煌めく雪
「……諭さん。風邪ひきますよ」
「何のために暖房つけているんだ」
俺の部屋に入って来た凪は、下着一枚で寝そべる俺を見て、小さくため息を吐いた。
今は茜が恐らく風呂に入っているだろう。
何となしにカーテンを捲って窓の外を見ると、雪が降っていた。
「凪は、夏が一番似合うな」
「はい?」
「でも、冬も似合う」
「は、はぁ」
「きっと、春も秋も、似合うんだろうな」
「はぁ」
服を着た。外出用の。
「どこか行かれるのですか?」
「うん。故郷で、唯一好きな場所に」
「えっ、行きたいです」
凪の目がキラキラ光る。
「いや、湯冷めするよ」
「諭さんが言いますか……」
ジャンバーを着込み、ネックウォーマーで口元を隠し、パーカーを被る。手袋もしっかりとつける。
「ちょ、ちょっと待ってください。三分、三分ください」
「いやだから……」
「髪はしっかり乾かしてありますので」
それから部屋を走り出る。
そして三分きっちり、ではなく二分半で帰って来た。
「お待たせしました!」
「いや、待つほどの時間では無かったな」
そう言いながら、特に誰に言うわけでも無く外に出た。冷気が、出迎えた。息を吸えば、肺まで冷えて行く、俺にとっては心地が良い。
気がつけば、パーカーを外して、ネックウォーマーも取って全身で冷たさを受け止めようと、降りしきる雪に身を晒そうと、目を閉じて、腕を広げて空を見上げた。
「諭さん、風邪ひきますよ」
「凪が看病してくれるだろ」
「しますよ。喜んで」
歩き出すとついてくる。
ザクザクとした足音。雪道特有の歩きにくさも、今は気にならない。
この時間になると、外に出ている人もいない。車一台走っていない。
「寒くないか?」
「はい」
そう言う凪の首元がどこか頼りなくて、さっきまで付けていたネックウォーマーを被せる。
「あ、ありがとう、ございます」
歩く。
正直、一人になりたくてこうして外に出たのだが。でも、多分、確かに、本当に一人になってたら、俺は、どうなっていたのだろう。
あぁ、本当、凪は。
歩いて三十分。アスファルトでしっかり整備された山道、木々に囲まれた道。
少し不安げな凪。当然だ。俺がどこに向かっているかなんて、見当もつかないと思う。
でも、その答えはすぐ目の前。木々の切れ目、車二台分が止まれそうな道の脇。
「一人になりたい時は、ここに来るんだ」
「えっ……」
町が一望できる場所。俺が離れたくて離れた場所。
自分の存在の意味を感じられなくした場所。
特別何かがあったわけじゃない。ただ、ここでの日常の積み重ねが、俺の存在を削って行った。
ここに帰ってくる度、思い出したように疑う。
そして、ここに登ってくる。ここから見れば、町一つすら、ちっぽけに思えるのだから。
「諭さん、一人になりたかったのですか?」
申し訳なさそうな声は、手を握る事で答えた。
「いや、来てくれて、良かったと思う」
凪がいなかったら、どうなったのだろう。
凪が、今は凪だけが、支えだ。
でも、俺は。
俺は、一人ででも、立っていなければ。
「強くなるから。俺」
「えっ?」
強くならなきゃ。俺が。
凪のために。
凪と、生きていくために。俺の願いに応えてくれた、女の子のために。
「凪は、強いな」
「そんな事無いです。だって、諭さんが感じている重みを、取り除けるような言葉を、かけられませんから。私も、私の事で、精一杯で」
「いや、取り除いちゃ、いけないんだ」
俺の願いの代償だから。
「私も、生きたいと、少しだけ、願いました」
「えっ……」
「諭さんと、ずっといたいと、願ってしまいました。だから、その、諭さんばかり、責任を、感じないでください」
私も、同罪です。
凪は、そう呟いた。
「お互い、それは、一度確認したことでしょう。だから、あの日は、泣かないと誓ったのではないのですか?」
「わかっている」
目を伏せる。視界は地面。白く染まっていたその場所は、今は俺と凪の足跡に乱されていた。
「ゆっくりで良いです」
「えっ?」
「そんな急に強くなられても、私がついていけませんから。歩くんですよ、一緒に」
「なんじゃそりゃ」
「変ですか?」
「いや、変じゃ、ないけど」
「けど?」
「年下、何だよなぁ、凪の方が。情けなくなってね」
すると、凪は吹き出すように笑う。
「そんな事、気にしないでくださいよ」
「気にするよ」
「しなくて良いです。諭さんから、私は沢山のもの、貰いましたから。返しきれなくらい」
「いつあげたんだよ」
「諭さんが知らない間に」
無邪気に、ふにゃっと顔を緩ませる。
欲しかった言葉、欲しかった笑顔。愛おしさばかり、増してくる。
「ねっ、諭さん」
「なんだよ」
「諭さんの嫌いに触れた一日でした」
「あぁ」
「それでも、私は諭さんが好きなままでした」
「うん」
「でも、私は諭さんと同じように、嫌いにはなれませんでした」
「当たり前だ」
「皆さん、とてもよくしてくれました」
「凪は可愛いからな」
「ここで、楽しい事は、ありましたか?」
一瞬だけ、考える。
「無かったと言ったら、嘘になる」
絞り出すように、俺はそう答えた。
「少しずつ、好きになっていきませか? 諭さんが、ここでの嫌な事、十個言うなら、ここでの良い事、十一個言います。諭さんが、諭さん自身の嫌いな事十個言うなら、諭さんの良い所、百個言いますから」
「圧倒的に凪が不利な勝負だな」
「この程度、ハンデにもなりませんよ」
凪の、そんなたまに強気なところも、好きで。
「だから、諭さん。諭さんが諭さんを嫌いでも、自分の故郷が嫌いでも構いません。諭さんが嫌う分、私はそれ以上に、好きですから。好きを伝えて、いつか、好きになれるように」
心が、溶けていく気がする。
奥の方の、冷え切った部分に、温もりが届く。
「? 諭さん、大丈夫ですか?」
「えっ?」
「泣いてますよ」
伸びてきた手が目元を拭った。
拭っても、溢れてきた。
「大丈夫」
それでも、そう言った。
凪が驚いたように目を見開く。
「諭さん、やっと、そういう顔、見せてくれました?」
「どんなだよ」
「諭さんも、ちゃんと柔らかく、笑えるじゃないですか」
キラキラと、雪が煌めいた。
それは何処からの光なのだろう。
町を包む夜の闇すらも、白く染め上げた。




