歪む道「研究所の湖」
七つ目の太陽は爛々と笑みを撒き散らし、湖に咲く連色蓮華はころころと色を変えながら回転している。後ろを振り向けば大きな建物がある。複数の煙突を持ち、せわしなく金属と蒸気の音でひしめく研究所。アバロスの知る家とは異なる直線的な構造だ。
アバロスは先端に重りをつけた糸を垂らし、湖の深さを測っていた。水中での活動に向けた装備は整いつつあるため、改めて湖の調査を始めているのだ。すぐ傍ではロクラが目玉を垂らし、体を横にしている。
本来なら湖に住む人物に接触し情報を得ようと考えていたのだが、いるのは解脱の魚や三角草などなど、会話のできる相手に巡り合えていない。かといって水中に潜るのも彼は嫌だった。体液の濃度が薄くなると思考能力が減衰しやすくなる。
「ああ、お前かアバロスか」
そう話しかけられ、アバロスは顔をしかめた。覚えの悪い声。ロクラは既に立ち上がり、逃走の準備を始めている。振り返ると、ホットパンツにシャツというラフな格好をした少年がいた。兎のような耳は長く、紐のように垂れ下がっている。彼はミネ。アバロスの積み荷を何となく強奪している。
アバロスの顔は青く血走り、その表情は険しい。
「この前は言葉を出していたが、口の機能を失ったか」
「人の物を盗む奴に交わす言葉はない」
「ならお前と言葉を交わせる奴は何処にもいない。ショーヒンは、どっから盗って来た」
ミネは耳を地面に突き立て、その身を持ち上げ笑う。元からミネに会話をする気はない。面白いと思ったことをやりたいだけだ。アバロスへは嫌がらせに相当する。
その体は少しずつ傾けられ、ついに逆さまになる。ミネは半開きの目でアバロスをじっと見つめ、アバロスは袖口から刃を生やす。全身の体液が熱を帯び、血管は張り詰めていく。潰しはしない、将来的に客となる可能性は一抹だけ残す、そのつもりで感情が爆ぜぬよう調整していた。
「安心しろ。文句を言われたことは一度も無い」
「オレが語り部、被害者たちの」
安らかに眠るような表情で、狂気的にミネは笑う。喜びを体は抑えきれず、せわしなく皮膚が開き、肉の牙はぬちゃぬちゃと鳴る。七つ目の太陽がいつになくシリアスに様子を伺っていると、左耳がアバロスに襲い掛かった。
左耳はアバロスの横を通り過ぎて地面に突き刺さり、アバロスは耳の半ばを叩きつけた。折れ曲がった左耳は勢いそのままに杭となって打ち込まれ、それを足掛かりとして、ミネは身を引き寄せアバロスに肉薄する。
交差の瞬間アバロスは刃を振り下ろすが、ぱっくりと開いた皮から覗く肉に受け止められる。対してミネは拳をねじ込み、同時に右耳をアバロスの胴体に巻き付けた。そのまま直進する体はアバロスに巻き付いた右耳で抑え込まれ、その余りある速度をアバロスに分け与えようとした。
殴られた痛みと巻き付く耳に気を取られ、一瞬ピンと張る右耳への対応が遅れる。耳を切る前に、アバロスは強く引っ張られた。既に弛緩した耳は切ろうとしてもふにゃりと曲がるだけで意味を為さない。飛ぶ先には樹と、そこに着地したミネ。ミネは上に跳躍しアバロスの激突を待ち構える。アバロスは両腕と共に顔面で衝撃を吸収しようと構える。ロクラは同じ場所をずっと歩き、加速し続けている。
ミネの想定通りアバロスは頭から突っ込んだ。後はきたる自由落下に備え、追撃するだけだ。しかしその刹那、アバロスは身を起こした。幹には腕と顔の痕がくっきり残っていた。彼は放物線の頂点に至ったミネを見上げる。
