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長篠の勇士  作者: 宇井崎定一
第四章 諌死
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第四章-4 鉄砲と無念

「そろそろ来るぞ!」


 馬場軍・真田軍合わせて二千五百の兵が、馬房柵に向かって突っ込んで来ている。


「いいか、五つ数えたら撃つのだ!」


 それを見据える滝川一益の顔は引き締まっていたが、内心ではこの上ないぐらい高揚していた。


(いよいよ上様が仰っていた時代が変わる瞬間が到来する……その中心に我らは立っているのだ。そしてその時を呼び込むのはこのわしなのだ!)


「一…二…三…四…五!」


 一益の五と言う声が上がった瞬間、鉄砲が凄まじい咆哮を上げながら、鉛玉を馬場軍に送り届けた。




「怯むな!突っ込め!」


 その一斉射撃によって百人近くが薙ぎ倒されながらも、馬場軍も真田軍も前進をやめようとはしなかった。


(かかったな……!)


 一益は不敵な笑みを浮かべた。鉄砲と言う物は発射するまでに時間がかかる、だからその間に突っ込んでしまえば撃退できる、と武田軍は思い込んでいるだろう。

 その思い込みこそ命取りなのだとばかり、一益は次の叫び声を上げた。




「撃てっ!」


 一益がそう声を上げるや、再び鉄砲が咆哮し、先ほど以上に多くの武田軍の命を奪い取った。


「ふふふふ……さあ行け!」


 そしてたった今銃を放った兵士は後方に下がり、そこから新たに鉄砲を構えた兵士が出てくる。彼らの持つ鉄砲からも、武田軍をあの世へ送り出すための鉛玉が放たれ、実際にまた百人以上の犠牲者を生み出した。



 鉄砲隊を横三列に並べ、先頭の兵が発射したら後方に下がり、次に中間にいた兵が前進して銃弾を放ち、そして後方にいた兵がさらに前進して銃弾を放つ。後方に下がった兵は前の兵が撃っている間に弾を装填する。信長はこの方法により、銃弾を間断なく撃つ事を可能にしたのである。世に言う、三段射ちである。



(この戦法はこれからの時代の常識となるであろう……上様はそう仰っていた。その新たなる常識が生み出される瞬間に、わしは立ち会っているのだ!)


 一益の顔は相変わらず厳しかったが、その心の中には凄まじいほどの呵々大笑が鳴り響いていた。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




(なるほど、こういう手で来たか!)


 一方、信房は三段射ちと言う未知の戦法に驚愕しながらも、動揺する事はなかった。


(これは却って良いかもしれぬ)


 元から生還する気などない信房だが、それでも迷いはあった。これだけの人数で突撃するからには敵陣の一角ぐらいは壊したかったが、そうすると勝頼が全軍で突撃していれば勝てたのではないかと言い出すかもしれない。

 しかし仮にも精鋭であり、さらに死を恐れていない二千五百の軍勢が突撃するのだから、そうなってしまう可能性が低いとは言えなかった。だが今現在、馬防柵に手をかける事もできないまま既に五分の一近い勇士たちが三途の川を渡っている。


(この馬場美濃がぶつかってもまるで歯が立たなかったと言う現実を残しておくのも悪くはない。勝頼様は目をお覚ましになるだろうし、織田はこの戦法に自信を持って濫用して来るかもしれんし、さらに武田を甘く見てくれるかもしれぬしな)


 死が眼前に迫っているためだろうか、信房は驚くほど冷静に物事を考えられていた。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「うおお……す、すごい……これが織田様の秘略か!あの馬場美濃の軍勢が何もできないまま打ち砕かれて行く!内藤昌豊め!貴様の仲間の無残な末路をよく見ておけ、そしてこのわしを放逐した事を死ぬまで悔やみ続けるのだな!」


 そして、昌豊への憎しみに全身を支配された勝資は興奮しきっていた。一益も、勝資の傍らにいた秀吉も内心では興奮しながらも表面上は平静を装っていたが、勝資は興奮を全く隠す様子がなかった。


(やっぱりこいつは何にも見えとらんな……見た所向かってくる軍勢は二千五百ほど。馬場軍は真田軍と合わせて確か四千はおるはず……いかに完膚なきまでの勝利とは言え千五百の兵を逃がすようでは上様の理想を果たすには程遠いのじゃ……)


 そして秀吉は興奮しつつも、醒めた目で勝資と信房を比較していた。


(不死身の馬場美濃の軍勢が何もできずに敗れたとあれば、織田家の力を悟らないはずがないわ……勝頼とてそれで目を覚まさん程の阿呆じゃないじゃろ……そして千五百もの兵を残した時点で信房がわざと死にに来ている事は明白。自分たちの命と引き替えに主君に目を見開かせ、そしてその主君の為に千五百の兵を残しておくなど、何たる忠臣じゃ……。

 それに引き替えこやつは勝頼にへばりついてさんざん甘い汁を吸っておきながら勝頼の事をここまで慮っておる男の死を臆面もなく喜んでおる……信房の心根がわからん程の痴れ者なのか、わかっていながら平然とあんな事が言えるほど憎しみに囚われておるのか……いずれにしてもどうしようもない奴じゃな。と言うか次の武田は一体どうなるんじゃ?)


