表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長篠の勇士  作者: 宇井崎定一
第二章 混乱
10/20

第二章-4 逡巡と秘策

 五月九日、岡崎城にたどりついた信長はさっそく家康と共に織田・徳川の重臣たちを集め、軍議を発した。


「長篠城は?」

「いまだ健在です」

「そうか」

「しかし……その、長篠城への攻撃がこちらの想定より苛烈でございまして……」

「苛烈とは」

「勝頼は長篠城など我らを誘き出す囮ぐらいにしか考えていないと思っており……」

「本腰ではかかって来ないと読んでいた、か」

「はい……」


 忠次の想定より苛烈と言う言葉に信長は眉間に皺を寄せ、眼光を鋭くした。その百戦錬磨の忠次も思わず気圧された。


「恐れながら、我らの岡崎城への到着は既に……」

「筑前、今は上様と酒井殿がお話をなさっているのだ」

「よい。わしも酒井殿と同じように武田は本腰でかかっていないと思うていた。だがその目論見は外れたようだ。そして筑前の言う通り、武田は既に我らが岡崎に到着した事を関知しているとみて間違いなかろう」


 口を挟もうとした秀吉を一益がたしなめたが、信長は発言を促すように右手を振り一益を黙らせた。


「それで……いい方向に行くのかどうかが気になるのです」

「いい方向とは」

「長篠城を諦めて我らとの決戦への構えに移ってくれる方向です」

「では悪い方向とは我らの参陣に焚き付けられ長篠城に強攻をかけると言う展開か」

「ええ」

「筑前の言ういい方向に進めばわしも溜飲を下げられるのだがな」


 織田軍は三万、徳川軍は籠城の二千を引いて八千。合わせれば三万八千の大軍とは言え、長篠城は岡崎城より急行すれば一日でたどり着ける位置にある。武田軍がもう無理と判断して諦めるという展開も、時間がないゆえ強引に攻撃して落としにかかると言う展開も考えられる。秀吉が言った通り、信長にとっては前者の方がありがたい。


「先も言った通り、わしは長篠には本腰で挑んでこぬと思うておった……だが酒井殿の話を聞く限り、その目論見は誤っていたと考えねばなるまい」

「長篠城は織田軍が岡崎に着陣したことを関知しているのでしょうか」

「関知していてもらいたいが、としか言えぬ」

「とりあえず、織田家の旗を高々と掲げさせ、振らせてはおりますが」


 武田軍が長篠城を攻撃し、そこに織田・徳川軍が援軍の為にやって来て、そして両軍が設楽ヶ原で決戦を行う、と言う筋書きを信長は描いていたし勝頼も概ねそれに乗っかる形でこれまで進めていた。

 不意討ちでも起きない限り、大軍同士の戦いと言うのは片方が決戦場として想定した位置を、もう一方がそこでよいと了解して行われる事が多い。今回は信長が想定した長篠・設楽ヶ原と言う戦場を、勝頼がそこで良いと了解した結果である。


 もちろん、この決戦を行うに当たって長篠城の主が誰であるかと言う事はかなり大きな問題である。もし決戦のその日まで長篠城の主が奥平貞昌なら、武田軍は長篠城を抑え込むために兵を割かねばならない事になり、ただでさえ兵数で一万五千対三万八千と言う大差がついている中、さらに差が開いてしまう。

 だから、武田としては多少の犠牲を払ってでも長篠城の主を武田に連なる者にしたいはずだし、そうすべきだったろう。ところが信長打倒の夢と武田軍の強さに酔っていた勝頼は長篠城を重要視せず、織田・徳川軍を釣り出す囮程度にしか考えておらず、その結果本腰を入れた攻撃を行って来なかった。

 そしてそれが信長の思惑通りである事に、勝頼は気付く由もなかった。そのはずなのに、武田軍が長篠城を落とすべく必死で攻撃をかけているという忠次の言葉は、信長以下織田軍の誰にとっても想定外の物だった。





 この時、秀吉はこの場で勝頼が武田本陣に不在と言う重大事を発表してよい物かどうか迷っていた。織田の人間である自分が知っているのならば自らが伝言した家康以下徳川の人間は全員知っているに決まっているだろうし、そして織田で知っている人間は自分を除けば信長一人だろうと信じ込んでいた。

 ここで迂闊に言えば織田の将たちは混乱するだろうし、徳川には何を今さらな無益な情報だ。またそんな重要な情報をなぜ今まで伏せていたと織田家の身内からは不信を買うだろうし、徳川家の内部からも何を勝手に情報を探っているのだと言われても仕方がなかった。

 しかし、それがわかっていても秀吉はどうしても言いたくてたまらなかった。独自に勝頼不在の情報を掴んでから数日、優柔不断という言葉が全く似合わないこの男が、あと百年生きてもこれ以上迷う事はないだろうと言うぐらい迷い抜いていた。


「それで……徳川殿……」

「ん?」

「何か、武田について新しい情報をつかんでいないでしょうか……」


 秀吉の絞り出すようなか細い言葉を聞いた一益はいい加減に口を閉じろとばかりに秀吉の膝を打ってやろうとしたが、信長の言わせてやれと言わんばかりの目線に怯んで手を止めた。


