第一章 (3)
エスメラル召喚アカデミーは、八つの棟から成り立っている。
講義や実習に使われる建物が四つと、生徒たちが寝食をともにしている学生寮が四つである。
フィルが巨大な正門をくぐると、目の前をきれいな石畳みの歩道が延びており、その突き当たりにコの字型をした立派な校舎が構えていた。
そこが一号棟と呼ばれている、学院の主要な建物であるらしい。
一号棟の右隣と左隣に、それぞれ一棟ずつ建物があり、そこがニ号棟と三号棟。一号棟の後ろ側にもひとつ建物が配置されていて、そこが四号棟であるらしかった。棟と棟の間は廊下で橋渡しされ、行き交うのが便利になっている。
校舎のずっと奥のほう、広い校庭を越えたところに、フィルたちが暮らす予定の学生寮が建てられている。
(それにしても、広い学校だなぁ……)
入学手続きを終えて寮に向かうまで、さんざん長い距離を歩かされたフィルは、実感を込めてそう呟いた。地元で通っていた初等学校の広さなど、及びもつかない大きさだった。正門から学生寮の入り口に来るまでは、歩いて十分くらいかかってしまったほどだ。
加えてフィルを悩ませたのは、先ほどの事故で、他の生徒たちに顔を覚えられてしまったことだった。入学手続きの最中はもちろん、こうして寮の入り口に立っているだけでも、「おい。あいつ、さっきの……」などというひそひそ声が聞こえてくる。おとなしいフィルには最悪の居心地だった。
(うぅ……泣きたい)
そう思ったが、ぎりぎりのところで踏みとどまるフィルだった。
アカデミーは四年生で、一年生と二年生が同じ寮で暮らすことになっている。三、四年生は別の寮で一緒に生活しているようだ。もちろん男女の寮はわけられている。
フィルが入るのはひとり部屋だった。シンプルな造りだが、ひとりで寝起きするには充分な広さだといえた。ただし、召喚の材料や、重たくてかさばる学術書なんかをたくさん持ち込むはずなので、これでも最低限というところなのだろう。
木棚にどさどさと荷物を置いて、フィルはリーファが待っているはずの、正門に向かうため引き返した。
正門に着くと、リーファはすでに先に来ていた。琥珀色の髪を陽射しにきらめかせて、そわそわした態度でフィルの到着を待っていた。
さっきまでの機嫌の悪さは、もうどこかに吹き飛んでしまっているようだ。約束どおりにフィルが来たので、安堵したように笑みを浮かべている。
「来たわね、フィル・コズビーグ。ちゃんと入学手続きはすませた?」
「う、うん……」自信なさげにフィルは答えた。
「じゃあ、行きましょう。いい? アートス先生にはふたりで企画したいたずらだって言ってね」
「わかった……」
語尾を小さくするフィルに対して、リーファはいぶかしんで首を傾げる。
「なによ。文句でもあるの?」
「いや、別に……」
いっそう自信なさげに口ごもるフィルに苛立ち、リーファの声が荒くなった。
「はっきりいってよ。わたし、そういうのイライラするの。男の子でしょ?」
「いや、その……無理じゃないかなって思うんだ」
「なにが?」
「だから。嘘だってバレバレなんじゃないかって」
「……そんなの、やってみなくちゃ、わからないじゃない」
少しだけしょんぼりしてリーファが答えた。そのまま歩き出して校舎のほうへ向かう。フィルもあわてて後を追った。
「わたしはね、どうしても入学をあきらめるわけにはいかないの。ここに入るのだってお父さんに反対されて、めちゃくちゃに喧嘩して家をでてきたんだから」
「……だったら、荷車の運転なんかしなければ良かったのに」
リーファにキッとにらまれて、フィルは口をつぐんで顔を伏せる。
「わたしには目標があるのよ。だから、つまらない場所でつまづいている時間なんてないの。そのために学院に入学したんだから」
しっかりした口調でリーファが言った。フィルは彼女がいう目標とは何なのか気になったが、訊いていいものか少し迷った。
「フィル、キミはどうして学院に入学したの? 召喚士に憧れて?」
「それは、その……うん、そんな感じかな」
フィルはふたたび口を濁らせた。ぼんやりとした憧れはたしかにあるのだが、確固とした理由があるわけではなかったのだ。しばらくの間を置いた後、リーファは静かに言葉をつづけた。
「わたしはね……フェニックスを召喚したいの。それで、ここに入ったの。知ってる? フェニックス」
「う、うん。知ってるけど」
フィルはびっくりしてリーファを見た。フェニックスは伝説とさえ言われるほどの高等召喚獣だった。今まで召喚できた者はひとにぎりと言われているし、それだってずっと昔のことで、真実なのかも定かでない。
その血を飲めば不死の力を得ると言われている幻の鳥だが、召喚に成功した者が人前に姿を現した例はないようだった。
「すごいな。どうしてまた? 不死になりたいの?」
フィルは感心して訊ねた。自分と同じ新入生だから、リーファはきっと十三歳のはずだ。なのに、そんなに立派な目標をもっているというのは、素直にすごいと思えたのだ。
「あのね。フェニックスの涙には、どんな病気も癒す力があるのよ。わたしはそれが欲しいの。不死なんていらないわ。長く生きてたって退屈なだけじゃない」
「退屈?」
「そうよ。わたしは太く短く生きるって決めてるの。永遠の命とか、そんなのくだらないって思わない?」
「そうかなぁ……」フィルは言葉を濁して同意をさけた。
「そうよ。それにわたし、すっごく飽きっぽいのよ。永遠の命なんて手に入れたって、きっと、すぐに生きることに飽きてしまうわ」
きっぱりと言った後で、リーファはかすかに眉をくもらせた。前方にひと差し指を突き出して、緑色に塗られた扉のひとつを差し示す。
「ほら、あそこじゃない? アートスっていう先生の部屋。――だからフィル、協力してね。ちゃんと嘘をつきとおすのよ?」
「う、うん」
フィルたちは一号棟の入り口を抜け、廊下の突き当たりにある研究室の並んでいる場所へとやってきていた。そのうちのひと部屋がアートスのものなのだ。扉の横に木札が下げられ、教員の名前が記されていた。
「ここみたい。どうしよう、緊張する」
わずかに不安げな顔をして、リーファがフィルを振り返った。フィルは肩をすくめた。どうしたらいいのかなんて、フィルにもさっぱりわからない。やがて覚悟を決めたらしく、リーファが扉をノックした。