血文字の小説。
「荒谷さん。おはよう、ございます?」
その声が俺を現実に引き戻した。
最悪の気分の朝だ。
「……凪か……」
「はい。朝ご飯、できていますけど、どうしますか?」
「……食べる」
凪の大きな瞳が、じっと観察するように俺を見ていた。
「具合、悪いのですか?」
「いや」
久し振りの感覚だが、ある時期の俺にとっては、これが普通だ。
「さぁ、食べよう」
曖昧な場所に立ってしまった、そんな感覚。
生きているのか、死んでいるのか、俺は存在しているのか、していないのか。荒谷諭か、神薙か、わからなくなってしまった感覚。
「パンケーキはおやつ過激派だったりしますか?」
「なんだその派閥」
「なら良かったです。蜂蜜でもかけて食べてください」
そうやって俺を起こして、凪は行ってしまう。毎朝、俺なんかのために、ご苦労な事だ。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、凪の手を握って引き留めたい、そんな風に思ってしまった。
「おーっす荒谷! うわ、顔色悪っ」
「……そんなにか?」
「あぁ、目つきも悪い」
「いつもだろ」
「いや、最近はましだったぞ」
手で顔を擦る。別にこれで直るわけではないが。
市川が隣に座る。四限の政治思想の授業は話を聞くだけだし、課題何て最後の授業に間に合うようにレポートを書くだけだから、楽だという話だ。
そういえば、就活、夏休み、どうしよう。
「荒谷?」
「あっ、あぁ」
回って来たプリント、市川が回してくれた。どうにもボーっとしてるな。
「お前がそんな風になるの、久々じゃねぇか」
「まぁ、な」
これは、結構酷い状態かもしれない。
講義が終わってそのまま学校を出る。寝れば治るかな。いや、治らない。治す手段は、時間に任せるしかない。
なら、今のうちに、凪に見せる小説を書き上げなければ。長編も、早くストーリーを練らなければ。
「あっ……」
そうやって自転車を飛ばしてマンションの駐輪場に置いてエントランスに駆け込むと、凪が白と黒のギンガムチェックのワンピース姿で立っていた。
「荒谷さん。お疲れ様です」
「……早いな」
「テスト期間なので」
「テスト期間に俺なんかのとこに来て良いのか?」
「勉強は、普段からしていますから」
真面目な奴め。
「荒谷さんは、酷い顔ですけど、大学行ったのですね……ごめんなさい、具合悪いのでしたら、看病できたら良かったのですか」
「うっせ。学校はちゃんと行け。具合は悪くない。普通だ」
そのまま俺は階段、凪はエレベーターに乗る。たかが二階に行くのに、エレベーターに乗るなんて、馬鹿馬鹿しい。
そしてすぐに机に座り、パソコンを開き、仕上げにかかる。
色々手直ししたり、書き直したり。しばらくして、一息ついて、読み返して一つ頷く。プリンターを起動したところで、凪が部屋に来た。
「遅くなりました!」
「いつも通りじゃん」
目ざとくすぐにプリンターが紙を吐き出していることに気づいて、少しだけ目を輝かせる。
「早いですね、今日は」
「まぁな」
そのままソファーに倒れ込むように横になった。
「お疲れ様です」
倒れ込んだ俺の頭の方に座り、頭を無理矢理膝の上に乗せ、そして早速とばかりに読み始める。
「……目の前で自分の小説を読むとか、どんな羞恥プレイだよ」
「ネットに公開して、二千人もの人にブクマを付けられた人の言葉とは思えませんね」
「それとこれとは話が違うし、二千人なんて、まだ少ないよ」
「上を見過ぎです」
まぁ恐らく、これは実際にやった人以外にはわからないと思うが、同じ部屋で目の前で読まれるのと、ネットに公開するとでは、わりと羞恥の度合いが違う。ネットに公開する方はすぐに慣れるが、目の前で読まれるのはいつまで経っても慣れない。
背中が痒くなる。
それから、一言も発することなく、黙々と凪は読み進める。
しばらくして、凪は原稿をソファーの向かいのテーブルに置く。その時わりと色々と、凪が前かがみになったせいで危なかったのは置いておく。
「荒谷さん……」