顔は青ざめ、目は青に染まっていた。迷彩服からは黒い刃がポコポコと生えている。握る拳は刃で覆われ、重々しく振り上げた。自由落下が始まる。ガードをしようと体を丸め、アバロスの拳を受け止めたのは、しかしミネの腹だった。耳や腕で防御する事は叶わず、肉の歯にはその衝撃を和らげられなかった。
数メートル飛ばされ、倒れたミネの腹に黒い刃が一つ。殴られた時に折り、咥えたのだろう。騒ぎを聞きつけた螺旋の茎は裏歩きに啄まれている。
ミネは刃を腕にあてがうと、皮膚が裂かれ、肉が噛みついた。刃は皮膚に挟まれ、筋線維に侵食され、神経と繋がる。動作確認をするように腕を振るい、小さく笑いながらアバロスに斬りかかる。相対するアバロスは手を広げ、防御や回避をする素振りは見せない。
そのまま振り下ろし、アバロスの頬に触れた刃は、傷付けることなくただ弾かれた。
「ん?」
「自分を自分で殴ったことあるか? それで痛がる奴なんかいねーよ」
動きの止まったミネの顔をアバロスは握る。みしりと沈む指からも無秩序に刃は生え、顔に食い込む。ミネの表情筋は食い込む指に噛みつかんとするものの、痛みが上回っているのか痙攣するばかりだ。
「ロクラ!」
アバロスがそう言うと、いつものマイペースな歩行に速度だけを付与したロクラが”歩いて”来た。地面に足がついていようとその速度は変わらず、ドリフトの如き土煙と足跡を残す。垂れ下がるミネに向けて歩き、その速度の全てを付与させた。ミネは血を撒きながら吹き飛び、ロクラはいつものマイペースな歩行に戻った。
「あーめんどくせぇ。あいつやっぱ精肉作業にかけるかぁ?」
アバロスは垂らした糸の前に腰かけ、再び湖の深さを調べ始めた。水面は静かに揺れ動き、連色蓮華はいそいそと湖の端へ移動する。糸がにわかに荒ぶりだす。
「ごばぶばぼぁ!!」
ざぶんと湖から人影が現れ、口から水を吐き出しながら釣り竿を掴む。それはボロ布を被った人魚のようで、ともかく尾ひれをパタパタ動かして釣り竿を引きずり込もうとした。咄嗟にアバロスは釣り竿を掴もうと手を伸ばす。
「おいてめぇっ何しやがる!」
「がばなのだから、じゃばべ」
水を吐き切り、ようやくまともに声が出せると思えば即座に湖へ飛び込み、意味不明な言葉のまま消えていった。アバロスが掴んだのは、水と空気だけだった。
林の中で虫狩りをしていたホロは空飛ぶ物体に反応し顔を上げる。足元には潰れた何かが大量に転がり、彼女の手には顔、胴、尾の3節だけとなった巨大なムカデがいた。状況からして巨大ムカデの節だろう。
「おっ? あれあ?」
そう言いいながらムカデの頭を引き千切り、地面に叩きつけて踏み抜く。気付けば手元には顔、尾の2節となった巨大ムカデがいた。半端に切っても切断面から新たな頭と尾が発生し、抵抗する者に絶望感を与えていた連鎖する節は、しかしホロに見つかり恰好の玩具と化していた。
絶対的強者と思い上がった連鎖する節、ハオノは相対的弱者へ成り下がった己と否応なく対峙し、嬲り殺されていた者の命乞いを一笑に付していた過去を激しく後悔していた。今や彼も同じく、ただ慈悲を願う死刑囚の一員なのだから。
……いや、虫にそんな知能はない。ホロが勝手にそう思っているだけだ。実際には、ハオノは全身全霊で逃げようとしている。
赤い放物線を残しながら飛ぶ物体を眺めること数十秒、その軌跡もなくなり七つ目の太陽が出しゃばってようやく、ホロは何かが飛んでいることに思い至った。
「あー、いいね。いい笑顔」
太陽に向かって中指を突き立てホロも笑みを向けると、ハオノを地面に叩きつけてから走り出した。七つ目の太陽は複雑そうに眼をくねらせた。
行く先は研究所と呼ばれる建物。