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長篠の勇士  作者: 宇井崎定一
終章 開眼
19/20

終章-1 無念と壊滅

「全くもって、申し訳ござらぬ。信長とした事が迂闊であった……」

「は……」

「時代の変わり目を見せると言う約束、果たせなかった事を深くお詫びする」




 武田軍は馬場信房・真田昌輝・真田信綱の三将を失った上に、投降した跡部軍も含めれば三千五百近い兵を失った。それに対し、こちらは奥平軍と合わせても死者は二百足らずに過ぎない。さらに、武田に長篠城一帯を放棄させた。


 家康にとっては十分すぎるほどの戦果であり、両手いっぱいに感謝の念を抱えて手厚い礼を述べに行くつもりで信長の元にやって来た家康は、信長の心底から沈鬱そうな表情に思わず愕然とした。


「いやしかし……」

「馬場信房と内藤昌豊にしてやられたわ。あの二人めのせいで徳川殿の気持ちに応えきれなんだわ」

「え、いや、その……」

「武田軍全体を木っ端微塵に打ち砕き五年、いや十年は徳川殿の脅威にならぬようにする予定であったのだがな」


 家康は信長の計画がそこまで大きな物であったとはまったく気づいていなかった。

 確かにあの三段射ちを武田全軍に対して用いる事ができていれば、信長の言う様に武田軍全体を木っ端微塵に打ち砕く事ができただろう。だが、三段射ちの餌食にできたのは馬場軍と真田軍の一部だけだった。馬場軍に匹敵する精鋭であろう内藤軍にも山県昌景軍にも、全く傷を負う事なく撤退された。そして彼らは、三段射ちを知ってしまった。もう正面から向って来てくれはしないだろう。せっかく武田を完全に黙らせる好機をふいにしたのが、信長は悔しくてたまらなかった。


「確かに武田の損害は大きいが、この程度ではまた来年にも立ち上がってくる……」

「三人、いや四人もの大将を失ったのにですか?」

「徳川殿もご覧になったであろう?あの撤退を」


 家康もはっきり見ていた。武田勝頼が、喰い下がる昌豊を振り払って強引に退却を宣言した瞬間を。そして、それは最善手だったろう。宿老率いる軍を全滅させられ、それでいて敵に傷一つ付ける事も出来ずに撤退するなど、武門として最大の屈辱だろう。

 しかしもし勝頼が撤退の決断を下さねば、信長の望み通り武田軍は木っ端微塵に打ち砕かれ、再起不能に陥っていたかもしれない。勝頼が下した、突撃よりもはるかに勇気を要する撤退という決断のせいで、武田は一万以上の兵を残してしまった。

 しかもその決断の様子を傍から見れば、当主としての責任に目覚め勇気ある決断をした勝頼が武士の意地にこだわり余計な犠牲を出そうとした昌豊を押しのけているようにしか見えなかった。


「あの血気に逸っていた勝頼が……いまだに信じられませぬ。まさか、申し上げにくき事ながらあの一斉射撃を見て我に返ったとか?」

「いや、普通なら我に返った所でもう後戻りなどできないとばかり突撃を命じるだろう。そこから撤退を決断する事ができる器量が勝頼にあるようにはどうしても思えぬ」

「すると既にこの絵図面を」

「ああ、昌豊と信房は描いていたのだろうな。勝頼はその台本通りに動いただけよ」


 信房は勝頼に自分の軍が木っ端微塵に打ち砕かれるのをはっきりと見させるために自ら死地に飛び込んで来たのだろう。そして勝頼にその瞬間をはっきりと見せさせる展開に持って行ったのが昌豊なのだ。


「徳川殿、武田を滅ぼした暁には駿河・甲斐の二ヶ国を差し上げる。信濃も上杉との緩衝地帯となるであろう川中島以外は全てお任せいたす。これでお許しいただきたい」


 この信長の言葉に、家康は無論同席していた羽柴秀吉と滝川一益も呆然とした。確かに此度の戦で信長は目的を果たせたとは思っていないし二人もそれを感じていたが、それに対する謝意を示すにしても大盤振る舞いすぎる。信長が此度の戦をいかに悔やんでいるか、家康も秀吉も一益も改めて思い知らされた。


