甘党少女の生き方。
神代凪の朝は早い。なんてね。
諭さんは基本、起こされない限り十時くらいに起きる。だから私もそれに合わせていくことが多い。
そして、学校に行かないことを決めた私は、いつも通りの日常に帰る事にした。
「諭さん、おはようございます」
朝ご飯ができて、丁度十時。諭さんの耳元で囁きかける。
「ん……」
目がゆっくりと開いて行く。
「凪……?」
「はい」
「学校は?」
「私には、無理でした」
諭さんは目を細めた。手が伸びる。
「ていっ」
「痛っ」
「お前今日火曜日だろ。何でここにいるんだ」
「ね、寝坊……いえ、誤魔化すのはよします。私の居場所はあそこじゃない。そう思ったからです」
正直にそう告げた。
諭さんはポンと頭に手を置くと、立ち上がり、黙って洗面所に入って行った。
水が流れる音。三分ほどで、諭さんは出てきた。ちらりと、朝食が並んだテーブルを見て、私を真っ直ぐに見る。
「なんかあったのか」
「何もありません。ただ、もうあの場所は完成されています。私の入る隙間何て、ありません。涼香さんや、桐原さんは気にかけてくれますが、それでも、私はもう、異物でした」
諭さんの肩越しに見える鏡の中の私は、小さく、自嘲するように笑っている。
「向いてない、とも思いました。女子高生に」
女子高生をするには、私は冷めすぎている、色々な事に。
「諭さん、私の目、輝いていますか?」
「あぁ」
「諭さんの前では、耀けているのですね、なら、良かったです」
優しい人だ、やっぱり。
きっと普通の大人なら、お尻を蹴ってでも、行かせようとしただろう。不登校の生徒を迎えに担任が来たというケースも、何かで見た。
お父さんやお母さんは、まだ私に対して、強い態度で出られないから、朝起きてこなかった私に、何も言わなかった。諭さんも今、困った顔をするだけで、何も言わない。
私の世界は、砂糖菓子のように、甘い。
とても居心地の良い。マンションの一室で完結した世界が、ゆりかごのように、私を夢の中に誘う。
「凪?」
「えっ」
ハッと顔を上げた。
私はいつ俯いて頭を押さえていた?
「頭でも痛いのか?」
「い、いえ、いたって健康元気です」
「そ、そうか」
心配されてしまった。申し訳ない気持ちになる。
「その、凪。午後からでも行かないか?」
諭さんは、一歩踏み出すように勧める。
「そうするのが、きっと、世の中から見れば、正しいのでしょうね」
お互い、何も言えなくなる。
それから、きっかり六十秒。
「飯、食うか」
「はい」
諭さんがそう言って、食卓に着く。
スクランブルエッグに厚切りのベーコンとレタスをベーグルに挟んだ簡単な物。それと昨日の残りのシチュー。朝食は、単純なものに限る。手の込んだ朝食は、ちょっとお高いホテルやレストランで良い。
黙々と食べて、諭さんはさっさと準備して大学に行ってしまう。今週テストをこなせば、春休みと聞いた。大学の春休みはとんでもなく長いらしい。
「諭さんは」
「ん?」
「諭さんは、自分が否定されていると感じながら、どうやって歩き続けたのですか?」
出発の直前、私はそう問いかけた。
諭さんは小さく笑う。
「歩いてなんかいなかったよ。ただ、流れる何かにしがみついてただけ。俺はようやく、立ち上がって、歩き始めたんだ。狂うほどの強さも、死ぬほどの勇気も無く。世界を変えるほどの意思も無い、小さくて弱い俺には、それが精一杯だった」
一人になったマンションの一室。
前の私なら、躊躇いも無く、当たり前のように掃除を初めて、諭さんの棚を漁って、面白そうな作品に触れて、夕飯の準備を初めて、諭さんの帰宅に合わせて完成させる。という一日の消費を、選んでいた。
「どうしたら、良いのですかね、私」
誰にも届かない呟きは、虚しく消えた。
掃除を終えて、ボーっとしていた。膝の上に置かれた小説は、一日中開かれる事無く、棚に戻されることになった。
鍵の開く音、諭さんが帰って来た。
「おかりなさい」
「ん、ただいま」
諭さんは前、おかえりなさいと言われる素晴らしさを、語っていた。
「疲れて家に帰って来て、家の人はみんな寝ていて、夕飯は冷蔵庫の中で冷めていて、湯船も使用済みのお湯。悲しいなぁって、凪は体験したことある?」
「まぁ、一応」
「そっか、あの喫茶店、夜はバーだもんな。だとしたらわかってくれると思う。温かく、おかえりって言ってくれて、とりあえず汗を流したくて、温かいシャワーと、温められた湯船に浸かり、上がれば、出来立ての簡単な夜食が出てきたら、如何に素晴らしいかって想像する気持ちが」
病院のベッドの上で、思わず顔が緩むのを感じながら聞いていたのを思い出した。
私がこれから、諭さんにとってそんな、癒せる存在になるんだと思った事。
そう、今の私は正しい。何も間違っていない。
こうして、諭さんに温かさを届ける存在である事が、間違っている筈が無いんだ。
「今日の夕飯、ムニエルにしようと思いまして」
「美味しそうだ」
「楽しみにしていてください。あっでも、せっかく和食の事も勉強したし、活かしたい気も。でも、諭さんのお母様から習った中華を試したいという欲が……」
迷ってしまう。
でも結局、最初に諭さんに宣言した通りにした。
時間は、これからいっぱいある。その事を思い出した。焦る事は無いと、思い直した。
今の状況は良くないと思っているのは、まだ世間一般であろうと怯える優等生な私なのか、本心なのか。
結論は見えない。
諭さんはただ優しい。でもわかっている。諭さんは良しとしない事を。でも、それに従う事は、多分、できない。
ただ、私にかける言葉に迷っているだけ。
判決を待つ被告人の気持ちで、ただ日常を過ごす。
噛みしめるように、日常を。
「凪」
「はい」
来た。重々しい空気が、リビングから伝わってくる。
一言一句聞き逃さないように、私は水を止めて食器を置いた。手を拭いて、言葉を待った。
「君は、ここに来てはいけない」
「……えっ?」
予想外の言葉。学校に行けとか、そういう言葉なら、わかる。
でも、「ここに来てはいけない」は、わからない。理解できない。したくない。
「俺が君を駄目にするなら、俺は、君の傍に、いてはいけない」
「な、何を言っているのですか? 諭さん。私は、駄目になんか」
「なってるじゃないか」
「えっ?」
「俺に諦めることを許さなかった君が、諦めようとしている。君は、そんな人じゃないはずだ」
「そんなの、押し付けです」
「それでも良い。俺は、年上の人間として、今の君を、許すわけには、いかないんだ」
諭さんの言葉を、頭で理解し、心で咀嚼して、飲み込んだ。
そして、ただ、涙を流す事だけが、今できる事だった。
荒谷諭は、私が弱くなることを許さない。そう言いたいと、理解した。
「諭さん……」
「俺は、君と一緒に高校に行くことは、できないんだ」
当然だ。
「今日は帰れ」
久々に聞いた、冷たい言葉。冷たい声。
抵抗の一つもできないまま。私は家から出る。
でも、鍵は取り上げなかった。それがわざとだとわかっている。
痛む心。流れる涙は心の血。
神代凪は、一本の道しか用意してもらえなかった。
「進め、進め」
全力で走る生き方を、思い出せ。




