第4話
そして、ある日の午後、久々に仕事がオフになったゲクトは、彼女と二人で部屋でくつろいでいた。
窓際に二人座り込み、傍らに置いたティーセットに琥珀色のお茶を入れて時々二人でそれを啜って、互いに黙って寄り添っていた。窓は開けていた。レースのカーテンが時々吹き込んでくる柔らかな風に煽られて揺れる。日差しはやわらかく二人を包み、ゲクトはじわじわと湧き起る幸せを感じ、思わず隣にすわる彼女の肩を抱き寄せた。
「あ…」
彼女は小さく声を上げた。
「君とずっとこうしていたい。君を愛してる。君が今までどんな生き方をしてたって、それでも僕はすべての君を愛せると思うよ」
彼は抱き寄せた肩の温かさをしみじみと感じながらそう呟いた。その彼女はうつむいたまま、微かに頷き「でも、何だか怖いわ」と囁いた。それに対してゲクトは不思議そうに「どうして?」と聞く。
「あたしたちはまるでこのティーカップみたいなの」
「?」
「受け皿があなたで上に乗っているカップがあたし…その逆でもあるの。受け皿があたしでカップがあなたとか。二つ一緒にあればちゃんとした意味のあるセットとなる。どちらが欠けても不幸になる。お互いが。だけど、カップも受け皿も永遠にこのままの形でいるわけにはいかないわ。いつか壊れてしまう時がくる。故意に壊れることもあるし、つい落としてしまって壊れてしまうこともある。それはまるで人生のようだわ。あたしたちの人生もそういった危ういものでしかないという気持ちがあたしはどうしても拭い去れない」
彼女はそう言うと、彼の目を覗き込んだ。
「今のあたし、とても幸せだわ。幸せ過ぎてとても怖いの。でも、それが永遠に続くとは思ってないし、永遠に続くものなんてこの世には存在しないとも思ってる。でも、あたしはこの幸せが永遠に続いて欲しいと思ってる。無理なことだとは思っていても。それでも、いつか崩壊するのは見たくないの。揃いのカップと受け皿、一方が壊れてしまったら残された方は価値がなくなるってあたしは思ってるのね。もし、あなたがあたしの前からいなくなってしまったら…」
「いなくならないよ!」
ゲクトは叫んで彼女を強く抱きしめた。どうしてそんな悲しいことを言うんだ。どうして今のこの幸せだけに目を向けてくれないんだという、そんな憤りを感じながら。だが、彼女は静かに絶望を感じさせる声音で続けた。
「ええ、そうね。そうだと思うわ。あなたのその気持ちは本物だってわかるわ」
「だったら、そんな悲しいこと言うなよ」
「ごめんなさい。あなたを悲しませるつもりじゃなかったの。ただね、あたしはそういう女なのよ。それだけはわかってほしいと思うわ。あたしを愛してくれてるというなら。あたしのすべてを愛したいと言ってくれるのならば、あたしのすべてを知らなきゃダメだって思うでしょ?」
「それは…」
確かにそれはそうだ。彼女のすべてを愛したいと思ったことは真実だ。だったら、彼女の考えも嗜好も何もかも知った上で、それを受け入れなくちゃならない。そうじゃないと「彼女のすべてを愛する」という言葉が嘘になってしまう。そんな嘘は自分はつきたくない、と。彼はそういう男だった。
「君を初めて抱いた時…」
「…………」
ゲクトは囁くように呟いた。まるで歌っているように。
「風を感じた。それは懐かしい風で、俺に子供の頃を思い出させる風だった」
子供の頃、親の仕事の都合でよく転校をしていた。仲良くなった友達や、好きになった女の子と別れなければならないことは本当に辛く、親を恨んだものだった。
あれは好きになりかけた女の子と「さようなら」も言わずに別れてしまった後のこと、移り住んだ自宅近くに流れていた川に毎日のように通っていた。
そこから見る夕焼けは格別で、すっかり日が落ちてしまうまで彼はあたりの風景を見詰めていた。そんな時、世界中に自分しかいないような絶望感と孤独を感じた。田舎でもあったということもあり、ほとんど人は通らず、本当に此処には自分しかいないんだと錯覚したんだろうと彼は思った。
「その時の孤独に傷付いた自分を思い出したんだ。君を抱きしめた時、ああ、君は俺と同じ傷を持っているって」
彼はそう言うと、彼女を抱きしめた。
「孤独な風…」
そう呟いた彼女に黙ったまま頷く。そう、孤独な風。彼も孤独だった。そして、彼女もずっと孤独に生きてきた。誰といようともその孤独は癒されることはなく、誰かといればいるほど感じてしまう絶対的な孤独。
「見て」
ふと彼女の声が上がる。顔を上げるゲクトは、あたりが赤く染められているのを見た。夕焼けである。
二人は抱き合ったまま窓の外に広がる赤い世界に魅了された。愛する人とこんなふうに抱き合いながらこんなに美しい景色を見れるなんて、なんて幸せなんだろうと彼は心からそう思った。これがずっと続けばいいと、本当にそう思った。
「このまま二人でいつまでも一緒にいよう」
彼の言葉に小さく頷く彼女。泣いている。
「安心して。俺はずっと君の傍にいるよ。一人で泣かないでいいよ。俺が一緒に泣いてあげるから。君をずっと愛するから」
彼女の涙は流れ続けた。果てがないかのように、ずっと流れ続けていた。