「申し上げます、佐久間様が戻って参りました」

「そうか、すぐに来いと伝えよ。徳川殿にはわしの隣に来ていただこう」




 まもなく、仏頂面をぶら下げた佐久間信盛が信長の本陣に現れた。


「申し訳ございませぬ。百五十名の兵を無為に失い、ほぼ同じ数の負傷者を出してしまいました」

「よい……わしが判断を誤ったつけを払う羽目になった事、詫びよう」


 佐久間信盛は信長に対して下げた頭を上げるや、仏頂面から鬼の形相になって末席に座っていた跡部勝資の胸倉をつかんだ。


「貴様……跡部勝資だな!よくものうのうとこんな所にいられるな!」

「えっ……!」

「長坂釣閑斎は貴様の何だ?正直に答えよ!」


 不意討ちとも言えるこの行為に慌てふためいた勝資が言葉を濁すや、信盛はますます怒りをたぎらせ、顔を真っ赤にして勝資を睨み付けた。


「釣閑斎は……それがしとは親しい間柄であり……」

「そんな事は知っている、だがわかっていても聞かずにはいられなかったのだ!」

「佐久間殿……」


 秀吉が慌て気味に信盛を止めに入ろうとしたが、信盛は耳を貸さず怒声を上げ続け、信長も叫ばせていれば三百余りの死傷者を出した経緯もわかるだろうとばかりに秀吉を目で制した。


「その親しい釣閑斎が何をやったか、貴様は知らんのか!」

「さっぱり見当も……」

「では教えてやろう!釣閑斎はわしが鳶ヶ巣砦に近付くや、投降と称していきなり開門したのだ」

「ああ……」

「なんだ、その「ああ……」は!それならば納得だとでも言いたいのか!」

「え、ええ……」

「ふざけるな!その後、武田が内藤昌豊に乗っ取られたとか、先鋒を賜って内藤昌豊を叩き潰したいとか世迷言を並べて我らを砦に誘い込み、砦に火を点けたのだぞ!」

「ええっ!」

「しかも、煙が立ち上って策が露見するや、火の不始末をした奴は誰だなどと慌てふためき出し、この佐久間信盛自らが首を叩き斬るまで芝居をやめなかった!

 まったく、騙されるわしもわしだが、釣閑斎という奴は何たる巧妙な芝居をしてくれたのだ!己が命も顧みず砦もろともこの佐久間信盛と酒井殿を焼こうなど、まさに武田の忠臣よ!」


 勝資は言葉を失った。まさか、釣閑斎が自分が降ってから戦までの一日足らずの間に変心したと言うのか。とてもそうは思えない。だとすると、これは一体どういう事なのか。


「つまり、三百余りの死傷者はその時の火によるものであり、そしてその火のせいで武田の横腹を付く事ができなかったと言う訳か」

「そういう事でございます!」


 戦中の佐久間軍の動向を理解した信長の言葉が耳に入った信盛は両手で勝資を突き倒し、信長に顔を向けながら意を得たりとばかりに怒鳴り声を上げた。




「……そ…………そんな……まさか……………どこの…………誰だ…………火を、点けた……奴は………」


 信盛に突き倒された勝資は目は虚ろ、口は半開きと言う絵に描いたような混乱の表情を浮かべながら、やっとのことで口から譫言を吐き出していた。


「跡部殿、ところで本当に内藤昌豊は勝頼を蔑ろにしておるのかのう」

「そんな……!お疑いになるのですか……?あの老いぼれは」


 織田軍の皆が思っていたが、口に出すには余りにも情けない言葉を口に出してしまった秀吉に、一瞬冷たい目線が集まった。

 だが昌豊の名が出た途端多少ではあるが混乱から回復し口をまともに動かし出した勝資を見るや、冷たい目線は一気に勝資の方へと移った。


「その老いぼれの意見を押し退けて全面撤退を宣言し、武田軍崩壊の危機を救ったのは武田勝頼でござろう。もしやとは」


 思うが気付いていなかったのかと言う続きの言葉は、秀吉の口から出て来なかった。秀吉が一旦自分の言葉を句点で区切ったその瞬間、勝資は白目を剥きながら仰向けに倒れ込んでしまったのである。


