41,敵勢ギルド拠点/食堂・夜
それは、数日前の「敵勢ギルド」。
暗い台所から出て来たハクアが食堂の机へ水の入ったコップを置いた、瞬間。
「むぐ!?」
死角から音も無く忍び寄った影に鼻と口を手拭きで押さえ付けられ、ハクアは驚きの声を上げる、が。
「……?」
それ以上の事は特に何も起きず、ハクアは口元の手拭きの匂いを嗅ぐ。
それでも尚何も起きないという状況に彼女が首を傾げると、その背後から溜息をつく声がした。
「アンタ、平気なの?」
「ん」
「ホント? 頭がクラクラするとか、何にも無いの?」
「ん!」
「……そう。
はあ。アタシも腕が落ちたものね。いや、ここは素直に喜ぶべきなのかしら……?」
「終わったか?」
影──シンがぶつぶつと何やら独り言を口にしつつハクアの背後から離れると、居間から小さな照明を持ったエーティが現れる。
「へ? 何でエーティ?」
「良いから。ほら、でっかく口開けろ」
「う、うん。あー」
そして、何が何だか、と困惑するハクアの口を開かせ、エーティは口内の最奥部、咽喉を照明で照らした。
「……何ともねえな。良し、閉じて良いぞ」
「んむ。どうしたの、二人共?」
ハクアがシンとエーティに尋ねると、シンは何やらごそごそと自身の胸元を探り、そこから一枚の紙切れを取り出した。
「これ。アンタ憶えてる?」
差し出された小さな紙。それは、およそ一月前に行ったハクアの霊力測定、その結果が綴られた術符であった。
「うん。憶えてるよ」
「ここ、霊力耐性のとこ。アンタのヤツ、『一部不明な箇所あり』ってあったから。もしかしたらアンタ、毒が効かないんじゃないかって思ったの。
でも試すにしたって根拠は無いし、ただの直感だったから、エーティに良い方法を訊いたのよ。そしたら、一番マシな方法に麻酔薬を嗅がせる方法がある、って言うから。やってみたってワケ」
「ふーん、そうだったんだ!」
「あんたなあ。もうちょっと怒ったって良いんだぞ、そこは」
理不尽の気配を多分に含んだ説明をすんなりと受け入れてしまったハクアを前に、エーティは呆れ気味に溜息をつく。
「……でも、これはこれで結構な問題だな。特にあんたは女なんだから、尚更」
「? そうなの?」
エーティの言葉に、首を捻るハクア。すると、彼女の様子を見ていたシンが、そうね、と、呟いてからハクアの前に立った。
「じゃあ一つ、アンタに良い事を教えましょう。
良い。この国にはね、人攫い、っていう理性を爆竹で吹っ飛ばされたみたいな連中が居て、特に路地裏、大通りから外れた道、って言えば良いかしら。その南っ側に多いんだけど。多分アンタ、そこ行ったら十中八九狙われるわ。理由を知りたかったら姿見を見なさい。
で。もしアンタが人攫いに遭ったとしましょう。さっきと同じような事をされて、連れて行かれそうになったら、って考えて。抵抗するのも良いけど、効かないからって薬嗅がされた後も平気な顔してたら、何で効かないんだ、って相手が焦るわよね。焦った無法者程怖いものは無いわよ。本当に何するか分かんないんだもの。執拗に暴力を振るわれるかもしれないし、最悪、撃たれるかもしれない。嫌でしょ? そういうの。だから、そうならない為にはどうするか。一番手っ取り早い方法は────」
???/仄暗い独居房・昼
────気を失ったフリをしなさい。体の力を抜いて、目を閉じて、一点だけを集中して見るの。寝たフリ、とも言うかしら。大丈夫。相手だって所詮は素人、そう簡単にバレやしないわよ。逃げる手立ては、相手の警戒が無くなってからゆっくり考えれば良いわ。
「…………」
数日前にシンに教わった事を教わったままに実行、物の見事に人攫い達の目を欺いたハクア。独房の中、冷え冷えとした石煉瓦の床へ横たわる彼女が、徐に双眸を開く。
俯いたまま、視線を動かして周囲に人影が無い事を確認したハクアは、顔を上げて体を起こす。
填められた手枷。両手首を繋ぐ鎖。幸い、彼女が「能力」持ち──「『能力』保持者」の俗称──であるという疑いは掛からなかったのか、馬車に乗り込んできたラルフとは違い、手枷に術式は無く、足枷も填められていない。
