彼女の声はしっかりしていた。さっきまでの弱々しさがなくなり、本当に生きる希望に満ちた、そんな声だった。

「あたし、生きたい」

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