 跡部勝資というどうにも救いがたい男の事を考えたくなくなった秀吉は別の事を考え出した。信房と昌豊は武田の次代を一体誰に託すつもりなのだろうか、と。

 山県昌景か、それとも海津城にいる高坂昌信か。しかし二人とも既に四十代後半で武将としての山は既に過ぎている。十年後ぐらいならともかく二十年後の武田の中核を任せる事はできないだろう。二十年後を担うためには、現在三十歳前後の若い層が必要なはずだ。


「しかしなぜ馬場だけでなく真田まで突っ込んできているのかのう……」


 馬場信房一人が砕け散るだけでは勝頼の目を覚まさせるのに不足なのか。いや、不死身の馬場美濃と言われた勇将だ、十分だろう。信綱や昌輝がわざわざ死ぬ理由があるのか。


(まさか……)


 ここで秀吉の頭に一人の人物が思い浮かんだ。その二人が死ねば、間違いなく表舞台に立つことになるであろう一人の人物が。信長の策を看破し、武田軍の被害を最小限にとどめさせ、それでいて武田騎馬隊完敗と言う事実を勝頼に叩き付けて目を覚まさせ、なおかつ佞臣の勝資を武田家より追い出すという完璧と言うべき策を施した人間と、この戦の後表舞台に立つことになるであろう人間が同一人物だとすれば、これはかなり厄介である。

 秀吉がそんな事を考えている間にも時は流れ、既に半数近い武田の勇士が命を落とすか戦う力を失うかしていた。一方の織田方に、人的損害はまったくない。織田に損害があるとすれば、大量の鉄砲の弾と連発により過熱し、使い物にならなくなった鉄砲数丁、そして武田軍の己が命を顧みぬ突撃によってようやくわずかに穴を開けられた馬房柵だけである。そんな圧倒的な状況でも、秀吉に笑顔はなかった。

 そして、信長にも。






※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「真田信綱様、討死!」


 本陣にその報が届くや、昌豊は急ぎ勝頼を馬上の人にした。


「覚悟をお決めください!もはや寸刻の猶予しかございませぬぞ」

「いや、しかし……実際な……馬場美濃の軍勢が手も足も出ずとは……」

「先ほど申し述べた通りの結果でございます!」


 昌豊は必死に音量を抑えながら勝頼に言い聞かせていた。


「だが実際、この現実を見せられるとな……」

「それがしも正直恐ろしゅうございます。ですが、これは紛うことなき現実でございます」


 勝頼は馬場軍が何もできないまま打ち砕かれていると言う、目前で起こっている現実が本気で信じられず、脅えきっていた。

 これが織田のやり方なのか。思いも寄らない方法で武田自慢の騎馬隊を木っ端微塵に打ち砕いた信長と言う人間の底知れぬ実力と器量が、勝頼はただただ恐ろしかった。



「真田昌輝様、討死!」


 そして、信綱に続き昌輝の悲報が本陣に届くや、昌豊は時が来たのを感じた。


「もう時間はございません!」

「て、敵の損害は……」


 無駄な質問だとわかっていても、勝頼はそう聞かずにいられなかった。だが昌輝の死を告げた伝令が口にした回答は「ほとんどなし」だった。


(わかった……)


 そう心の中でつぶやいた勝頼は十数秒かけて心を落ち着け、その封じ込めた緊張を力に換え、腹に力を込めて叫んだ。


「馬場美濃率いる精鋭がこうもあっけなくやられるとは……やむを得ん、全軍撤退だ!!」

「そんな!それでは我々はここに一体何をしに!」

「うるさい!敵に槍もつけられずに討死にという無念を味わいたいのか!」

「ですが……」

「これは大将の命令だ!!退け!高天神城まで撤退せよ!」


 勝頼は必死に喰い下がる昌豊の手を跳ね除けて全軍撤退を指示し、そしてその一声と共に、武田の軍勢は一斉に後退を始めた。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「武田が退いて行くぞ!」


 織田軍の誰かが叫ぶや、織田陣にざわめきが広がった。


「もうか!?」

「まだ、一発目の弾が撃たれてから十分経ってないぞ!」

「落ち着け!まだ敵は残っている!ほら、馬場軍は後退していないぞ!」


 織田・徳川の将たちもこの武田の余りにも唐突な全面撤退に戸惑いを隠せなかった。


「追撃しましょう!」

「ダメだ、上様の指示がない」

「恐れながら、指示を待っていては手遅れに」






 もちろん、信長も武田軍の全軍撤退を見ていない訳ではない。

 しかし、信長は追撃命令を出そうとはしなかった。


「今挑んで来ている馬場信房の軍勢を完膚なきまでに粉砕せよ。武田など我らと戦うにすら値しない事を見せつけるのだ」


 信長の指示はそれだけであった。


(馬場信房め……高笑いしながらあの世へ旅立っていくか!)


