第一章 (2)
フィルは恐る恐る、女の子のところに近付いていった。
荷車を引いて暴走していたラマは、引き綱がはずれ、どこかへ逃げ出してしまったらしかった。荷車は派手に横転し、見るも無残に積荷をばらまいてしまっている。
フィルの位置からは顔が見えないが、女の子はどうやら怒り心頭であるらしい。それも、ものすごく怒っている気配がある。立ち尽くしながら肩をわななかせ、両の拳を握りしめているのだ。
かなり嫌な予感がした。しかし、フィルは先ほどアートス先生に言われたのだ。あの女の子に、後で彼のところに向かうよう言伝しておいてくれ、と。
「あ、あの……」
なけなしの勇気を振り絞り、フィルは女の子に声をかけた。琥珀色の髪をした、色の白い細身の少女だった。身の丈はフィルとそう変わらないだろう。長く柔らかそうな髪の毛を、頭の後ろでひっつめて下ろしており、薄水色のケープを身にまとっている。
女の子はフィルの呼びかけに気がつくと、不機嫌そうに振り返った。そして涙を目の端にためながら、フィルをキッと睨みつけてきた。思いの他、きれいな娘だった。女の子は泣きそうな表情になり、ひと差し指をフィルに突きつけて、難詰するように声を張った。
「あっ、あんたのせいよっ! あんたが、あんなところでボーッとしているからっ!」
「えっ? ええっ!?」
(僕のせいなのかよ!?)
フィルはうろたえた。さすがに、開口一番こちらに責任を押しつけてくるとは思わなかった。
「そうよ。わたし、ちゃんと避けてって言ったのに。あんたが荷物をもってどいてくれさえすれば、わたし、こんな風にならなかったのに!」
「む、無茶言うなよ……」
あの状況で、冷静に荷物をもって回避できる人間などいないと思う。それにフィルは、ただでさえとっさの状況判断というものが苦手なのだ。
「……ラマだって逃げちゃったじゃない! どうしてくれるのっ? わたし、自分で御せるって大見得を切って、やっと運転させて貰ったのに……」
「そんなこと言われたって……あの、御者の人はどうしたの? もしかして、ずっとひとりでここまで来たわけ?」
女の子は、小さくかぶりを振った。
「ううん。御者の人はわたしの代わりに荷台に乗っていて貰ったのよ。今、逃げちゃったラマを捕まえに行ってる」
そうこうしているうちに、女の子の顔色がみるみる青ざめていくことにフィルは気がついた。さっきまでは怒りのためか、むしろ紅潮している様子だったのが、我に返ったのか、血の気が引いたように色を失くしていく。
「どうしよう。またお父さんに怒られちゃうよ……」
言いながら女の子は元気をなくしていき、最後の方はほとんど声になっていなかった。
フィルは、少しだけ彼女を気の毒に思った。しかし冷静に考えてみて、どうひいき目に見たって悪いのは彼女だという結論に達し、あまり深入りしないことに決めた。
「あのさ、さっき僕を助けてくれた男の人がいたろ? あの人、この学園の先生なんだってさ。実技を担当しているアートス先生っていうらしい。それで、この事故について色々と訊きたいことがあるから、後で自分のところに来るように、だって」
女の子は、すみれ色の大きな瞳をぱちくりとさせた。表情にかすかな怯えが混じる。
「……ひ、ひょっとして、わたしのことかな?」
「当たり前だろ?」
「うぅ……」
女の子は、しおしおと小さくなった。さっきまで挑みかかるようにしてフィルに怒りをぶつけていたとは思えないくらいに感情がコロコロと変わる娘だった。どうしよう、どうしよう、と聞き取れないほどの声で呟いている。
「えと、それじゃ、たしかに伝えたから」
そう言ってフィルは立ち去ろうとした。なんとなくこの少女には関わらないのが正解である気がしたのだ。
人間関係のタイプのひとつに主従関係というものがあり、一度「従」の側に立ってしまった人間は、「主」の側に立った人間に対して逆らうことがたいへん難しくなる。いったん主従関係が確立されてしまえば、「従」の立場の人間は、「主」の立場の人間に対して様々な忍耐をしいられることになってしまうのである。ましてや、フィルはこの性格である。「主」の立場になりそうな人間に対しては、ことさら敏感に警戒心が働くのだった。
ところが、
「ねえ、キミ、ちょっと!」
ぐぐっと襟をつかまれて、フィルは少女に引き戻された。どうやら逃走は失敗に終わりそうである。ぎこちなく振り返り、フィルは女の子の方を向いた。女の子は、突然なにか良いアイディアが閃いたというように、会心の笑みを浮かべていた。
「そうだっ。キミが証言してくれればいいのよ。あれは、ちょっとふざけていただけです、って。実はわたしたちは知り合いで、共謀して他の新入生たちを驚かそうと企んでいただけですって。そうすれば、ひょっとして笑いながら見逃してくれるかもしれないじゃない!」
フィルは仰天した。
「ぼっ、僕の事情はっ?」
「なによっ。女の子がお願いしているんだから、そのくらい協力してあげるっていう優しさはないの? このことがお父さんにバレたら、わたしは学院の入学を取り消しにされちゃうかもしれないのよ。だから、お願い!」
女の子は頭を下げながら、胸のあたりで両手を合わせた。本気で言い出しているようだった。フィルはこれまで十三年間生きてきたが、こんな風に女の子から頭を下げられるのは初めてだったし、これほど我が儘な女の子を見るのも初めてだった。
(……だけど、こっちは危うく死ぬかもしれないところだったんだぞ?)
フィルがおろおろしていると、女の子はいっそう深く頭を下げた。
「お願いっ! なんでもするから!」
「……う、うん。わかった」
その勢いに気圧されて、フィルは仕方なくうなずいた。アカデミーを辞めようという決意は、そのときにはもう忘れてしまっていた。立てつづけに物事が起こりすぎたので、それどころではなくなってしまったのだ。
「ありがとう! わたし、リーファ。リーファ・クランベルよ。北部の湿原地帯から来たの」
「えと、僕はフィル・コズビーグ。南部の小さな町から来たかな」
「そう。南部から? 暖かくていいところじゃない。よろしく、フィル・コズビーグ。……コズビーグ?」
リーファは、ふと小首を傾げた。
「わたし、以前その名前を聞いたことある。ひょっとして、わたしたち前に会ったこととか、あるかな?」
フィルは息を呑み、あわてて首を振った。
「ないよ。全然ない。ほら、きっとよくある名前なんだよ。コズビーグって」
「……そうかなぁ。わりとめずらしい名前だと思うけど。どうして聞いたことがあるんだろ?」
リーファは少しの間そうして首を傾げていたが、答えの見つからない様子ですぐに気持ちを切り替えたようだった。
「ま、いっか。それより、この散らかってしまった荷物を片付けなきゃ……」
ちょうどそのとき、人波の向こうから、御者と思しき男が先ほど逃げたラマを捕まえて、手綱を引きながら戻ってくるのが見えた。フィルは、自分の荷物がラマに踏み荒らされ、めちゃくちゃに散乱してしまっていることを思い出し、整理するために引き返した。
急いで片付けて、これから暮らす予定の寮まで運び込まないと、今からすべき手続きなどを終わらせられないままに日が暮れてしまう。
「あっ、フィル・コズビーグ。一時間後に正門の前で待ってて!」
「……了解」
リーファが背中に叫んだ声へ、フィルは呟くように返事をした。
(初日から、なんでこんな災難に遭うんだ……)
前途の多難さを思い描き、フィルは気持ちを暗くした。