壊さないで。
「いいか、彼女は大家さんの娘の凪だ」
「あら、神代さんの。いつもお世話になっています」
「い、いえ」
影山が乗り移ったかの如く、たどたどしくなる凪。
何とも良い奥様風の雰囲気出しやがって。
「んで、バイトだよ。家庭教師の。勉強教えてる」
「あら、諭、誰かに教えるほど成績良かったかしら?」
「痴呆? 認知症? 医者行くか? 俺の大学の偏差値ご存知?」
「あら、そうだったわね。諭、頭は良かったわね」
顔が強張るのがわかった。手を固く握り込んでいる。あぁ、イライラする。
「あ、荒谷……諭さん、睨んでます。睨んでますよ。落ち着いてください」
耳元でそう小さく凪の声に、少しだけ心が平静を取り戻した。
興味深げに部屋を見回す母親。力む体を落ち着かせるのに必死な俺、慌てる凪。三者三様の雰囲気はこの部屋を落ち着かない空間に変えていく。
「でも、そのわりに随分と馴染んでいるじゃない。ナチュラルにエプロンつけてるし、そこに乾してあるの、女物のパジャマじゃない」
母さんの中では確信されたものだ。俺と凪の関係は。
面倒だ。
「それで、母さんの妄想通りの関係だったら、どうするって言うんだ?」
「そうね、まずはご挨拶に行かないと」
「行くな。そういう関係じゃないって言っているだろ。これだけの状況を見られて普通否定するか? 無理があるだろ。それでも否定しているんだ。俺は」
「ね、さっさと認めなさいよ」
相変わらず、話が通じない人だ。母親の理論に則るなら、言ってわからないやつは体でだ、適用してやろうかと思う。でも、凪の目の前だ。
久々に会って、俺は母親にイライラしない術を忘れている。ダメだな、全然落ち着いていられない。
凪を視界に入れて、無理矢理落ち着く。
「ヤダよ。何で母さんの楽しい妄想のおもちゃにならなきゃいけないんだ。事実と違う事を認める筋合いも無い。あぁ、もううるさい、さっさと帰れ」
急に来て勝手に騒ぐな。
「でもねぇ、ご挨拶はしなきゃねぇ」
母さんが見るのは台所。
「あれ、諭じゃないでしょ」
「……どうでも良い」
「諭さん?」
「俺の生活を、壊さないでくれ、勝手に踏み込んで!」
抑えられない。抑え込んだ分、急に爆発する。
「諭、別にそんなつもりじゃ」
「うるさい! 帰れ! わざわざなんで俺が、地元から離れたのか、わからないのかよ……」
聞きたくない。踏み込まれただけで、イライラは止まらないんだ。
気まずい沈黙。わかっている、おかしいのは俺だって。それでも、睨む目は収まらないし、追い出すべく、実力行使に出そうな自分を抑え込むのが、精一杯だ。
「ごめんね、凪ちゃん」
母さんはそれだけ言って、部屋を出た。
しばらく待ったけど、車の出る音はしないから、きっといるのだろう、まだそこに。
早く帰れよ。
「さと……荒谷さん」
「あぁ。悪いな、醜い物見せて」
ポンと凪の頭に手を置いて、部屋に引っ込む。
わかっている。悪いのは俺だって。
でもそれでも、俺は嫌だ。踏み込まれるのは。まやかしの、与えられた城でも。やっと、傍にイラつく存在がいなくなって、自由になれたんだ。
鍵のかけた引き出し。その中にあるのは通帳とキャッシュカード。親の仕送りが入ってる口座のものだ。
バイトをやめる選択をしたという事は、俺はこれから、これに頼らざるおえなくなる。その決心はできていたはず。
なのに、今更、揺らいでいた。
あんな存在に、頼るのかと。
「くそっ……」
凪の期待に応えたい。なのに。どこまでも邪魔をして……。
わかってる。ただの、言いがかりだって。俺が、言い訳にしているだけだって。
「あの、荒谷さん」
控えめに扉が開かれる音。きっと凪が顔を覗かせている。
あんなものを見せた後も、声をかけてくれる優しさに、少しだけ感動した。
「えっと……」