 先代からの宿老である内藤昌豊の言葉を撥ね付けて勇気ある撤退を敢行したあの状況を目の当たりにして、昌豊が勝頼を蔑ろにしていると解釈できる人間などいるはずもない。昌豊が勝頼を幽閉し武田家を蔑ろにしている、そう信じ込んでいた勝資が気を失うほどの衝撃を受けたのは無理からぬ話だった。


「……………………そんな………………はずは………………」

「そんなはずも何も、現に武田勝頼が突撃を主張する内藤昌豊の意見を退けて撤退を宣言した事、上様を含め我らは皆はっきりと見ており申した」


 信長も秀吉も、それが信房と昌豊によって描かれた絵図面通りである事は理解していた、しかしそれを証明する物理的・客観的証拠はない。信長はその事がどうにも悔しくて仕方がなかった。

 そして、昌景憎さの余り勝頼が大声を張り上げて撤退を宣言する有様さえ視界に入らなかった勝資の視野狭窄ぶりに、本人を除く織田本陣にいた者全てが内心から呆れ果てた。


「馬鹿な……確かに内藤昌豊は勝頼様を幽閉して武田軍の実権を握り込み、勝手な事をしていた!間違いございません!!どうか信じて下さい!!」


 地に頭を付けながら譫言を吐いていた勝資は体を起こし、必死に自らの言葉に偽りなき事を信じてもらわんと喚き立てた。

 信長も秀吉も、勝資の言葉が全くのでたらめでない事はわかっていたが、この男が武田の為を思って織田に降ったとはどうにも思えなかったし、昌豊と信房が己が全てをかけてこんな決断を下した事も理解していたし、そしてその二人の覚悟に勝資が微塵も気付いていない事も察していた。


「佐久間よ、そなたが長坂釣閑斎の殉教行為によって目的を達する事ができなかった、それは信長をして読み切れなんだ事よ、許せ。ゆっくり此度の戦の疲れを取るがよい」

「はっ……」


 信長に温かいねぎらいの言葉をかけられた信盛は信長に叩頭した後、ずっと勝資の方を睨み付けながら下がって行った。


「跡部勝資……」


 信盛の姿がなくなるや、信長は勝資を鋭い目で睨み付けた。


「織田様!それがしは織田様を嵌める為ここに来たのではございません!」

「そなたの忠義はよく分かっている」

「それならば!」

「ならば主の下へ帰るがよい」

「へ……」

「勝頼は昌豊に奪われた武田家を取り戻した。そなたの望みは既にかなえられておろう。もはや織田にいる道理もあるまい、早く勝頼の元へ戻れ」


 冗談ではない、今さら武田に戻った所で裏切り者に居場所などあるはずもない。武田を乗っ取った昌豊を懲らしめる為に織田に身を投じたと勝資は言っているが、別にそこまでしなくても他に方法があったはずであり裏切りを正当化するには弱すぎたし、強権を発動して撤退した勝頼を見せられて、昌豊に武田が乗っ取られたと言うのは相当無理があった。


「これ以上織田の内部を覗こうと言うのならば、勝頼を埋伏の毒の仕掛け人と見做してもよいのだぞ」


 続いて信長の口から放たれた言葉は、まさに最後通牒だった。乱暴な話、勝資がでたらめを並べて織田軍を惑わし、武田軍の犠牲を最小限に抑えさせたと言う解釈も不可能ではない。ましてや、盟友であると勝資本人が明言していた長坂釣閑斎が己が命に代えて織田軍を足止めしたという大功を上げたのだ。


 以上の事から勝資が武田から送り込まれた偽の投降者、いわゆる埋伏の毒であると言う可能性を否定する事など誰にもできなかった。


「ああ……ああああああああーーっ!!」







 勝資は訳の分からない事を叫びながら、織田本陣から逃げるように走り去った。斬らなくてよかったのですかと聞く者はいない。

 勝資と言う男に斬る価値すらない事を、信長も含め織田の将全員が知っていたからである。そして、昌豊と信房がその斬る価値のない男すら利用して織田の毒手から武田家を救った事も、皆知っていた。

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