真面目少女は諦めない。
「こんにちは。荒谷先輩」
「お前、もうバイト辞めただろ。先輩って呼ばなくて良いぞ」
「荒谷先輩には、お世話になったので」
「そうかい」
夏らしくノースリーブにショートパンツというラフな格好。清楚な雰囲気とはミスマッチだが、別に目に毒というわけでも、極端に似合っていないわけでも無い服装で、影山は訪れた。
「涼香さん、どうぞ。外は暑かったでしょうから、麦茶でも飲みませんか?」
「あっ、ありがとう、ございます」
グイっとグラスを煽り、一気に飲み干す様子は、清楚な雰囲気とは裏腹である。ラフな格好と合わないのは、、相変わらずのたどたどしさか。
まぁ、それはおいおい。
「凪さん、宿題、進んで、いますか?」
「宿題考査は行きますし、そろそろ終わりますよ」
「友達が、不登校なの、心配、なので」
律儀な奴だ、って思ったけど、それが普通か。よく考えれば。
「いつか、行きますよ」
凪にしては、キラキラして無いな。笑顔が。
凪にとってはキツイ話題か。
「影山、えっと……そうだ、お前持ってるのって、ヴァイオリンか?」
「はい。楽器屋さん行ってきた帰りで」
「あぁ」
楽器の事はよくわからんが、大事な事なのだろう。
「聞いてみたいな」
口から零れたのは、ちょっとした本音だ。
「良いですよ。……大丈夫、ですよね?」
「はい。夜の七時までは、楽器は問題ありません」
大家の娘が言うなら間違いはあるまい。
影山は構える。
雰囲気が変わる。顔が引き締まる。空気がピンと張り詰める。
ただ物と物がこすれる音が、震える音が、どうしてこうも美しいのか。
部屋に差す夕焼けが、吹き込む風が、揺れるカーテンが、美しく見えた。世界が、輝いて見えた。
その時間だけ、世界と自分たちが切り離されたような気がする。
曲が終盤に差し掛かり、そして、終わる。
目が開き、ヴァイオリンが下ろされ、優雅にお辞儀する影山が、じっと俺を見つめる。その視線を感じてようやく切り離された世界が戻って来た。
「上手いもんだ」
「大分、腕、落ちて、ますけど。でも、ありがとう、ございます」
パチパチと凪が拍手する音。俺も慌てて拍手した。
「大げさ、です」
どこか嬉しそうに、柔らかく微笑んで、影山はぺこりと頭を下げて、ヴァイオリンをケースに収める。
換気のために開けていた窓を閉めてエアコンに切り替える。
「では、私はこれで」
「影山さん、食べて行きませんか?」
「いえ、そんな……あっ、私が作りましょうか?」
「えっ、本当ですか! 嬉しいです。是非お願いします」
そんなわけで、ヴァイオリンを包丁に持ち替え、影山は台所に立つ。
「そうですね、肉じゃが、で、どうでしょう?」
「良いですね!」
影山と凪の、そんな会話が聞こえる。
外から見てると、やはり姉妹のようだ。どちらが姉か、議論の余地はありそうだ。
パソコンを開く。
手を置く。しっくりこない、書いてて楽しくない。不快感を堪えながら、言葉を並べる。物語を紡ぐ。
「うまっ」
「荒谷さんが、私の時より素直な反応してる……」
これは、優しい味ってやつか。
ほくほくのジャガイモはしっかり味がする。ご飯が進むというものだ。
……はぁ。
「凪が作る奴も美味いよ。あのピザとか」
「あれは、涼香さんの家の窯が良かったので……」
「いつでも、来てください。私じゃ、扱い、きれないので」
「すまん。おかわり貰うぞ」
「はい、どんどん、食べて、ください」
嬉しそうに笑う。なんかむず痒い。
「凪さん。どうぞ、プリント、渡しますね」
「あっ、ありがとう、ございます」
風邪をひいた生徒にプリントを届けるみたいなあれか。面倒だから押し付け合いとかよくあったな。休みがちの生徒だと、届ける役の人にとって、下校の道が、もはやその人の家経由になる前提になったり。
封筒から出てきた紙の量はそこそこ。
「今週の講習の時に配られたプリントです」
「そっか……」
目を伏せて、凪は呟く。
「みんな、頑張ってるな」
俺は思う。
市川に、年上として、彼氏として、影山をどう導くんだと。
くそっ、何であの軽薄そうな顔が頭に浮かぶんだ。めんどくせぇ。
でもこのままでは、俺は市川に向けた言葉を、自分で受けることになる。影山へのお節介が、嘘になる。世間的には、学校に行かないのは、間違っているのだから。
凪がもし、今の状況を正しいと思っているなら、正さなければ、駄目なんだ。俺は。
ならさっさと言えば良い。
頭の中でそう声がした。
学校に行けと。俺に構って無いで学校で勉強しろと。凪に言い聞かせろと。
無理だ。俺には。
開いた口は閉じられた。苦しい場所に、わざわざ行く必要は無い。
「それでは、また」
影山は帰った。
いつも通り、凪と二人になる。
「そうえいば、ゲーム、結局やったの?」
「はい。何となく、荒谷さんの好きそうな女の子から」
「お前なら、確かにわかりそうだな」
はぁ。
「というか、お前平気なのか」
「私、結構いけるジャンルは広いのですよ。好きなのは甘い話ですけど、グロイホラーにも、エッチなやつにも耐性ありますよ」
誰だ、この子をこんな風に育てた奴は!