「あぁ、悪い、なにか用か?」
「い、いえ、その……」
「ん?」
振り返る。それに合わせて、凪は部屋に入って来た。
「あの、その。荒谷さんは、ご両親と折り合いが、悪いの、ですか?」
「……俺が一方的に嫌ってるだけ」
そう、両親は、確かに俺を世話してくれた。
県外の大学に通えているのも、セキュリティがしっかりしたマンションに住めているのも。そもそも、こんなガキを二十一年も生きながらさせたのも親だ。
一人で生きているなんて、ふざけたことを言うつもりは無い。
「どうして、です?」
躊躇いがちに聞く姿に、人の好さがにじみ出ていて、苦笑する。
「なんでかな。積み重なって、はっきりとは、言えないや」
作家を志していることが父親にバレた時、真っ先に言われたことは、何だったかな。
あぁ、思い出した「それで食っていける人間は一握りだ」だな。
「今思えば一般論だ。でも俺は、才能を否定されたように、思えたんだな」
「荒谷さん……」
「俺は、馬鹿が嫌いなんだ。俺自身も、馬鹿だけどさ。馬鹿が嫌いだから必死になって勉強したけど、俺はやっぱり馬鹿なんだ」
どんなに言葉を尽くして、論理的に整理して、言って聞かせても話半分にしか聞いてもらえない体験をしてきて、それも嫌だった。それを俺は馬鹿だから話を聞かないんだって思っていた。
明らかに間違っていることを指摘しても、もっといい方法がある事を提案しても、まともに聞かれない。
そういう事が、積み重なって。いつからか、母親とまともに話さなくなった。父親を避けるようになっていた。
「あぁ、そっか」
凪との生活に居心地の良さを感じていたのは、これか。
「凪は、俺を否定しないし、話も聞いてくれるな」
聖人みたいな人だな。
「っ、ははっ。ありがとな、凪」
「い、いえ。私は、荒谷さんの話聞くの、好きですから」
俺は、俺が求めていた存在に出会っていた。その事実に涙が出そうになったから、全力で堪えた。ここで泣くのは、おかしすぎる。
「はぁ。全く」
離れれば、少しは気が許せると思ったのに、未だ、俺は親に対して凝り固まっている。
二度と会わなくて良いとすら思っている。
「荒谷さん、あの、その、私の事、好意的に評価してくれるのは、嬉しいのですが。でも、その、一般論になりますが、ご両親は大切にされた方が」
「わかっている」
凪の言葉は、素直に俺の中に溶け込んでくれる。
「でも、俺には……」
「できます。荒谷さんは、自分の非を認められているじゃないですか!」
「頭の中だけではな」
「それだけでも、立派です」
いつものように、柔らかく微笑んで、俺の言葉を待つように見つめる。眩しい目で。今の俺にはまだ、その光を直視できない。
「凪……」
「はい」
「……わかったよ。ちょっと行ってくるから待ってろ」
「はい!」
心底嬉しそうにするから、ちょっとだけ前を向ける。
「母さん」
「なあに?」
車の中、エアコンを効かせていたようだが、窓を叩いて声をかけると開けてくれた。
「正月帰るから、それで良いだろ」
「良いわよ」
それだけで満足したようで、車の窓を閉め、アクセルを踏む。
何となく、見送った。さっさと帰っても良かったけど。
「おえっ、吐きそう」
凪が背中を押してくれなかったら行かなかっただろうし、凪が待ってると思わなきゃ吐いてた。
「思ったより、すんなり帰ったな……」
しかし、余計な約束してしまった気がする。反故して良いかな。駄目か……。
はぁ。
俺はやはり親は嫌いだ。
こちらから歩み寄る気は起きない。
「でも、あーあ。くそっ」
筋を通す、ねぇ。
「社会人なって完璧に自立したら、二度と会いに行かねぇ。それで行こう」
「荒谷さん」
「ん?」
「お母様が置いて行ったもの、どうします?」
「……凪に、任せるよ」




