47,中央政府/資料室・午後
資料室。それはアレストリアの古今東西、全ての記録が積み重なる穴蔵。
ほぼ全てが紙の文書として保存されている為、傷みの元となる陽の光は殆ど遮断されており、頼りになる灯りは小窓から机へ少々差し込む日光と、電灯のみである。
規則正しく狭苦しい部屋の中で、スズミは持っている一冊の紙挟み、その埃を手で撫でるように払う。それから綴じられた紙を丁寧にめくっていき、とある一頁に目を留めた。
「……やっぱり」
確信したようにスズミが呟いた、その時。
「あら。良いものでも見付けたのかしら?」
棚の陰から、何者かがぬるりと姿を現す。
金の髪、薄紅色の瞳、紫のローブ。何やら赤みのある黒い影へ撓垂れ掛かっているその女は、紛れも無くアレグリアであった。眈々とスズミを見る彼女の口元には、獰猛な笑みが浮かんでいる。
正にそれは、捕食者の艶笑。
今にも血の滴る唇を舐ろうとするような様子の彼女へ、スズミは紙挟みから顔を離してにこやかに答えた。
「そうですね。私自身の中で確証を得たと思える程度のものは」
「へえ。良かったじゃない」
「……差し出がましいようですが、何故こちらに?」
「ふふふ。気になるの?」
「そうですね。何せ、初めての事ですから。特段の理由があるのでは、と考えている次第です」
「そうねえ。まあ、大した事でもないし、教えてあげても良いでしょう。と言っても、別に理由なんて無いのよねえ。暇で様子を見に来たら、たまたま貴方が居ただけ」
「……成程」
そう言って紙挟みを閉じるスズミに、で、とアレグリアが詰め寄る。
「何が、やっぱり、なの? 私、知りたいわあ」
「いえいえ、大した事ではありません。本当に」
「良いじゃない。私、こんな埃臭い場所へわざわざ出向く気になるくらいには暇なのよ。今ならどんなに下らない事だって、全部笑ってあげられるわ。だから早く、このアレグリアに御教示して頂戴な。勿体ぶる必要なんて無いのよ」
「…………」
言葉の奥にある彼女の意図を察しつつも、スズミはやれやれ、と困ったように笑ってから、元あった場所へ紙挟みを戻すべく歩き始める。
「僕の所属している部隊の事で一つ、気になった事があるんです」
「ええ。対『能力』保持者部隊の事でしょう? 知ってるわ」
「はい。実は部隊に『能力』を極度に使いたがらない方が居まして、その顔に見覚えがあったのです。記憶違いなのかどうかを確かめる為に今この資料で確認したら、その方は士官学校で私の二年後輩という事でした」
「ふうん。それで?」
「彼女は帝国陸軍、それも国境警備軍から来た人です。そして私が士官学校を出たのが二年と少し前。つまり、彼女が順当に進級して卒業したのだとすれば、国境警備軍へ配属されてから半年足らずでシュダルトへ呼び戻され、転属した事になります。配属されたらされたきり、が当たり前の国境警備軍で、そんな事が理由も無しに、いいえ、多少の理由があった程度で起こり得るのでしょうか。それが戦力となる人材であればまだしも、彼女は軍医という非戦闘員。わざわざ遠方から引き入れる必要はありません」
「あら。必要無い、なんて、酷い言い様ね。その子が聞いたら悲しむわよ?」
「そう言っているのではありません。いくら『能力』保持者に特化した部隊とは言え、戦線に出ない者まで『能力』保持者に拘る必要は無い、と言っているのです。『能力』保持者も他の一兵卒と何ら変わらない人間、怪我の治療は病院で受けられるもので十分。単純に医者が必要だからというだけでは、彼女を転属させる理由として明らかに不足しています」
「そいつの『能力』、知ってるでしょう? 『能力』保持者の相手をするのに一々怪我した程度で時間食ってる暇なんて無いんだから、丁度良いとは思わない?」
とある棚の前で漸く立ち止まったスズミは、数段ある棚の上部、丁度紙挟みが一冊分入る程度の間隙へ手元の紙挟みをゆっくりと戻し、背後のアレグリアへと相対した。
「……やはり、そうなのですね。確かに彼女さえ居れば、隊員の負傷による活動の支障をほぼ考える必要が無くなります。人員が少ない分、一人戦力が欠けるだけで形勢を覆され得る対『能力』保持者部隊にとって、あの『能力』の恩恵は余りにも大きい。彼女に求められていたのは、医術ではなく『能力』。成程、それであれば彼女の異動の説明にはなります。
ですが、それでもまだ理由が足りません。そもそも兵の負傷を度外視できる力なんて、消耗の激しい部隊であれば何処であっても欲しい筈です。常に大規模な戦線を維持する必要のある遊撃大隊など、特にそうでしょう。
