第一章 (1)
エスメラルの東端には、召喚士たちが通う学校がある。
その名も『エスメラル召喚アカデミー』という。
ひねりのない名前であったが、わかりやすいということで、関係者からの評判はそれほど悪いものではない。
ここで教えている召喚術は、本来の奥深さからいえば初歩の初歩という段階であり、つまりは召喚士の見習いのための学び舎という位置づけである。
見習いということで、ここで学んでいる生徒たちはみな年若く、多くはエスメラルの普通学校をでたばかりの少年少女たちだった。
召喚士を志す生徒たちは、胸おどらせて学院の門をたたき、そして召喚に関する基礎を身につけて外の世界へと巣立っていくのだ。
この学院から、今まで多くの召喚士の卵たちが飛び立っていった。
そして、エスメラル暦五月。
エスメラル召喚アカデミーに、今年も新しく生徒たちが入校してくる時期が訪れた。
1.
召喚アカデミーの壮麗な正門を見上げながら、フィル・コズビーグは、憂鬱そうにため息を吐いた。
肩を落とした色白のフィルは、はた目にはひどく頼りなさそうな少年に見える。痩せっぽちの小さな身体は、枯れかけたシラカバの小枝みたいだし、しおれた表情は今にも風に飛ばされそうなくらい気力というものを感じさせない。田舎っぽい長衣をまとい、赤茶色の髪のうえに学院の制帽をちょこんと乗せている様子は、お世辞にも垢抜けているとは言いがたい。
足元には、先ほど馬車から下ろしたばかりの衣類や生活用品やらが押し込まれた荷物が山となって積み重ねられている。
エスメラル南部の片田舎からでてきたばかりのフィルは、今日からこの学院でお世話になり、みなと一緒に召喚術を学ぶのである。
(僕みたいな落ちこぼれが、ここで通用するんだろうか……)
弱々しい視線を足元に落とし、フィルはこれまでの自分の人生を思い返していた。
通っていた地元の初等学校では、勉強も運動も成績はかんばしくなかった。そのため、いつもクラスでは肩身のせまい思いをしていた。友人もけっして多くはなかった。おとなしい性格のフィルは、級友たちが揉みくちゃにじゃれ合っているのを横目にしながら、教室の隅でひとり読書をしていることが多かった。
初等学校を卒業して、念願だった召喚アカデミーへの入校が叶い、いざエスメラルを訪れたのはいいが、正門前まで来たところで、さっそく怖気づいてしまったのだ。それでこうして、山のような荷物を抱えながら、正門前でへどもど立ち尽くしているのだった。
アカデミーの正門前は、他の生徒たちでごったがえしている。彼らの面持ちは新しい予感に嬉しそうにほころんでおり、その瞳はみな一様にきらきらと輝いている。それに引きかえ、ここに立っている自分のなんと情けなく冴えないことか。
(やっぱり、来るんじゃなかったかな。いくら父さんの血を引いているからって、僕は僕なんだし……)
などとウジウジと考えながら、フィルはぼんやりと踵を返そうとした。
やっぱり地元に帰ろう。そして、牛の世話でもして静かな一生をすごすのだ。母さんには、アカデミーの入学試験に受かったのは、実は手違いだったと嘘をつこう。入校しようとしたら、「アナタ試験に受かってませんでしたよ」と言われたって嘘をつこう。うん、そうしよう。だって、僕が召喚士なんかになれるわけがない。
後ろ向きなことを考えるのが、フィルの特技であり才能だった。
やる前から物事をあきらめてしまうのは毎度のことだったし、フィル自身もそうした選択をするのは慣れてしまっていた。なのでそのとき、フィルは本気で地元へ引き返してしまうつもりだった。
だから、それはほんの偶然だったのだ。
「あわ、あわっ、ちょっとそこのキミッ! どいて、どいてぇ! 危ないからどいて! お願いだからどいてっ!」
聞こえてきたのは、女の子のせっぱつまった声だった。あまりに慌てているので、ときおり上擦ったり掠れたりしてしまっている。知り合いもいない土地でのこと、最初フィルは、その声が自分にかけられているなどとは露とも思わず、足元の荷物をまとめようとしていた。
