第三章-3 勇士と勇士
「ほう、長篠城から抜け出そうなどと考えそうな、そしてそれを成功させそうな顔をしているわ。鳥居強右衛門とやら、褒めて遣わそう」
信房は床几に腰掛けながら、後ろ手に縛られて正座させられている強右衛門の顔を嬉しそうに眺めていた。
「不死身の馬場美濃に褒められるとはな、別に嬉しくないが」
強右衛門はふてぶてしい表情を全く崩さず、そして全く怯む事なく信房を睨みつけた。
「さて、一応聞いておくが、織田信長はそなたの期待を裏切らなかったか?」
「裏切ったとでも言えば満足するか?」
「戯れは止せ。信長がそなたのような人間の言葉に耳を貸さない阿呆だと我らが思っているとでも言うのか?」
「だったらなぜ聞いたのだ!」
「先ほども言っただろう、一応だ、一応」
「ああそうよ、お前が思っている通り織田様は明朝援軍を出してくれることになった!お前たちの命もあと二、三日よ!」
他愛ない問答の中で表出した事実に内心ではやっぱりかと言う諦めと無念の入り混じった感情が渦巻いていた信房であったが、老巧の将らしくそれを顔に出す事はなかった。
「満足か?」
「ああ、満足よ。お前たちに残された時間はせいぜいあと二日。その程度の期間耐えきれぬ奥平様ではない。三日後には長篠城下より武田は消え失せ、徳川様と奥平様は感動の対面を果たす事になるだろう。それが待ち遠しくてならんわ!」
「………お前はここで死ぬのだぞ?」
「わかりきった事を!」
「残念だが、その瞬間を見る事はかなうまい」
「あの世からでも見られるわ!この鳥居強右衛門、例え魂だけになっても徳川と奥平の栄光を祈り続けてやるからな!」
二人の会話がそこまで来た所でゆっくりと信房は立ち上がり、右手の人差し指を立てながら強右衛門に近付けた。
「何の真似だ」
「わしは浪費家ではない、が吝嗇家でもない。それ相応の価値があると思えば遠慮なく投資して遠慮なく手に入れたいと思っている。ましてやその価値ある物をみすみす破壊するような真似は犯したくはない」
「だから何を言いたいのだ!」
「わしに仕えぬか?」
「ほざくな!千石出すからなどという大それた事を言うのではなかろうな!」
「わしは吝嗇家ではないと言っているであろう!千石ではない、万石だ」
夜の陣から音声が消えた。強右衛門のみならず馬場軍の将兵も、主の言葉にさすがに愕然とした。たかがこんな一人の男を引き込む為に一万石も出そうと言うのか。
「生憎ながら、それがしはただの端武者。一万石どころか十石の価値もあるまい。それとも、長篠城を陥落させる功績込みでか?」
「長篠城を陥落させてくれればもう一万石出す。信長の首級を取ってくれば五万石をくれてやってもよい」
「馬場美濃もずいぶんと老いぼれたらしいな、よくもまあそんな口から出任せを」
「出任せを言って何の得がある?何としてもそなたのような武士が欲しい、その気持ちの大きさを表すとこうなる、それだけの話だ」
「百万石をくれると言われても答えは否だ。まあ、お前が我が目の前で腹を切ってくれるのならば考えてやらないでもないが」
信房も強右衛門もとんでもない大言を吐き合っていたが、どちらも偽らざる本音であった。実際問題、信房は信房で強右衛門の強い意志に感心してこんな勇士が武田家にいればと言う気持ちになっていたし、強右衛門も馬場信房と差し違えるのならば本望と言う気持ちになっていた。
「結局徳川以外に仕える気などないと言う訳か」
「わかっているのならば早く首を打て!ここで首を落とされても何の悔いもないわ!」
「そうか、本当に悔いはないのか?」
「ああ、今さら何も惜しい事はない」
「本当にそうか?」
「ああ!」
「何か言いたい事があれば聞いてやるぞ」
「ないと言っている!」
「本当に本当か?」
「くどいわ!」
そんな中で突然やたらしつこく絡み始めて来た信房に、強右衛門は苛立ちを露わにしながら怒鳴り出した。
「強がりはよせ。わしにはわかるのだ、お前にはまだやりたい事があるのだろう?」
「なんだ、妻子に会いたいと言うとでも思っていると言うのか!?別れの挨拶などとうの昔に済ませたわ!」
「いいや、もっと重要な事があるだろう。それを済ませずに死ぬなど不忠者めが」
「不忠者とは何だ!」
「ここでお前が死ねば誰が信長の到来近しを長篠城に伝えるのだ?お前がここで死んだせいで援軍到来まで持ちこたえられずに……」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどおらんぞ……それは起こり得る可能性のある現実なのだからな」
強右衛門がいかに肝の太い男と言えど、強右衛門と同じぐらいの肝の太さだけでなく老巧の将と言うにふさわしい駆け引きの才覚まで兼ね備えている信房相手の論戦は流石に分が悪かった。
信房は何も惜しい事はないと言う強右衛門の言葉の揚げ足を取って絡み、強右衛門にとってもっとも聞きたくない不忠者という言葉を浴びせかけ、未だ強右衛門が長篠城に援軍到来近しを伝えきれていないと言う事実を突き付けて強右衛門の心を激しく責め苛んだのである。