「…………」
ゆっくりと立ち上がったハクアは、霊力を解放して自身に身体強化を施し、端倪すべからざる剛力で、手枷ごと鎖を両方向へ引っ張る。
みきみきと音を立てた鎖素子の一つが、溶接面で千切れ飛んだ。
拘束を解いた彼女は身体強化を維持しつつ目前の鉄格子へと駆け、その扉の直前で跳び上がる。
直後、堅牢な鉄の扉へ強烈な蹴りが見舞われ、掛かっていた錠ごと扉の掛け金が吹き飛び、有り余った衝撃で扉が全開まで開いた。
足早に牢から脱し、ハクアは左右を見るが、何処を見ても同じような鉄格子が延々と並んでいる。だが間も無く、男の怒鳴り声と思しき声が通路の奥から響き始めた。
「ッ!!」
自身と共に拐かされた非力な少女──リアの身に起こり得る最悪の状況が、ハクアの脳裏に想起される。
「リアちゃん……!」
居ても立っても居られず、ハクアは声のする方へと走り出した。
???/異臭のする雑居房・昼
「オラ、足開けっつってんだよテメエ!!」
「……──い。い、や」
血の滲んだ鼻栓を付けた男──馬車にて、飛び降りてきたラルフに昏倒させられた男──が、苛立ちを露わにしながらリアの両脚を開こうとする。
一方、ハクアと同様に手枷を填められているリアは、意識こそ取り戻してはいるものの、抜け切っていない麻酔薬と馬車へ引き込まれる際に殴られた後頭部の鈍痛により、未だ朦朧としているようであった。
「……──おね、がい、します。やめて、くだ、さい…………!」
既に下穿きは脱がされ、脚に力は入らず、それでも尚懸命に抵抗するリア。しかし。
「うるせえ! 黙ってねえとこれで目ん玉突き刺すぞ!!」
「────あ、」
振りかざされた、銀の光。
それが錐であれナイフであれ、リアのぼやけた視界に映るそれは、彼女に底知れぬ恐怖を与えるには十分過ぎるものであった。
「ったく。最初っから大人しくしてろってんだよ」
「…………」
反抗を諦めたリアの衣服が肌着ごと下から上へと切り裂かれ、彼女の白い肌が露わになる。やがて息を荒くした男が自身の股を弄り始め、リアの目尻から一筋の涙が零れ落ち──────。
────ぎいいいい。
引き戸が付いている訳でもない鉄格子が、重い音を立てて軋る。
「あ?」
聞き慣れない音を耳にした男が後ろを振り返った、瞬間。
「ガッ……!?」
床を掠めた鋭い蹴りが、男の脇腹に減り込む。
そのまま彼は石ころのように吹き飛んでいき、壁へと叩き付けられて崩れ落ちた。
覆い被さるような大きな影が視界から消え、リアは目を見開く。
灯りに照らされて輝く、銀の髪。仄暗い闇に映える、真紅の瞳。
「あ、あ…………!!」
それは、彼女が初めて強烈に焦がれた存在。
その顔貌、強さ、心、全てを夢見た憧憬そのもの。
「ごめんね、遅くなっちゃって。さあ、一緒に帰ろう。リアちゃん」
牢に充満する異臭に眉一つ動かさず、笑いかける少女。
自身を慰み者にしようとした男を、文字通り一蹴した少女──ハクアである。
「うう、ううう、うああぁぁ────……!」
「! ……そうだよね。怖かったよね。でも、もう大丈夫だからね」
ハクアは泣き付くリアを脱いだ上着で優しく包んでから、彼女の身を抱き寄せた、が。
「……うるせえな。黙れよ、お前」
「!」
唐突に、男の声が響く。
「犯されるくらいでギャアギャア喚くな。女なんだから当たり前だろ」
がら、と、床に鎖の擦れる音が鳴る。
音のした方へハクアが顔を向けると、そこには一人の青年が膝を抱えて座っていた。彼の居る場所には光が行き届いておらず、その暗さは目を凝らして漸く彼の存在を認知出来る程である。
唐突に掛けられた青年の言葉に放心するリアと、彼の居る闇を真っ直ぐに見つめるハクア。二人の視線を浴びた彼は、徐にハクアを指差した。
「そこの銀髪の女。お前、特別だろ」
「……特別?」
「特別は特別だ。その証拠がその腕だ。番号が無え」
「……番号って、どう言う──……?」
話の通じないハクアに大きな舌打ちをしてから、青年は続ける。
