壱 ‐イチ‐
九条学園高等部の保健室。
保健医の芳原紗菜は、南に面した窓を全開にし、外を眺めていた。
快晴の下、初夏の清々しい風が通り抜ける。朝日を浴びて、木々も花も、空気までもが、きらきらと美しい光を放っていた。
はしゃぐような風が、室内に白い花弁を運ぶ。それを手のひらに受けた紗菜は、吹きやまない風を見つめながら独りごちる。
「まるで…心が弾んでいるようね。……私も、とても嬉しいわ。ようやく会えるのだから」
口許に優美な笑みを浮かべて、その瞬間を思い描く。
懐かしい記憶が甦り、眼鏡の奥の瞳を細めた。
保健室に入り込む柔らかい風が言葉に呼応して、彼女の長い髪を戯れ乱す。
「――全てが、始まる」
優雅な仕草で掌中の花びらに口づけをした紗菜は、窓から右手を出してそよぐ風に白い欠片を乗せる。
まるで意志を持ったかのように、花びらは建物からどんどんと離れて、正門の外へと向かう風に乗る。
――ようやっと、この時が来た。
そのまま敷地の外へ出た風は、坂下を目指してまっしぐらに走る。
◆ ◆ ◆
五月の連休明け。
関東の南西に位置する私立九条学園は、初等部・中等部・高等部・大学部からなる、財閥の流れを汲む九条グループが創設した教育機関。
学園を囲むように、病院・住宅・研究所・ショッピングセンター・文化ホール・映画館などが建ち並び、学園都市の様相を呈している。
藤杜玲花は、九条学園高等部へ続く坂道を歩いていた。
緩やかに続く上り坂。
玲花は一歩一歩、胸中の沈鬱な思いごと踏み締めるように進む。
今日から、この高等部の一年生となる。
緊張した面持ちで、並木をのんびりと歩く。これから始まる新しい環境に心が強張り、歩く速度が遅くなる。
立ち止まり、玲花は下を向く。
チャコールグレーのジャケットに、幅広のボックスプリーツ型のスカート。鮮やかな浅葱色のリボン。
真新しい制服はパリッとしすぎて、着心地がよくない。
浅くなる呼吸に気づいて、玲花はゆっくりと息を吸い吐き出した。
「大丈夫、大丈夫」
自分自身に言い聞かせていたら、涼やかな風が頬をなでる。
サワサワと葉の擦れ合う音の大きさに、玲花は視線を頭上に向ける。
空を覆う桜の枝。
揺れる桜の葉を透かして陽光が零れ、キラキラと輝く。
「……綺麗」
玲花の呟きに共鳴して、薫風が更に葉を揺らす。
張りつめていた心が和らぎ、玲花はふわりと笑む。穏やかに吹き続ける風が、自分を励ましていると感じ、
「ありがとう」
と玲花は伝える。
不安だらけの心が軽くなる。何も知らない場所に緊張していたが、この綺麗な風景が気持ちを和ませてくれた。
ざあぁぁぁぁ……。
玲花の言葉に歓喜し、強い風が通りすぎる。
白い小さな花片が、雪のように舞う。
風に流れる長い髪を左手で押さえながら、玲花は散る雪白に見惚れる。
――嬉しい………。