第四章-1 逃亡と粛清
「内藤昌豊が武田勝頼を幽閉し、武田家の実権を握っている……そう申すのだな」
「はい、既に昌豊の毒牙にかかって三途の川を渡っているやもしれませぬ」
滝川一益に連れられて行軍中の織田信長の元へやって来た跡部勝資は、さっそく自分の武器である舌を活発に動かした。
「すなわち今の武田家は内藤昌豊の独裁であると申すのだな」
「ええ、もはや昌豊に逆らえる者は武田家にはおりませぬ」
「言っておくが、余は徳川殿を守るためにこうして軍を進めているのであってそなたの私怨を晴らす為にここまで来た訳ではない」
「それは存じております。ですが勝頼様がいなくなれば次の武田家当主は嫡子の信勝様。信勝様は余りにも幼くもはや武田家を昌豊めに乗っ取られたも同じ」
「そうか、では我らが武田家を滅ぼしても文句はないのだな」
「はい、昌豊とその眷属共を討てるのならば」
鋭い眼光を放ちながら詰問めいた言葉を投げ付ける信長にも怯むことなく、勝資は自分を正当化すべく必死に頭と舌を揺り動かした。
「ふむ……よかろう、これより徳川殿の配下に入るがよい。徳川殿にとって、武田の内実を知り尽くしたそなたは頼れる存在となろう」
「ははっ」
信長は元より跡部勝資と言う人物を評価していない。自分の権力を守るためにきゅうきゅうとしている保身家であり、天下の形勢など見えていない小人と思っている。
(徳川殿ですか?それがしは織田に降りたいと滝川殿に申し上げたはずでは)
最低でもこれぐらいの事は言って欲しかった。織田に降りたいと言ってここまでやって来たのだ、その自分のつい先ほどの発言を自らの手で否定するような態度を取られた事が信長の癇に障ったのだ。
正直な話、信長もこんな男を自分の配下にしたいとは毛頭思っていない。だから家康に押し付けたと言う表現はまだ温く、もし内藤昌豊が武田勝頼を幽閉して武田家を乗っ取ったと言う情報の手土産がなければ、家康に押し付ける事すらせず追い出していたかもしれない。
「内藤昌豊……何を企んでいる?」
果たして昌豊は何をしたいのか。この戦に勝つことは重要だろうが、それにしても勝頼に対して謀叛を起こしてまでする事だろうか。御家の当主を幽閉して勝った所で、その当主から祝福されるはずはない。
ならば家を乗っ取る気か。それにしても地盤が弱いし、こんな強引なやり方に付いてくる者がどれだけいるのか疑わしい。信長をして、昌豊の狙いが何なのか全くわからなかった。
「鳶ヶ巣山砦を守れ?」
「ええ、それが殿のご命ゆえ」
その内藤昌豊は、勝資の仲間である長坂釣閑斎に鳶ヶ巣山砦の守備を命じていた。
「理由をお聞かせ願いたい!」
「正面から戦っては我らにはかなわない、そう考える織田は必ず後方をつく別働隊を編成して来る。その目標である鳶ヶ巣山砦を守る役目を任せたいとの事だ」
「なぜ鳶ヶ巣山砦を狙うと!」
「さあな、殿がそうに違いないとおっしゃったのだ。わしも決め打ちはいささか危ういと申し上げたのだが……」
「なぜそれがしが!」
「鳶ヶ巣山砦を抑えられ後方を突かれたら我らとてさすがに苦しい。だから一番信用できるそなたに守備を任せたいと言う訳だ。まあそなたの手勢三百がおれば大丈夫だろう」
「しかし……」
昌豊の説明に対し必死に喰い下がる釣閑斎に、昌豊は冷めた調子で言葉を返し続けた。
「そなたの親友が織田に走ってしまったのだ。ここで忠義を見せねば痛くもない腹を無用に探られる事になるぞ、それを肝に銘じてもらいたい」
そして、仕舞いには跡部勝資寝返りとそれに伴う釣閑斎自身の危機まであからさまに口にし、もはや話す事などないと言わんばかりに釣閑斎に背を向けたのである。
「おのれ内藤昌豊め……!」
勝頼の命と言う名目で一方的に自分の策を押し付ける昌豊のやり方を、釣閑斎は許せなかった。もっともそれは昌豊から言わせれば、釣閑斎や勝資のやり方を真似ただけに過ぎないのだが。
それに確かに自分は勝資の親友だし、彼の裏切りによって立場が悪くなっているのも事実だ。だが勝資をそこに追い込んだのは一体誰だと言うのか、昌豊ではないか。そういう考えを抱いている釣閑斎の怒りが昌豊に向かうのは当然の流れであった。
(鳶ヶ巣山砦に入ってやるよ、勝頼様代理の貴様の命だからな……その後は勝手にさせてもらうぞ……内藤昌豊)
この時、釣閑斎の心からもまた勝資と同じように、武田の二文字が消えていた。
「貴様は今の今までわしにやって来た事の意味がわかっておるのか……?」
その後その昌豊は、小寺に来ていた。およそ二週間にわたりその小寺に幽閉を続けてきた主君・武田勝頼を解放するためである。
「わかっております」
「わかっておるわけがなかろう!わかっておるのならばなぜこんな事を!」
「武田家の為にございます」
「当主であるわしを監禁するのがか!?」
「心苦しき事ながら」
「ならば今すぐわしにその首をよこせ!」
「もう少々お待ちください」
配下の兵士たちと同じように自らの激昂を受け流し続ける昌豊と言葉を交わす内に、勝頼はだんだんやる気が削がれて来た。
「なぜわしを永遠に葬ろうとせんのだ、訳が分からんわ。この前みたいに徳川の暗殺者がやって来たと言えばよかろう……」