 確かに、信房以下馬場軍のほとんどは人的犠牲なしで叩き潰せるのは火を見るより明らかだった。だが、この戦いの戦果がそれだけで終わりそうなこともまた確実だった。

 その悔しさが信長の口を塞ぎ、戦勝気分を奪い取っていた。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「勝頼様、後退を始められました!」

「ふふふふ……そうか。よし、時間稼ぎに精一杯暴れ回ってやろう!」


 信長を憤懣やる方ない気持ちにさせていた張本人、馬場信房は信長の想像通り高笑いしていた。既に信綱・昌輝は失われ、二千五百の兵の内まだ戦えているのは八百ほど、無傷の兵となるとその半数以下だった。にも関わらず、信房の顔に暗さは微塵もなかった。


「死出の旅路の供をせよ!」

「ふざけるな!あんな死に神に付き合うことはない、撃て、撃ち殺せ!」


 鉄砲隊も一益の指示に従い必死に三段射ちを続け、馬場軍の勢力をもぎ取って行く。

 しかし、いくら数を減らされ、ついには信房自らが被弾しても、勢いは衰えない。一益の心に、開戦直後満ち溢れていた余裕は全くない。


「これじゃ武田の本隊を逃してしまうぞ…………そ、そうだ!その怒りを馬場にぶつけろ!」


 一益は必死に兵たちの士気を駆り立てて銃弾を放たせるが、それでも突撃は止まない。


「滝川様に近付けさせるな!」


 その突撃の勢いたるや、一益の馬廻り衆自らが一益を取り囲み始めたほどである。


「馬鹿、脅えてどうする!まだはるか遠くだぞ!」

「ですが……」

「落ち着いて前を見ろ!もうさすがに先が見えている!」


 射撃音が鳴り響くたびに、確実に馬場の将兵は数を減らしていた。ほんの少し前まで八百いた馬場軍は、今や二百五十もいなかった。だが、むしろ数を減らすたびに馬場軍は勢いを増して向かってくるため、ほとんどの兵士たちは敵の数が減っているように感じる事ができなかった。


「我々は勝っているのだ、敵を圧倒しているのだ!」


 兵士たちは一益の必死の叫びでなんとか勇気を奮い立たせ銃を撃ち続けていた。どう考えても、ほとんど犠牲を出すことなく敵を討ち取っている側の人間のやる事ではない。


「ここまでたどりついたぞ!さあ、一人でも多く討ち取ってやれ!」




 そしてついに、柵を破って本陣に突入する事に成功した者が現れた。

 と言っても、そんな人間は当初二千五百人いた馬場軍の内百人もいなかったし、無傷の者などもう一人もいなかった。そう冷静に考えればただの悪あがきなのだが、馬場軍の者たちは冷静に考える事を許さず、そして一益たちに勝者の喜びを得る事を許さなかった。

 信房は馬を狙撃され落馬させられても、華麗に着地して徒士となり槍を握り締めて鉄砲隊に突撃して来た。

 銃弾で兜を弾き飛ばされて大童になっても、右足の付け根に被弾して一瞬足取りをふらつかせても、信房は突撃をやめなかった。



「ば、化け物めぇぇぇ!!」



 そして脅え切った足軽の一人が無我夢中で放った銃弾が心の臓を捉えてなお信房は前進をやめず、ついに倒れ込むかという所でその倒れ込む力を利用するかのように、右手に持っていた槍を投げ付け、自らの命を奪った足軽の足の親指に突き立てた。

 そして信房の最期を見届けた馬場軍の闘士たちは自らの刀を頸に当て、信房と共に信玄の元へ旅立つ事を選んだのである。



「これで……敵は全滅したのか……」

「そ、そうだ……全滅したのだ」


 武田家きっての優勝、馬場信房率いる二千五百の軍勢を兵士一人の足の親指の傷で全滅させた滝川軍に、勝利の喜びはない。追撃をかけようにも、もう武田本隊に追い付く事はできない。いや、仮に追いつく事ができる距離だったとしても、兵たちにそんな気力は残っていなかった。













 こうして、設楽ヶ原と長篠城を巡る武田と織田・徳川による戦いは終わった。武田軍の死者は、馬場・真田軍二千五百と長坂釣閑斎の手勢三百、更に跡部勝資率いる五百の手勢が織田方に寝返り、その上長篠城を攻撃していた軍勢の損害も考慮せねばならない。


 一方、織田・徳川軍の犠牲者は、鳶ヶ巣砦を包んだ火に焼かれた佐久間信盛軍百五十余りと、長篠城防衛戦で失われた奥平貞昌の手勢だけである。さらに武田軍はこの戦の結果長篠城一帯を放棄し、高天神城までの全面撤退を余儀なくされた。




 しかし、織田家の中にこの戦いの勝利を喜ぶ者は、信長以下一人もいなかった。みな、信長が醸し出す重苦しい空気に包まれ、ただ押し黙る事しかできなかったのである。

今回で本編は終了です。

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