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Tea Cup  作者: 谷兼天慈
3/6

第3話

 ゲクトは彼女を自分のマンションに連れてきた。

「君は今日からここに住むんだよ」

「え?」

 彼女はびっくりした表情で傍らの彼を見上げた。それを見て満足そうに彼は頷く。こうやって表情に乏しい彼女にどんどんサプライズしていけば、きっといずれは満面の笑みで自分を見つめてくれるだろう。それを思うと彼はこれからのことが楽しく思えてきた。ゲクトはそういう男である。

「どういうことですか?」

「言葉どおりだよ。君は僕と一緒に生活するんだ」

「そ、そんな…」

「嫌?」

「え、そんなことは…で、でも…」

 彼女はうつむく。そんな彼女に彼は続けた。

「君の荷物はマネージャーに持ってきてもらうことにしたよ。アパートのほうも引き払ってくる。君は何もしなくていい。そのままここで僕と暮らせばいいんだ」

「どうして…」

「え? なに?」

 彼女が囁くように何か言おうとした。それをよく聞き取れなかった彼は聞き返す。彼女はゆっくり顔を上げると彼の目を真っ直ぐ見詰めた。

「どうしてこんなによくしてくれるの?」

「どうして?」

 そう、どうしてと改まって聞かれると、さて、どうしてなんだろうと彼は思う。ほっとけないという気持ちが第一だった。こんな危なっかしい女の子はほっとけない、と。

「友達でも何でもないのに、ただ数回メール交換しただけのあたしなのに。あなたのような有名人だったら、もっと美人で華やかな女性がたくさんこんなふうにあなたに情けをかけてもらいたいって思うでしょうに」

「うん、そうだね。僕は自分がモテるってことを自覚してるよ」

 と、臆面もなく言い放つゲクトだった。それを聞いた彼女は思わず小さく吹き出した。

「あ、笑った」

「………」

 彼女は真っ赤になってうつむいた。そんな彼女を彼は腕を伸ばしていきなり抱きしめる。

「あ…」

 彼女の口から吐息のような声が漏れた。

(あ…)

 そして、彼もまた心の中で声を上げた。

(風?)

 彼女を抱いた時、ふわっと風が吹いたように思った。何だか切ないような悲しいような泣きたくなるようなそんな風を、彼は感じた。

(この風、何だか懐かしい…)

 彼は目を閉じて、記憶の中で優しく吹くその風を探した。確かに以前に感じたことのある風。それを思い出すために、彼はいつまでも彼女を抱きしめたまま動かなかった。


 それから、二人の静かな生活が始まった。

 もちろん、手の早い彼であるから、その日のうちに、というか、部屋に彼女を招きいれて抱きしめたすぐ後にそういう関係になってしまって、ちゃんとした恋人同士になった二人だ。仲睦まじく、まるで新婚生活のような暮らしぶりだった。

 彼女は少しづつ自分のことを話しだした。今までの彼女は、ほとんど自分のことは話さず、好きだった彼のこと、その彼の好きな彼女のことばかりメールでは話していたのだが、今はだいぶゲクトに心を許すようになり、やっと自分のことを話せるようになったようだった。

「あたしの父親は酷い人でね。気に入らないことがあるとすぐ暴力を振るうの。あたしはそれが嫌で高校卒業するとすぐに家を出たんだけど、母を一人父のもとに残していくのは気がひけた。でも、母は自分のことはいいからあんたは行きなさいって言ってくれて…」

「それでお母さんは今?」

「この間やっと離婚が成立して、父は家を出て行ったって」

 彼女は家を出てから職を転々としていたらしい。家を出て一人で暮らすようになってから鬱病にかかり、なかなか定職につくことができず、派遣として働く日々だったそうだ。

「そんな時だったの。病気のことを自分でも知りたくて、それで何とかパソコンを購入してネットで情報を得ようとして、それで彼らに出会ったの」

 掲示板で交わされる会話をずっと見ていた彼女。相手の女性は自分の悩みを正直に話し、そして、相手をしている彼は真摯に受け答えていた。自分の父親とは違う、こんな男性もいるんだと思った彼女だったようだ。

「でもさ、逢った事もない奴が本当に紳士的な男かどうかもわからないよ。男って、女を得る為なら羊の皮でも何でもかぶると思うしね」

「ええ、それはあたしだってわかってるわ。でもね、彼だけは違ってた。何年も二人を見てきたけれど、結局、二人は一度も逢わなかったのよ。言葉だけで愛を育んでいったのよ。そういったプラトニックな愛が存在するなんてあたし初めて知った。だから、彼を好きになったというより、あたしはその愛の形を好きになったんだと思うわ」

「…………」

 ゲクトにはとても信じられなかった。そんな愛の形があるなどと。それはきっと幻想なんだろう。存在を否定するわけではないが、それは本当の愛なんだろうか、と。ただの自己満足、ただ自分たちの行為に酔いしれているだけなんじゃないか、と。

(俺なら好きになったら逢いたい。抱きしめたい。相手のすべてを手に入れたいと思うけどな)

 それを素直に彼女に告げる。彼女は弱く笑った。

「あなたならそうだろうなと思う。でもね、みんながみんなあなたと同じだとは限らないわ。本物を恐れる人だっていないわけじゃないのよ。それが不幸だと、あなたみたいな人は思うかもしれないけど、少なくともあたしは幻想を持つことが不幸だとは思わないの。たとえ実際に触れ合うことがなくても、気持ちだけがあれば、それだけでも人って生きていけるものなのよ。本物だけが人を生かすわけじゃないってこと、あなたには忘れてほしくないと思うわ。そういった人たちの気持ちが、理解できないまでも、ああ、そういう人もいるんだなと、心の隅にでも覚えていることは、きっとあなたの創作活動にプラスになると思うの」

 正直、やはりゲクトには、彼女の言うことが理解できなかった。何となく反発めいた気持ちも抱いた。けれど、彼の彼女を愛しいと思う気持ちは本物だったので、彼女の気持ちに応えたいと思った。

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