「ん?」
「荒谷さん、これ」
「あぁ、面白いか?」
「はい。そうですね。物凄く、夢中になれましたけど」
上手く言葉にできない感覚に襲われたようである。
身体を起こして見ると、顎に手を当てて、考え込んでいるようだった。
「今回は直すべきところ無しかい?」
「……そう言いたく、無いです。だって、苦しそう。こうして顔を合わせたからわかります。苦しんで、書いたって」
「そりゃ、書けないのに無理矢理捻りだしているんだ、苦しいに決まっている」
唇を噛み、何も言わずただ見つめてくる目。
俺はそれを真っ直ぐには見られない。
凪の目は、強い。そして、眩しい。
「荒谷さん、私は、荒谷さんに無理を強いていたのでしょうか?」
「何を今さら」
光が揺らぐ。きらりと一つ零れ落ちる。
慌てて拭うけど、凪の目から零れる光は止まらなかった。
「あれ、おかしいな。甘いお話を読んだら、嬉しくなるのに。なんで。大好きな神薙先生の物語なのに、なんで。ごめんなさい。ごめん、なさい」
黙ってティッシュでも差し出せば良かったのに、それができなかった。
凪が泣き止むまで、俺は動けなかった。
夕飯はとても静かなものだった。
俺は失敗したのだろうか。
いや、間違ってない。作家が自分を削る。当たり前じゃないか。差し出すものが無いなら命だって差し出す。それが作家ではないのか。
こういう時、俺はどうしてか、女に関してはプロ、だが、専門は女を壊すこととかいうクズ男しか、頼る人脈が無い。
市川はワンコールで出た。すげぇなと思いながら事情を、小説を書いているという部分だけ伏せて話した、まぁ、そこを削ると、話せる部分何て、よくわからないが泣かせてしまった、になる。
「凪ちゃん泣かせたって、お前、はぁ、これだから二次元しか興味ない男は」
「そこ、関係あるのか?」
「まぁ、無いな」
しかし、こいつ電話すればいつでも出るな。あまり電話しないからサンプル数が少ないけど。
「何をしたんだ」
「わからなねぇ」
「わからないって、心当たりは?」
「無い」
「ならあれだ。価値観の違いだな。お前の当たり前が凪ちゃんの当たり前と限らない」
「当然だな」
あぁ、本当。こいつたまに頭良いなって思えるな。
いや、あれだけの人間関係の中で立ち回れるんだ。馬鹿には無理だ。そもそも、世の中本当に馬鹿なんていないのだろうけど。
「もし知りたければ、自分の中の当たり前を疑うしかないんじゃないか」
「あぁ、まぁ、はぁ。質問を変えるが、わかったとして、どうしたら良いんだよ」
そう、俺だって原因はわかっている。馬鹿じゃないんだ。俺が苦しんだのが嫌だ。だろう。
「そりゃ、謝罪だろ」
「謝罪して済むなら、楽で良いよな」
「だな」
妙にお互い、実感がこもっている。
「それでも無理なら誠意を示すべく、行動で表明するしか無いな」
「んな無茶な」
「それくらいの無茶、やってのけろよ」
電話の向こうの市川は良い笑顔でサムズアップしているだろうな。
「はぁ」
ため息しかでない。
「それじゃ、悪いな。夜中に」
「あぁ、良いよ。今涼香と一緒だから」
「涼香?」
「ん? あれ、お前涼香は知ってるはずだぞ……」
「……もしかして、影山さん?」
「あぁ。なんだ、苗字しか知らなかったのか」
そりゃ、バイトのネームには苗字しか書いてないし。興味無かったからな。
「初めて知ったよ。それじゃ。彼女との時間を楽しんでくれ」
しかし……。もう夜の十時だぞ。こんな時間まで何しているんだか。あの悪い事に慣れてなさそうな女の子は。
スマホを充電器に繋ぎ、そのままパソコンと向き合う。
今の俺なら、多少は書ける。
でも今の俺の小説を、凪は求めていない。
でも、今の俺の果てに凪の大好きな「我が家のメイド。」は生まれた。
消費者が生産者の苦労を知ったら、残さず、しっかり「いただきます」「ごちそうさま」を言ってご飯を食べるようになったとか、そんな感じの事だろう。
「でも、俺はなぁ」
これ以外の書き方なんて、知らない。
自分を差し出す以外の書き方なんて、知らないんだ。