彼女の『能力』を必要とする数ある部隊の中から、どうして対『能力』保持者部隊が転属先として選ばれたのか。単なる偶然である筈はありません。何故ならこの部隊の編成を行ったのは他でもない、貴女なのですから。
……率直に申し上げます。彼女の『能力』を奪取する気ではないですか、元帥補佐?」
「…………」
アレグリアの飄々とした相槌が消える。
「国外への侵略、報復への迎撃、オルテビュラ軍の撃退。他国や他民族との度重なる戦闘によって、帝国軍は人員不足に陥っているのではないですか。少なくとも、負傷した兵士の再出撃を待てない程度には。もしこれが本当なら、喫緊の課題です。早急に解決しなければ、国防すらままならなくなります。しかし数的な意味でも、方法的な意味でも、増兵には限界がある。なら、その限界を越えるにはどうするか。
……霊力負けを利用して、彼女の『能力』を術式へ落とし込んでしまえば良い。それさえ出来れば、もう王手です。その術式を原型として一般化術式を構築し、術符として衛生兵に使わせれば、手足の吹き飛んだ兵士でもものの数分で元通りです。そうして治した兵士を前線へ送り返し、負傷したらまた治す、これをただひたすらに繰り返すだけで、理論上、兵力は無限に存在する事になる。これが一番手っ取り早い打開策だとは思いませんか」
スズミが言い終わるが早いか、否か。
アレグリアが凭れていた赤黒い影から同じ色味をした巨大な顎が飛び出し、彼の身体へ食らい付いた。
「ッ!?」
一つ一つが人の頭程もある鋸歯状の歯に為す術も無く捕らえられたスズミの身体は、掴まれるようにして軽々と宙へ浮く。そしてそのまま背から資料室のドアへ──ではなく、資料室のドアを突き破った先の廊下の壁へ、尋常ならざる速度で叩き付けられた。
「が、はッ…………!!」
壁が砕ける程の衝撃を背面と臓腑に受け、スズミは大きく咳き込む。一房に纏められていた彼の長髪が、はらりと解けた。
スズミへ食い付いている顎は、彼の身体をぎりぎりと壁へ押し付ける。過剰なまでの膂力にスズミは身動き一つ取れず、辛うじて自由の利く両脚も、拘束を振り解くには余りにも無力である。
やがて。無様だと見下すような嗤笑の表情を浮かべたアレグリアが、吹き飛んだ資料室のドアから、こつ、こつ、と足音を立てながら現れた。
「やだ、まだ生きてるの? しぶといのは相変わらずねえ。蜚蠊って名乗りなさい、貴方」
彼女の足元には、血溜まりのような何かが湧き出でている。見るに、顎はそこから伸びてきたものであるらしい。
「……どんなに下らない事でも、全て笑って下さるのではなかったのですか」
「この期に及んで命乞いのつもり? ふふふ、死に損ないの雑魚の癖に」
「うっ!?」
顎から勢い良く伸びた腕に首を強く掴まれたスズミは、苦悶の声を零した。
「何。許しを乞うだけの能無しの分際が、この私を出し抜けるとでも思った? うっふふふ、哀れ過ぎて可愛く見えてくるわあ! 本当に変わってないのねえ。身の程知らずな所とか、特に」
「ハハ、これは手厳しい。耳が痛いですが、貴女の仰る通りです。……それでも、私は。私に出来る事を、諦めたくなかった」
「黙りなさい。負け惜しみなんて聞きたくないのよ」
「……ッ!!」
スズミの真下に展開された何かから無数の棘が萌芽を出し、彼の両脚を縫い止める。棘の一つが、スズミの脹脛を掠めるように削ぎ取った。
遂に全身の自由を奪われたスズミの姿は、磔刑に処されるのを待つ罪人のようである。そんな彼を前にして、刑の執行者は自身であると嘯くように、アレグリアは足元から腕を一対生やし、掬う形を取った手の上へ脚を組んで腰掛けた。そしてその腕をスズミの頭と同じ高さまで伸ばし、自らの膝へ肘をついて彼の顔を覗き込む。
「流石、あの弱くて惨めな国の王を自分から名乗るだけあって、救いようの無さは筋金入りね。折角生かしといてあげたのに、わざわざ死にに来るんだもの。まあ、良いでしょう。半殺しにするのも面倒だから、今から貴方、殺すわね。ああ、でもその前に。ちょっと私、気になってる事があるのよねえ。えっと、何だったかしら」
わざとらしく唸るアレグリアの顔へ、ぱっと喜色満面の笑みが咲いた。
「そうそう。言い残す言葉はあるか、ってヤツ。降って湧くゴミみたいな連中の生き死になんて本ッ当にどうでも良いし、物は試しで言わせてみても、家族がどうたら、とか、国を蝕む何とかが、とか、同じような事しか言わなくて心底つまらないから、更々興味無かったんだけど。貴方の言葉は特別に聞いてあげても良い気分なのよ、私。
