優しさの中で。
目が覚めて、まず目に入ったのは、安らかな寝顔だった。
抱きしめられていた体。俺も抱きしめていた。
柔らかいのに、細い体。
「はぁ」
何か、甘えてしまったようだ。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
昨日、悔しさを零して部屋に戻ると、凪は泊まる事を宣言した。
そのまま、ちゃんと別々に風呂に入った。
「あっ、今日短編、貰って無いので、一緒に寝てください」
「おい」
「手、出しても良いですよ」
「やだよ」
「そうはっきりと言われると、女として自信失くします」
いや、良識的な人間としての判断だが。
「荒谷さん、弱り過ぎですから。その、誰かが必要かなって。私なんかで、良ければ、あの、その、都合よく目の前にいたと考えていただいて、甘えて、ください。その、今まで、無理言い続けて、来たので」
そうして、凪に導かれるように、ベッドに入った。
子どもをあやすように抱きしめる凪を、自然と抱きしめていた。
あぁ、もう、どうにでもなれ。そう思うと、素直に凪の腕の中に納まる事が出来た。
エアコンを効かせておいて良かった。凪の温もりが、熱帯夜のせいで不快なものにならなくて、心地の良いものに変わるから。
「ふふっ」
凪は嬉しそうに笑う。
抱きしめる力を強くすることで、応えた。
それから、意識はまどろみに囚われた。
手を出していない。それだけは確信している。服はちゃんと着ているし、ベッドは乱れていない。まず俺は、酒を飲んでいないから前後不覚ではない。だから記憶は飛んでいない。
そもそも、俺がリアルJKに手を出すのはありえない。
なんだけど、俺はこの状況を受け入れていた。
「凪、起きろ」
「……ふぁ、あれ? あっ、おはようございます。荒谷さん。すぅ」
「二度寝するの早すぎるだろ」
頬を突く。ムニムニと、指の腹で優しく。肌荒れを知らない、すべすべした触り心地。自分のとは大違いだ。
ったく。
「はぁ」
昨日、凪に抱きしめられながら眠って、思ったよりぐっすり寝られて、どれくらいかぶりにスッキリ起きられた。
JKに何させてんだよ。
でも、うん。
景色が広くなった気がする。頭がスッキリしている。凝り固まっていた心が解れている。
「……って、これ、無断外泊させた形になるのか。マズいな……」
ありとあらゆる誤解を招きかねない。
手を出してないと言って、信じてもらえるのか……? 証明できるのか?
「うわー」
「うみゅ……」
「……ま、いっか」
信者だし。という納得のしかたは嫌だけど、仕方あるまい。
起き上がる。朝飯、どうすっかな。
「年下に抱きしめられて、安心して寝るって、俺も駄目だな。大分。はぁ」
冷蔵庫を開ける。とても整理されている。適当にハムとかベーコンとか口に突っ込めば良いかな。
「おはようございます」
「あぁ」
振り返る、凪は泊りになって良いようにと何故か寝巻を置いていたため、別に服は貸さなくて良かった。のだが、もうちょい選べよと。何というか、薄目のピンク色のネグリジェ? って言うんだっけ。ワンピースっぽいやつ。わりと目に毒である。
「なんで俺は頭を撫でられてんだ?」
「荒谷さんは、なんか、誰かが居なきゃ、駄目だなぁって、思いまして」
「なんだそりゃ」
「あんなに縋るように抱きしめられたら、母性が目覚めるか、鬱陶しくなるかの二択ですから」
「んなことは」
「あるんですよねぇ」
からかうようにニヤニヤと笑う凪に完全に主導権が持って行かれている。
「チッ」
「イヒヒ。ご飯は、何が良いです?」
「味噌汁とご飯。なんか海苔の佃煮あるし」
「あぁ、そういえば、涼香さんから貰ったの、すっかり忘れてました」
「へぇ、影山が」
そりゃまた、今度何か返さねぇと。