「君のオタク遍歴が知りたいよ」
凪の淹れた紅茶で喉を潤す。
短編の結末を、打ち終え、読み返す。
「うん。ゴミ」
そう呟きながらプリンターを起動させる。
心を削らきゃ、小説は文の体を成しても、中身が無いように思える。
前なら見せたくなかったが、現状を認識させるために、凪に見せる事を選んだ。
テーブルに座り、呼吸を忘れたかのように、動くことを忘れたかのように、微動だにせず、目だけが文字を追っていることがわかった。
「荒谷さんは、この小説を通して何を伝えたかったのですか?」
「あぁ、まぁ、そうだよな」
「ただのボーイミーツガールですよねぇ。いえ、それが悪いというわけじゃなくて……」
珍しく、凪は言葉が見つからない様子で唸り始める。
テーマ性の話だろうか。
テーマは大事だが、テーマに走り過ぎるとそれはただの作者の主張になる。
「テーマ性に主力を置き過ぎて、地獄を体現していた劇を見たことがあってさ」
「どんなのですか?」
「友達の妹の演劇部で、脚本も部員が用意したものだったんだけど」
俺はあれを見てて途中で帰りたくなった。
「銃を向けられて生き死にがかかってる場面で、社会や世間の理不尽を叫び合ってるんだよ。高校生だなと思ったけど、あれ見てから、テーマ性とは隠すものだなって。一見してわからない程度が良いんだなって」
「それはそうですけど、荒谷さんが今書いているものは、その、わからないを通り越して感じる事すらできないので」
「だと思うよ。うん。俺は、伝えたいことが、無いみたいでさ。何も、訴えられない」
だから、ただのお話になる。
「荒谷さん……神薙先生の小説らしくないですね」
「新しい書き方の、ヒントすら、掴めない」
「荒谷さん。明日も出かけましょう」
「どこに」
「……そうですねぇ、プールでも行きましょう」
「あ?」
「駄目、ですかね?」
まぁでも、これと言ってやることは無い。
「とりあえず今日はバイト行ってくる。……行きたきゃ明日早めに起こしに来い」
「はい!」
滅茶苦茶嬉しそうな顔するな。そんなに行きたかったのか。
そして、次の日の早朝。
「荒谷先輩。おはようございます」
「なぜ影山がいる」
「一緒に行きたかったそうです」
「凪さんが、その、学校に、行かないで、何をしているのか、知りたかったので」
「と、言いますと」
「考えなしに、学校に来てください、と言うのも、その、一方的過ぎる、と。学校に、払ったお金が、無駄、とも思います、けど、でも、何か、あるのかな。って」
言葉を選ぶように、悩みながら思いを伝えてくれる。
「そうか」
いつもより三十分早めの起床。朝食を食べ、水着を探し出す。ここらで一番大きなプールに行くには、電車に乗らなければいけない。
「じゃあ、行くか」
女子高生二人を連れてプールに行くとか。
少しだけこれからの展開を考えて、げんなりした。