「だから、どいてって言ってるのにっ! ねえそこのキミだよ! 赤茶色の髪の毛で、学院の制帽かぶってて、紺色の服を着ているヒトッ! うわぁあ危ない危ないっ!」
ガラガラという車輪が地面を噛むような音と、なにかの動物のひづめの音が聞こえて、それがどんどん大きくなっていくのに気づき、フィルは恐る恐るそちらを振り向いた。
そして、びっくりして立ち尽くした。
ラマと呼ばれている草食動物の引く荷車が、猛然とフィル目掛けて突進してこようとしていたのだ。荷台には御者をしている女の子が座っているのが見えたが、今や完全にコントロールを失ってしまっている様子だった。なにがあったのかラマはいきり立ち、もはや暴走しているというのが相応しかった。そして――今まさに、荷車ごとフィルに突っ込んでこようとしている。
「ああっ、避けてぇッ! 死んじゃうよっ」
間に合わない――そうフィルは思った。ラマはすでに目の前まで迫っている。気づくのが遅かった。今からでは、避けようとしても直撃は避けられないだろう。爆走するラマがフィルの眼前へと迫ったとき、その動作がひどく緩慢なものに感じられ、時間がゆっくり流れているような錯覚を受けた。死ぬときってこんな感じなのか、とフィルはぼんやりと考えた。
と、そのとき、
「うわぁあっ!」
フィルの身体が、ぐいと空中に引き上げられた。
頭が揺さぶられ、全身がすごい勢いで上昇するのを感じる。そして、つい今しがたまで自分がいた場所を、猛進するラマ引きの荷車が爆走していくのが見えた。ぐしゃぐしゃと踏み潰される自分の荷物たち。見上げると、フィルの身体はいかめしいかぎ爪によって鷲づかみにされ、恐ろしげな巨大な鳥に空中へと持ち上げられていた。
この鳥は、たしか――
「ガルーダ……」
フィルは思わず呟いていた。ガルーダはたしか、東洋において神の鳥とされており、呼び出すには高度な召喚スキルを要求される難度の高い召喚獣のはずである。だれかが呼び出して自分を助けてくれたようだったが、これだけの上位召喚をとっさに行える人物とは、いったい何者であるのだろう。空中に吊られたまま、フィルはきょうろきょろと周囲を見回した。
と、見えた。
アカデミーの新入生たちがざわつき、不安げにフィルのほうを見上げている中に混じって、その男はひとり悠然とした佇まいをしていた。黒色のローブを身にまとい、襟元をサファイアのブローチでとめている。男らしく端正な顔立ちに、はしばみ色の短髪がよく似合っていた。
フィルと眼が合うと、男はたちまち破顔した。
「おう。怪我はないか?」
「はあ……大丈夫です」
フィルは、居心地悪く男を見返した。男は軽いため息をつき、ぐしゃぐしゃと髪を掻いた。
「いるんだよ、たまに。こんなクソ賑わっている場所まで荷車を乗りつけて、獣を興奮させちまうバカなお嬢様やお坊ちゃまが。まあ、災難だったな」
「いえ、あの、大丈夫です」
「ん。そうか」
フィルが遠慮がちに笑うと、男はニカッと気持ちいい笑みを返した。どうやら、至極快活な性格の持ち主であるらしい。それから男はフィルを着陸させると、召喚を終えてガルーダを消滅させた。
「おまえ、この学院の新入生なんだろ? 入学そうそうついてないよな。おれ、この学院の教師やってるアートスってんだよ。召喚の実技を担当してる。これからちょっと急ぎの用事があるから、後は守衛に任せるけどな、この事故で困ったことがあったら、なんでも言ってこいよ」
アートスと名乗った教師は、安心させるようにフィルの肩に手を置いた。「は、はあ」と歯切れ悪くフィルは返事をする。故郷に帰ろうと思った矢先の事故で、フィルはいたく混乱してしまっていた。
立ち去ろうとして、アートスはふと思い出したようにフィルに言い足した。
「あ、そうだ。荷車を暴走させたあいつな。後でおれのとこまで来るように伝えておいてくれないか? ちゃんと注意しておかないと、懲りないかもしれないからな」
「あ、わかりました」
流されるままに返事をしてしまうフィル。アートスは転倒している荷車のそばにがっくり立ち尽くしている少女を指差してから、じゃあなと言い置いてフィルのもとを立ち去っていった。