「番号ってのはな。牢にブチ込まれてる全員の腕にあるモンだ。俺達は名前で呼ばれねえ。灼いた鉄で無理矢理付けられたその番号が、ここで呼ばれる名前だ」
「ッ!!」
目を剥いたハクアが咄嗟にリアの袖をめくった。しかし、彼女の両腕を確認しても、彼が言う所の番号は見当たらない。
「飛びっきりのブスでもなけりゃあ女に番号は付かねえよ。良いよなあ。女ってだけで番号が無えんだぜ? でもここに入れられたって事は、ソイツは特別じゃねえ。どうせ金持ちの連中にでも安く買い叩かれる。女は人気だからな。でもお前は違う。お前は絶対に特別だ。お前には、番号も、足枷も、殴られた痕も無え!」
声を荒らげたのも束の間、青年は淡々とした口調で続ける。
「……特別ってのはなあ、金持ちが泡吹くくらいの値段で、一等高く売られるんだ。俺達なんてシラミになっちまうくらいの価値があるんだよ。だから身体も服も綺麗なままで、メシも腹一杯食えて、お前に手を出そうとした連中の方が逆に殺される。それが? 何、一緒に帰ろう? 大丈夫? 頭沸いてんのか。ここが何処で、どういう場所で、俺達がどういう扱いを受けてるのか、何にも知らねえクセに知った口ばっかり利きやがって。
まあ、そうだよなあ。ここに来る前から特別扱いされてたんだろ? お前。こんなドブみてえな場所でも特別になれるくらいなんだからなあ。弱きものを、とか、可哀想、とか言いながら手を差し出すとか、見下してるのが見え見えなんだよ。んでアレだろ? お前は皆の人気者だから、周りは手放しでチヤホヤして、お前自身は何の責任も感じないまま、ただ自己満で気持ち良くなって終わりなんだろ? さぞかし楽しい人生なんだろうなあ。腹の底から気色悪りいよ」
「…………」
一言も青年に言い返せないまま、ハクアは目を伏せる。すると、先刻までハクアに縋り付いていたリアが不意に立ち上がり、ハクアの元を離れて歩き始めた。
ゆっくりと彼女が進んだ先は、青年の正面。膝を抱えていた青年は、姿勢を崩して彼女を睨む。
「あんだよ」
「……──れ」
「はァ? 何つった──……?」
「黙れえぇッ!!」
刹那。半ば金切り声と化した怒号と共に、青年の頬へリア渾身の平手打ちが飛んだ。
「ッ!!? テメエ、何しやがんだコラ!!」
「聞こえなかった? 黙れって言ってんの!」
眼下の青年の胸倉を両手で掴み、彼をこれでもかと睨み付けた彼女は、大きく息を吸う。
「アンタねえ。さっきから聞いてれば、女だから、とか、特別だから、とか、どうにもならない事にばっかり難癖付けて、自分がただビビってるだけの事をハクアさんの所為にしないで! 自分からは絶対に動こうとしない癖に! それにねえ、ハクアさんはアンタが思ってる程単純じゃないの! 他の人と一緒にするな! この脳足りん! 腰抜け! クソ野郎ッ!!」
「リアちゃん、落ち着いて……!」
怒鳴り散らすリアを青年から引き離し、ハクアは彼女を宥める。
ハクアに動きを抑えられ、肩で息をするリア。敵意に満ちた目で自身を睨む彼女に最初こそ面食らっていたものの、青年は直ぐに溜息をつきながら頭を掻いた。
「ったく。これだから女は嫌いなんだよ。気に食わなけりゃ何でもキンキン叫んで手ェ上げりゃあ良いと思ってやがる」
うぜえったらありゃしねえ、と悪態をついてから、青年はハクアを見る。
「……ここに見回りに来る連中はみんな銃を持ってる。そこに転がってるデブだってそうだ。そんな奴等から生きて逃げられると思うか? それにもし、運良くここを抜け出せたとしても、その先に居る白黒の服を着てる人間からは絶対に逃げられない。戦って勝とうだなんて以ての外だ。
……十七人。俺がここに捕まってから今までの二ヶ月間のうち、ここから逃げ出そうとして、殺された人間の数だ。分かるか。逃げようとしたって無駄なんだよ。俺達がどう足掻こうが、全部無駄なんだ。結末は変わらねえ。ただ、安く売られて『奴隷』や『家畜』として惨めったらしく死ぬっていう末路に、この地下牢から脱出しようとしてボロ雑巾になって死ぬっていう選択肢が増えるだけだ」
「…………」
俯いて黙るハクアに、青年は、ハハハ、と乾いた笑声を上げた。