言葉面では平静を装っていた強右衛門だったが、この時内心では激しく動揺していた。確かに、長篠城の貞昌らに信長の援軍まもなく来たるを伝えなければ強右衛門は役目を半分しか達成できていない事になる。役目を果たし切らずに死んでしまっては完全な忠義を果たしたと言えるかどうか極めて疑わしい。
「俺に何をせよと言うのだ!命乞いをせよとでも言うのか!?」
「少しだけ待っておれ」
動揺している強右衛門に追い討ちをかける様に信房は立ち上がって陣を出て焦らしにかかる。その間に酒を強右衛門の口に注ぎ込んで吹き出されもしたが、誰一人動揺などしない。
やがて、戦歴を顔に深く刻み込んだ強者たちがぞろぞろと信房の天幕にやって来た。信房は周りを見渡した後後ろ手に縛られている強右衛門の体を回し、強右衛門の顔を集った強者たちの方に向けさせた。
「見ておけ、これが我が陣を抜け出して織田信長の元に駆け込み、援軍を求める事に成功した男の顔だ」
「なるほど、それを成しそうな面構えをしておるわ」
「三方ヶ原の時も、こんな面構えをした奴が山とおったわ」
「徳川家康も果報者よな」
「これだけの強者の顔を見ながら死ねるとは悪くない最期だ」
信房がそう言うや、強者たちは一斉に賛辞を浴びせた。当の強右衛門は賛辞の嵐にもふてぶてしい表情を変えようとせず、ここで死ぬ気満々であると豪語するだけである。無論、その態度も馬場家の強者たちの心をつかむには十分だったのだが。
「本当に死んでいいのか?わしがお前をここで斬れば、長篠城の連中は何も知らないままだぞ?」
そしてその強者たちの主君である信房は、柄にもなく嫌らしい笑みを浮かべながら強右衛門の正面に迫った。これまでに見た事のない表情に馬場軍の将兵もわずかにひるみ、そして強右衛門も目を疑った。
「我が主君が三日を耐えられないほど柔だと思っているのか!」
「ここでお前が死ねば誰が長篠城に真実を伝えるのだ?わしがここでお前を斬り、長篠城に信長はお前らが送り出した使者の要求を撥ね付けたと言えば城の者たちの意気消沈ぶりは半端ではなかろう。そこを突けば十分可能だ」
「卑怯だぞ!」
「卑怯の何が悪い、戦とはそういう物だろうに」
「ぐっ……」
そしてその強右衛門の隙を付いた信房のさらなる陰湿な言葉責めに、ついに強右衛門は黙ってしまった。
「これでわかったであろう?そなたがどうすべきか」
「ふ……ふざけるな……俺は武田家に下げる頭など持っていない!」
「まだわからぬのか!要するにだ、この馬場美濃の陣を潜り抜けてやった褒美として、命をくれてやろうと言う訳だ。さあ、その命を使って長篠城へ戻り、お前のご主人様に吉報を届けてやれ」
そして信房の口から放たれたその言葉に、強右衛門と馬場家の強者たちの目が大きく見開かれた。
「な……何を言っておるのだ!ここで俺を長篠城に帰せば、長篠城攻略は完全な失敗だぞ!それでいいのか!?」
「そうです、信長の援軍が来るまでもう時間がないのです!ここでこの男を逃がして長篠城に入れるような事になれば攻略は困難になります!」
「ここで首を斬り、抵抗する者がどうなるか長篠城の連中に見せつけた方が…」
「黙れ!」
当然と言うべき強右衛門や馬場家の強者たちの反論に対し、信房は雷の如き大声を持って答えた。
「鳥居強右衛門、敵ながら天晴な忠義の士!武士たるもの、素晴らしき者に会った時には例え敵であろうとも素直に敬意を払うべし!わしは単にそう思ったからこそ、彼に使命を果たせてやろうとしているのだ!では聞こう!強右衛門の様な己が主の為に命を惜しまぬ男が部下に欲しくないのか!?」
「そ、それは……」
「欲しゅうございますが……」
「であろう?優秀な人材はいくらいても足りる事はない。正直、わしも欲しいぐらいだ。そんな人間をぞんざいに扱うなど、浪費以外の何だと言うのだ…ったく、奥平貞昌の果報者めが!」
この時、混乱していた強右衛門の顔からは厳しさが消え失せていた。そしてその隙を付く様に、信房は脇差を抜いて強右衛門を後ろ手に縛り上げていた縄を斬った。
「強右衛門、そなたの勝ちだ。長篠城はそなたにくれてやろう」
「恩を売ってやったとでも思っているのか!?勘違いするな!」
「そんなつもりなどない。そなたが立派な男だったから、それだけの話だ」
「後悔するなよ!」
「楽しみに待っているぞ、是非そなたと槍を交えたいものだ」
強右衛門は必死に悪態を付いたものの、その目から先程までの迫力は感じられなかった。一方で信房は屈託のない笑みを浮かべており、それがなお強右衛門の心を苛んでいた。
まもなく、馬場軍の兵により強右衛門は戦に巻き込まれた農民を届けに来たと言う名目で長篠城の本丸に送られ、貞昌と再会した。既に夜は白々とし始めている。
「よく戻って来てくれた!それで織田様のご意向は!」
「明朝、いえ今朝にも援軍を出してくれると……」
「そうか!よくやってくれた!強右衛門、感謝するぞ!!」
「ありがたきお言葉…………」
貞昌に強く手を握られた強右衛門は感動の意を示したものの、内心では強い敗北感に打ちのめされていた。強右衛門を讃える歓声も、援軍来たるの報に沸き返る将兵たちの歓声も、強右衛門の耳には入って来なかった。