第三章-2 会話と捕縛
「徳川の使者だと?」
十二日の昼、岡崎城の信長は怪訝な顔でその知らせを聞いた。
「浜松で何かあったのか?」
「いえ、浜松ではございません。長篠からだそうです」
「長篠だと!?」
信長は思わず驚嘆の声を上げた。
「あの包囲網を突破して来たと申すか」
「はい、そう申しております」
「早急に会いに行く、徳川殿はどうしている?」
「長篠から使者が来たと聞くや矢も楯もたまらず、あっちょっと待ってください!」
そこまで使いの者が言うや信長もまた跳ね上がるように座布団から立ち上がり、城門に向かって駆け出し始めた。使いの者を含め、周囲の者たちは急に走り出した信長を追い掛けるのがやっとである。
そんな声にも構うことなく走り続ける信長に近習たちが追いついたのは、信長が足を止めた岡崎城の東門であった。そこには家康とその近習、そして一人のみすぼらしい形をした男がいた。言うまでもなく、鳥居強右衛門である。
「その方が長篠よりの使者か?」
強右衛門は信長の呼びかけなど耳に入ってないと言わんばかりに、家康の手を握りしめながら目から液体を垂れ流していた。
(徳川の家臣は実直で素直な人物が多いと言うのは本当だな)
おそらく、自分の呼びかけなど本当に耳に入っていないのだろう。それだけ家康に出会えた事がうれしく、それだけ胸が一杯になっているようだ。
「しばし待つ。落ち着いたら徳川殿とわしに要件を話してもらいたい」
「あっこれは織田様、申し訳ございませぬ!」
信長のその言葉でようやく信長の存在に気付いた強右衛門は家康の手を握りながらも信長に向かって頭を下げた。その瞳からは相変わらず液体が流れている。
「誰か彼に茶を持って参れ、それから食事もだ。わしと同じ物をやれ」
「は……?」
「いいから早くだ!」
信長の叱責を受けるや近習たちは弾かれる様に駆け出した。
「そ、そのような……」
「武田の包囲網を突破して来た勇者を遇するに当然の行いをしているだけだ」
「しかし伝えるべき事はまだ……」
「少しは己の身を労われ。それはそなたをここに寄越した人間の望みでもあろう」
「それでは……ご厚意に甘えさせていただきます」
強右衛門は信長の言葉に遂に折れた。考えてみれば夜に長篠城を抜け出してから岡崎城にたどりつくまで一昼夜、相当な距離を飲まず食わずで走って来たのである。体力をかなり消耗しているのも当然だった。
「鳥居強右衛門とやら……用件を聞こう」
四半刻(三十分)後、食事を終えた少しだけ艶やかになった強右衛門に、信長は二人分もない距離から問い掛けた。
「長篠城はもはや本丸一つしか残っておりませぬ。もうどれだけ持つのかわかりませぬ」
「ほう……まだ長篠城の主は貞昌殿と言う訳か」
「ええ、ですがこのままでは!」
「わかった、明後日の予定だったが明日援軍を出す事としよう」
「本当でございますか!」
「ああ本当だ。おい、皆に出陣が明日に繰り上がったと言い触らして来い」
「いや、誠にありがたきお言葉ですが、準備のほうは」
「案ずるな、織田のやり方はこういう物だ」
信長は常に早い事を好み、情報を重んじ、そのやり方で尾張一国の小領主から現在の地位にのし上がって行った。当然、急な予定の繰り上げを行う事はこれまでも多々あったし、織田の武将たちもそれに慣れていた。近習たちも信長の言葉に対しやはりかと言わんばかりの反応速度で駆け出して行った。
「これで奥平様以下長篠城の者たちも救われましょう!織田様の神算鬼謀、全くもって驚嘆いたすばかりでございます」
「だが徳川殿のようにじっと時を待つは信長は不得手だ。徳川殿も信長とはやり方こそ違うが見事な将である、そう信長は断言しよう。何せお主の様な人間が徳川家には山といるのだからな。さて、お主の役目は終わった。ゆっくり休むがよい」
だがこの信長の言葉に対し、ほんのついさっきまで感動の涙にぬれていた強右衛門の顔にあからさまな難色が浮かんだ。
「どうかしたのか?」
「そんなご無体な事を仰らないでください!拙者は織田様の援軍がまもなく来たるという事を長篠城の者たちに伝えねばならないのです!」
「まさか今から長篠城に戻る気か?」
「いかにも!」
「よせ。長篠からこの岡崎まで一昼夜駆け通しでお主は疲れておる。仮に戻るにせよ一夜ぐらい休んでからでなくては」
「今この間にも武田は長篠城に牙を突き立てております!織田様の援軍あるを伝えれば落城を免れる可能性も高まりましょう!どうか、それがしを再び長篠城へ!」
「敵陣の大将は馬場信房であろう?それをもう一度突破できるか?」
「してみせます!」
「しかしなあ……」