「どうだ、これが現実だ。今更後悔したって遅えんだよ。恨むんならテメエのオツムのユルさを恨むんだな。まあ、それでも別に逃げるって言うんなら止めねえぜ。テメエのその傷一つ無え顔が痣だらけにでもなりゃあ毎日の鬱憤も晴れるってモンだ。ああ、それか白黒の服の連中みたく、『フェウス様、我等にお導きを』、つって女神とやらに縋ってみるか? やってみろよ。何にも起こりゃあしねえだろうがな!」
「このッ──……! ……ハクアさん?」
青年に掴み掛かろうとするリアの両肩に手を置いたハクアは、彼を真っ直ぐに見つめる。
「……確かに、無駄なのかもしれない。何をしたって、結局何にもならないかもしれない。でも、それでも、諦める訳には行かないんだ。だってこの子には、リアちゃんには、帰る場所があって、心配してる人達が居るから。その人達が、きっと私なら大丈夫、って、信じてくれているかもしれないから。
だから私は、全力でリアちゃんを助ける。絶対にここから無事に帰す。それだけが、私に出来る皆への報いだから」
「……ハッ、何を言い出すかと思えば。臭すぎて鼻が曲がるなんてモンじゃねえな」
はあ、と溜息をついて頭を掻いた青年は体勢を戻して膝に顔を埋め、暫くの間黙ってから、再度ハクア達に目を遣った。
「……何してんだよ。早く行けよ。そいつを帰してやるんだろ? ならこんなクソみてえな場所に居る必要無えよなあ? ほら。行けよ。行けつってんだろうが!」
青年ががなり散らした、その時。
「…………あ?」
彼の背後から一人の小さな子供が現れ、ハクアの元へと走り寄った。
「おい。何してんだよ、お前」
青年の声を無視して、子供はハクアにしがみ付く。
「……帰る場所があるから、おねえちゃんはそのひとを助けるの?」
「……うん。そうだね」
静かにハクアが答えると、彼は涙と鼻汁に塗れた顔で彼女を見上げた。
「じゃあ、帰る場所がないぼくのことは助けてくれないの?」
「────────…………」
ハクアの表情が、瞬く間に凍て付いていく。
それを目にしたのが皮切りとなったのか、彼はわあわあと大声を上げて泣き始めた。
「やだやだやだ、そんなのやぁだ! なんでぼくのこと助けてくれないの!? そのひとだけなんてずるい!」
「わたしも。わたしもいっしょに助けてほしい!」
「ぼくも、もうこんな場所になんかいたくない!」
「おい、お前等、何考えて──……!?」
青年が引き止めようとするのを他所に、彼の背後に隠れていた子供達が一斉にハクアの元へ次々と集まっていく。
そして。暫しの間、時は経ち。
「テメエ、こんな場所に居やがったのか! って、ここも壊したのかよ!? ああもう、ったく、この短時間でよくもやってくれたな、このクソアマ!!」
大声で泣きじゃくる子供達を腕に抱き、自身に背を向けたまま項垂れるハクアへ、何処からか走って来た女──ハクアの監視を任されていた、ラルフに銃を向けた女──は、彼女の傍らで呆然と立ち尽くすリアには目もくれず、心無い罵声を浴びせる。
「……ごめんね、気付けなくて。大丈夫だよ。皆、私が助けるから」
「おい! 聞いてんのか! 聞こえてんなら返事しろ!!」
譫言のようにそう呟くだけのハクアに苛立ち、女は歪んだ鉄格子の隙間から身を乗り出して雑居房の中へと踏み入ったが、直後、何者かが彼女の襟首を捕らえた。
「!?」
檻に入っていた半身をそのまま引っ張り出され、女は背後を見る。そこには、冷ややかな視線で彼女を見るラルフの姿があった。
「お前、生き──…………かハッ」
掴んだ襟首はそのまま、ラルフは空いた手で女の手首を掴み、「能力」を発動する。
為す術も無く気を失った女を放してから、ラルフは未だに頭を垂れたままのハクアを鉄格子越しに見つめた。
「ハクア」
「……うん。私、この子達を助けなきゃいけないの。だから、先に行ってて良いよ」
彼の方を向き、何でもないように笑うハクア。
それを目にしたラルフは、少しだけ目を伏せるような素振りをして──────、
「……そうか」
低く、それだけを口にして、何処かへと駆け出して行くのだった。