水で顔を洗うと、毛穴が引き締まる感じと、眠気に止めを刺した感じがする。
差し込む朝日が、こんなにも気持ちが良いなんて。
昼頃に起きた時の、一日の半分を無駄にした罪悪感を感じなくて良いとは、この事かって。
「そうだ、凪」
「はい」
「俺、バイト辞めるよ」
「はい」
「書くよ、本気で。探すよ、世界を」
まずは、その気になるのが、大事なのでは、何て思った。
昼頃、バイト先に電話を入れた。
昨日無断欠勤した理由に、親をだしに使うのは少々気が引けたが、仕方あるまい。流石に親が倒れたと言われれば、あちらも何か言い辛いだろう。最低だが。
わりと冷たい人間だな、俺。
仕事に出さえすれば勤務態度はかなり良い影山と。最近のアルバイトの中心メンバーである俺が急に抜けたスーパーのこれからは、大変だろうなと思いつつ、既に頭の隅に追いやられている。
もう、退路は無い。
夏休み中。一日の全てを、小説に傾けられる。
「荒谷さん、コーヒー淹れましたよ」
「あぁ、ありがとう」
「買い物行ってきますね」
「あぁ。いってらっしゃい」
ふぅ。
とりあえず、テーマだよな。
テーマを決めて、ストーリーラインを決める。
ここに来てようやく、プロットの必要性を実感した。
今まで作ったことが無かった。プロット。物語は勝手に溢れてくるものだと思っていた。
「自分の中に何も無いと気づけたから。かな」
自分の中に何も無いから、こうやって設計図を用意する。
溢れてこないなら、面白くなりそうな話の概要だけ決めて、あとはそれに肉付けすれば良い。
思いつくままに垂れ流せたあの頃が、懐かしい。
「俺は、何が、書きたい?」
その時、窓が叩かれる音がした。
「……市川」
「おひさ」
「ビビるんだが、普通に。インターホン鳴らせよ」
「いるのはわかってたんだが、出ないと思ったからさ。それと、なんか食わせてくれ」
「自分でつくれ。カップ麺は無い」
「はいー」
「はぁ。凪が帰ってくる前に帰れよ」
「わーってるって。僕も流石にもう一回殴られたいとは思わん」
勝手に目玉焼き作って、朝の残りのご飯をレンジで温めて、目の前で食い始める。
「んで、どういうわけだ。まぁ、このパターンはあれだな。バイト代尽きたな」
「まぁ、そんなとこ。明日にはバイト代入るから、それまでの辛抱」
「最近無かったのに、珍しいな」
「あぁ、まぁ」
「箸を止めるな」
「おう」
何か思うところがあったのか、ぼんやりとする。が、こちらとしては凪が帰ってくる前に追い返したいのである。
「僕はてっきり、すぐに追い出されると思ってたよ」
「俺は、別に。怒ってはいなかった」
ただ、おかしいと思っていた。
「おかしい、か。なぁ、普通って、なんだ」
「え?」
「お前が言う、普通って何だ? 年上は年下を、正しい道に導くべきってか?」
纏っていた軽薄な雰囲気が一瞬で消える。
「普通を探して、僕が正常と教えてくれるように人を壊して」
「それはおかしい」
「ははっ。自分でも意味わからないけど」
市川は笑う。そして、冷たい目が俺を貫いた。
「お前は、ちゃんと涼香の事、責任、取れるか?」
「……どういう意味だ?」
「無責任な俺から涼香を引き離すってのは、そういう意味だ。君の言う普通の通りなら」
ぐっと言葉を飲み込む。返す言葉何て無い。
「親に裏切られ僕に裏切られ、続いてお前に裏切られちゃ、あいつも今度は正気を保てないぞ」
「……わかってるよ」
そう呟いた時には、あいつはもうベランダの方に歩いていた。
「じゃあ、食器は頼むわ。ごちそうさん」
「あぁ」
凪が帰ってくるまでに片付けよう。
……影山、か。
そうだな。またあいつに正論叩きつけられた。
「あーっくそ。お節介が移ってる。凪め……」
でも俺、バイト先で連絡先、誰とも交換してないんだよな。だから当然、影山の連絡先も持っていない。