「武田家と殿のお命をお守りする為の行いでございますゆえ」
「確かにここにいればわしの命は安泰だろうがな、それだけを考えてもお前のやっている事は皆目意味が分からん…………」
勝頼の命を守りたいのならば、戦が終わるまで押し込めておけばよいではないか。それをこんな中途半端な時期に解放するとは。
そんな疑問が頭に入り込んでますます訳がわからなくなった勝頼に対し、昌豊はこれまで敵にすら見せた事がないような厳しい顔を勝頼に向け、重々しく口を開いた。
「わかり申した。どうやらその時が来たようなので、はっきりと申し上げましょう」
「その時とは何だ」
「織田信長は信玄公に匹敵する、いや信玄公を上回るかもしれぬ天才です。その天才が率いる倍以上の軍勢と正面から戦って勝てる軍勢などこの日本には存在しません。さらに、織田と同盟している徳川もご存じの通りの強兵揃い」
「つまり、元から戦ってもらいたくなかったとでも言いたいのか」
「ええ」
昌豊の口から放たれた「ええ」という二文字は、極めて静かながらこれまで勝頼が聞いて来たどの発言より重みがあった。
「しかしな、それではわしの疑問の答えにはなっとらん」
「失礼しました、お答えいたしましょう。殿にはその双眸でこれから起こる戦の顛末をはっきりと見ていただきたいからでございます」
「顛末だと」
「我らが勝つ道があるとすれば一つだけでございました。天が雨をもたらすを待つ事でございます」
「だったらなぜ今からそうしないのだ」
「では逆におうかがいいたしますが、甲斐にてそれがしが同じ提案をいたしたとして殿はそれがしのお言葉を聞き入れていただけましたか」
「それは……」
元から煙たがっていたはずの人間の、自分の意欲に水をかけるような言葉にうなずく事などできるはずもない。勝頼は元からそういう人間だった。
「殿は織田との決戦に心を燃やしていたはず。そして武田騎馬隊より強い軍勢など日の本に存在しないと考えておいでのはず。少しでも消極的な言葉を発せばそれは自らに対する反抗とお捉えになったのではないでしょうか」
「ああ、そうだったろうな…………だが、もう一度聞くがなぜ雨を待たんのだ。今からでも遅くはあるまい」
「家臣であるそれがしが主である殿の意志に反抗して通した策が成就すれば、主の面子は丸潰れです。ですが失敗に終われば、殿の面子は保たれましょう」
昌豊の最後の言葉を聞いた勝頼の頭に、太い金棒で殴られたような衝撃が走った。
確かに武田家当主である勝頼のやり方を極めて強引な形で否定した昌豊が主導となった戦で、勝利を掴み取ったとなれば昌豊の名は上がるが勝頼の顔はなくなる。だが失敗したとなれば、昌豊の名は地に落ちるだろうが勝頼の名に傷は付かない。実に完全な話だ。
「すまない、まさかそなたがそこまでわしの事を考えておったとは思いも寄らなんだ」
「謀叛人に謝らないでいただきたい」
「いや、謝らせてもらう。わしはずっとそなたを事あるごとに父の名を持ち出し、上から目線で物を言ってくる嫌な奴だと思っていた。まさかわしを傷付けぬ為にこんな手を打って来るなど、夢にも思っていなかった」
「まさかそんな事を理由に、この謀反人の命をお奪いになるをためらうと?」
今まで散々煙たがり続けて来た老臣の本気にようやく気付いた勝頼は必死に許しを乞うたが、昌豊の言葉は容赦がなかった。
「それでは理由さえ通っていれば主に叛旗を翻しても命は取られないと言う前例を作る事になります。そんな悪習は御祖父様と共に滅んだはずです」
かつて信玄に追放された勝頼の祖父信虎は、去年信濃で亡くなっていた。出征の連続による民の疲弊など様々な事情があったにせよ、武田家の主に家臣たちが叛旗を翻したと言う事は絶対に否定できない事実である。ここで昌豊を許せば、信虎追放の時と同じ事の繰り返しである。
わずか二代の間に先代の当主である信虎の追放、嫡男すなわち次代の当主であった義信への自決強要という暗い歴史がある武田家で、勝頼の代までこんな揉め事を起こしていては武田家の統制などあった物ではない。だからこそ、今度こそ断固たる処置を取らねば武田家は結局瓦解に至る、それが昌豊の主張だった。
「さ、されど……」
「では申し上げましょう。この昌豊は既に殿の寵臣である跡部大炊介殿をこの武田家より放逐しました」
「なんと……いつ殺したのだ?」
「いえ、殺してはいません。織田家に投降するように追い込んだのです。どうです、それがしは武田家の中核にいた人間を織田家へ放り出しました。これだけでもそれがしが死の刑を受ける理由となりましょう」
この男はどうあってもその首を自分に刎ねさせるつもりなのか。勝頼は昌豊の覚悟の凄まじさに改めて戦慄を覚えた。
「……と、とにかく、戦の顛末を見届けてもらいたいと言っておったな。その言葉に偽りはあるまい」
「無論。ですがひとつお願いがございます。信長と家康など雑魚に過ぎない、そんな奴の相手など殿自ら出て行く必要などないとそれがしは言い触らしておりました。そこで、心苦しき事ながら一般の兵の……」
「わかった、そうする」
勝頼にはもう、昌豊の言葉に反発する気力は残っていなかった。昌豊の言うがままに雑兵の装束を身に纏い、寺を出る事しかできなかった。