信長は渋った。どうにもこうにも生還の望みのない場所に、鳥居強右衛門と言う得難い勇士を送り出したくないのだ。他人に近い信長でさえそう思っているのだから、家康はなおさらだろう。
「お聞き届け下さらないのならば、ここで腹を切らせて下さい!」
「わかったわかった、好きにするがよい。徳川殿と貞昌殿にはわしからそなたの妻子に重き恩賞を取らせるように申し付けておく。だが二人ともできればそなた自身に恩賞を授けてやりたいと思うている事を、ゆめゆめ忘れるな」
「はっ」
だが強右衛門の強硬な物言いに根負けした信長は、結局強右衛門の出立を認めざるを得なくなった。そして強右衛門は信長の了解を得るや、わき目もふらず長篠城目掛けて駆け出した。後には、苦笑を浮かべた信長のみが残された。
(夜陰に紛れ、再び馬場信房の陣を突破する。そして堀を泳ぎ、下水溝より城に入る)
強右衛門はそんな構図を描いていた。
しかし、信房も自分の陣を潜り抜けた人間の存在に気が付かない阿呆ではない。
その人間は何をしたか。おそらく、岡崎に飛び込み長篠城に至急援軍を送ってくれるように頼み込んだのだろう。その返事が諾か否か、断定できる根拠はない。しかしこの難関を潜り抜けて来たような人間が熱弁を振るったのだ、諾と考えるべきだろう。そして、諾の返事をもらったその人間はどうするだろうか。
感激に打ち震え、その感激を城の主にも伝えんと即刻長篠城へ向けて飛び出して行くだろう。長篠城自体が一刻を争う状況であるだけに尚更である。それに、行きと帰りの二回も包囲網を破られたとあっては馬場美濃の面目は丸潰れである。それだけに、信房も意気が上がっていた。
今夜が勝負だろう――そう読んでいた信房の命により、馬場陣には松明の林ができていた。この時、長篠城の西に布陣していた武田の軍勢は四千であった。それだけの数の軍勢が松明を焚いているのだから、馬場陣がどれほどの明るさになっているかは想像に難くない。ましてや十二日である上にこの日は雲がなかったため、月明かりまで加わりさらに明るくなっている。この中を潜り抜ける事などどれほど訓練を積んだ忍びでもまず無理な話だろう。
(どこかに隙はないのか、隙は……)
これではさすがに正面突破は無理な相談だと判断した強右衛門は馬場陣を見渡した。
そしてまもなく、強右衛門は広大な馬場陣の中で一ヶ所だけ暗くなっている場所を発見した。
「全く、馬場様は何をやっていたんだ!」
「何をやっていたんだはお前らもだろ!」
「失礼な、俺らのどこら辺に責任があると!?」
「連帯責任と言う奴だとお館様も仰っていただろ?お前らにも責任はある、わしもだが」
そしてその場所からつまらない口喧嘩の声が響いて来た。目を凝らして見てみると、馬場家の花菱ではなく真田家の六文銭の旗が翻っていた。強右衛門が長篠城を脱出する時にはなかった旗である。確かに、強右衛門を見逃した責任はない。
(城から抜け出た時も口論の隙を付いたのだ)
ここしかない、今しかない。強右衛門は素早く決断した。そして夜陰に紛れて近付いた強右衛門に、更なる天祐が舞い降りて来た。
「やってられるかよ!」
その怒声と足音と共に煌々と瞬いていた松明が倒れ、ただでさえ薄暗かった所がほとんど真っ暗になった。
(今だ!!)
強右衛門は決意を込めて駆け出した。
「誰だっ!」
しかしまもなく誰何の声、いや怒声にさらされた。この時、強右衛門は長篠城を脱出した時と同じ農民の装束を着ていたが、農民のふりをしようとしなかった。誰何の怒声を聞いた瞬間、全てを悟ったのである。
だがそれでもなお、強右衛門は足を止めなかった。万が一の期待を込めて走った強右衛門だったが、まもなく腹に衝撃を受けた。突き出された槍の柄が、正確に強右衛門の腹を捉えていたのだ。それでもなお強右衛門は必死に足を動かしたが、十歩も動かさない内にその体を地面に叩き付ける事になった。
「武田軍が二度も脱出を見逃す様な馬鹿の集まりだと思っていたのか?」
「………勝手にしろ」
地面に倒れ伏した強右衛門がそう吐き捨てるや否や、強右衛門の周りが松明で明るく照らされ、寄って来た兵士たちによって瞬く間に強右衛門は縛り上げられてしまった。松明を少なくして暗くしていたのも、つまらない口喧嘩をしていたのも全て強右衛門をおびき寄せる策だったのだ。
そして、強右衛門はその作戦にものの見事に引っかかったのである。だが、真田の兵たちの顔に喜色はなかった。
「作戦はうまく行ったんだがな……」
一度は城方の人間の脱出を許してしまっただけでなく、槍の柄で突かれても前進をやめなかった強右衛門の執念に、真田の兵たちは三方ヶ原で見た徳川軍の強さを思い起こさずにいられなくなってしまったのである。