「いや、それが……申し訳なき事ながら」

「そうですか、さすがに武田、情報の守りも堅うございますな」


 結局、家康はお茶を濁すように否定の言葉を述べただけであり、秀吉も家康に追従するようにお茶を濁した言葉で答えるしかなかった。


「とりあえず、従前の計画の通りで行きたいと考えるが、何か意見がある者は挙手にて意見を述べてもらいたい」


 秀吉と家康が迷いの渦に飲み込まれている中、信長が両名の迷いを断ち切るように力強い声を上げ、そしてその声に答えるかの様に一本の腕が上がった。


「酒井殿」

「長篠城の西、極楽寺に本陣を張るとの事ですが、そうなるとやはり決戦の地は設楽ヶ原でしょうか」

「いかにもそうなろう」

「では、それがしに一つ提案がございます」

「申し述べられよ」

「極楽寺の南東に船着山なる山がございます。その山を迂回し長篠城の南に築かれし鳶ヶ巣山砦を攻撃したいのです。設楽ヶ原にて両軍が激しく衝突している最中、後方の鳶ヶ巣山砦を突かれれば武田軍は激しく動揺し崩壊は免れぬかと」

「他に誰かおらぬのか!」


 忠次の提案を耳に入れるや、信長は眉を一気に吊り上げ、そして吠えた。続いてその忠次の発言が全く聞こえていないかのように、他の者の意見を求め出した。


「あ、いえ……」

「どうかしたのか?」

「ですから、それがしの提案について何か……」

「まだわからぬのか!聞く価値もなかったと言う事だ!」

「お待ちください……」

「なんだ、右衛門尉」

「正直な所、それがしは酒井殿の案に賛成しております」

「ふざけるな!」


 提案を無視した信長に対して喰い下がる忠次に、信長は冷たい一言を浴びせた。そして忠次の案を支持する発言をした右衛門尉こと佐久間信盛に対し、信長は怒気を露わにして怒鳴り付けた。


「そなたはそれでも織田の宿老か!!わしが筑前や日向(明智光秀)を重んじている理由がまだわからぬのか!」

「い、いえ……」

「いくらそなたと言えど、武田と言う難敵を目前にしてあのような愚にもつかぬ策に賛同するようでは宿老の地位は危うき物と考えるが懸命!」

「申し訳ございませぬ……」

「フン、それで他に何か提案はないのか!」


 信長はもう忠次と信盛の話は終わりだとばかりに他の将に諮りにかかったが、誰も挙手する者はいない。


「ならば余と徳川殿が提案した従前通りの計画で行く事とする、設楽ヶ原への出陣は三日後だ、解散!」



 信長のその一言と共に、羽柴秀吉以下織田・徳川の将たちは脱兎のごとく岡崎城の広間を後にした。残されたのは信長と家康だけである。








「家康殿、済まぬ」

「いえ……」


 しかし、将たちが去って行くまで般若のようだった信長の形相が、家康と二人きりになるや急に穏やかになり、そして家康の耳元で何かを囁いた。すると今まで少しだけ強張っていた家康の表情も穏やかになった。


「なんと……」


 全てを聞かされた家康は目を輝かせ、酒井忠次は口をあんぐりと開けたまま動けなくなった。


「先程は失礼した。これも全ては武田を打ち砕くため、ご容赦願いたい」


 先程とはまるで別人のような信長の低姿勢に、忠次は内心驚くと同時に感服していた。


 実は信長の意は、最初から忠次の策にあった。だがあの場におそらく武田の間者が紛れ込んでいたことを、信長は察していた。

 信長の手によって忠次の案がにべもなく却下されるのを武田の間者が目の当たりにすれば、絶対にその策で来る事はないだろうと武田は判断するだろう。また、信長が徳川の重臣である忠次にすげない対応をした事もまた、織田と徳川の不和と言う偽りの情報を武田にくれてやる策略として有効だろう。


「すると……佐久間殿も?」

「そう考えていただいて結構」


 信盛を怒鳴り付けたのもまた、信長にとっては策の一環だった。信長は独自に織田の重臣であるはずの信盛が最近織田家の中で疎んじられている事に腹を立て、武田に内通したがっていると言う噂を武田家の中に吹き込んでいた。この噂が信長の策である事を知っていたのは、徳川家内でも家康と半蔵の二人だけであった。

 しかも、この信盛が最近織田の中で疎んじられている事について腹を立てている、と言うのは紛れもない事実であり、信長はそれを承知の上で佐久間信盛が内通していると言う噂を流す策を仕掛けたのである。そして、信長が広めた噂で信盛が抱いていた信長に対しての怒りは、そっくりそのまま本物の信盛が信長に対して抱いていた怒りだった。

 このお方がいれば武田家打倒など容易い事、三方ヶ原の借りを一気に返せる。忠次の信長に対しての信頼は一気にその段階まで跳ね上がっていた。


「酒井殿には佐久間と共に鳶ヶ巣山砦を攻撃してもらう。よろしくお頼み申す」


 信長の言葉に忠次は嬉々として信長の元を去って行った。







 しかし、この時信長は武田軍の実権が内藤昌豊に渡っている事を知らなかった。もしこの時その事を秀吉か家康が信長に伝えていたら、信長はどうしたであろうか。確かに名案ではあったが、勝頼が敵大将である事を前提として立てたこの策を通しただろうか。とにかく、賽は投げられた。そして、その賽は新たなる役者の登場を告げる目を、人知れず出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