だ、か、ら。ほら、さっさと何か言ってみなさいよ。どれだけ大きな声で泣き喚いても、言い終わるまでは生かしておいてあげるわ」
アレグリアの言葉は、真ではあるが偽でもある。彼女が飽きるか退屈を感じるかすれば平然と行動を翻すであろう事など、スズミにとって想像に難くない。
それを踏まえた上で、彼は大きく息を吐き出した。
「実は私、アレストリアにそこまで恨みはありません」
「……何ですって?」
「あの日、私がアレストリアに敗れた事で、ムーシュガルという国は地図の上から姿を消しました。王都マヒアレンは蹂躙の限りを尽くされ、王族、兵士、国民の、多くの血が流れました。ただ産まれ、ただ生きていただけの何の罪も無い民が、さも当然のように殺されていく様は、今でも時折、夢に見ます。
……でも、国とはそういうものです。存在している以上、滅びの時は必ず来る。違いがあるとすれば、その理由だけ。災害、病魔、侵略、戦争、革命。数多の理由がある中で、ムーシュガルはアレストリアの侵攻によって滅びた。それだけの話なのです」
「はあ。減らず口、好きねえ。それしか言えないの?」
アレグリアの溜息と同時に顎の咬合が強まり、いよいよスズミの身体が軋み始める。しかしそれを物ともしないかのように、彼は眼前の彼女へと目線を向けた。
「そう、聞こえますか?」
「…………は?」
図ったか、否か。挑発的なスズミを前にして、アレグリアの表情へ明らかな殺意の色が差す。瞳孔の開いた双眸に凝視され、ひたひたと迫る死を肌身に感じながら、スズミは腕の力に抗するようにして頭を起こし、顔を前へと向けた。
「ムーシュガルの存在はきっと、名前はおろか、存在すら無かった事になるでしょう。何せ、勝った方が正義ですから。では、いずれ滅びてしまうのならば、無かった事にされるのならば、その国を愛し、守る事に意味は無いのか。国という括りの中で、生きる事に価値は無いのか。
────いいえ。答えは断じて、いいえ、です。在るものはいずれ無くなる、そんな事は当たり前です。だからこそ、終わりが来るその時まで、営みを積み上げていく事に意味がある。生まれ育った国を想う事も、それに準じる行動も、積み上げる営みの一つにしか過ぎません。ですが、それは必ずと言って良い程消えないものです。例え貴女が、ムーシュガルの名を全ての記録から抹消したとしても、生き残った民を一人残らず皆殺しにしたとしても。どのような手段を取ろうとも、その軌跡を消し去る事だけは、絶対に出来ません」
『頑張らなくちゃね、あたし達』
『オレ、もうちょっと頑張ってみます』
特別でも何でもない、小さな言の葉。
それが燻る炎の薪となって、スズミの瞳に希望が灯る。
「国や場所に関係無く、どれほど苦しい世の中でも、正しくあろうと足掻く人達が居ます。彼等は何度も失敗や挫折を繰り返しながら、どんなに未練だらけでも、どんなに悔いを残しても、それでもふと過去を振り返った時、これで良かったと少しでも思えるよう、必死に生きる人達でもあります。
祖国の存亡など、最初からどっちでも良い。私はあの時も、今も、そういう人達の力になりたかった。その為であれば、この身、この命も、惜しくはありません」
アレグリアを正面に捉え、スズミは口角を上げて見せる。
それは、不敵と余裕の笑み。仁も義も無く、ただ刹那的に振る舞う彼女へ、少しでも傷痕を残す為に。
「……理解、出来ないでしょうね。あらゆる感情、あらゆる人間から目を背け、何も背負えず、抱えられない非力さを自由と宣って、奔放なように振る舞うだけの貴女には」
「────ッふふふふふ、賢しら顔が。噛み潰れて死ね!!!」
唇を吊り上げて狂気の表情を浮かべたアレグリアが拳を握った直後、スズミを捕らえている顎が万力の如き力で閉じ始めた。
「あ、が、ああああ…………!!」
顎の圧力に耐えきれず、スズミは搾り出されるように中身の無い吐瀉をする。事実、アレグリアの展開する顎にとって、人体は熟れた果実とそう変わりない。
身体中の悲鳴と共に、視界と意識が霞んでゆく。
ここまでか、とスズミが目を閉じた────────、
「何やってんだ、お前────!!」
その、瞬間。
聞き馴染みのある、しかしこの場では有り得ない筈の声。
同時に、アレグリアとスズミの間へ巨大な斬撃が飛んだ。繋がりを断たれたのか、今にもスズミを潰そうとしていた顎が跡形も無く塵と化して消えていく。
風吹き荒れる中央政府、西側回廊。
抜き身の剣を握り、怯えず、恐れず、アレグリアを睨んでいたのは、つい数十分前、中央玄関の前でスズミと別れた筈のジェンだった。




