乖離
「失敗、だったの?」
『ああ』
尋ねる母さんに短く答えつつ、俺はこくりと頷いた。
母さんもまた「そう」と頷く。叔母さんを始めとする御尾家の面々も似たような様子で、あまりショックを受けた感じはない。失敗してもまた挑戦すればいいと、やんわり受け止めてくれているからだろう。
ただ、紗羅の反応は違っていた。
「何が原因だったの……?」
成功を信じてくれていた分、ショックが大きかったらしい。
彼女は見てはっきりわかるほど表情を曇らせていた。
『……えっと、なんて言ったらいいかな』
だいたいの原因は察しがついている。
『紗羅のおかげで、姿のイメージは掴めたんだ。でも、それだけじゃまだ元に戻るには条件が足りてなかった』
「……どういうこと?」
しかし、俺の拙い説明では伝わらず、紗羅は怪訝そうに首を傾げる。
そこで間に入ってくれたのは凛々子さんだった。
「そうですねー。お嬢様は変身するとき、どうしていますか?」
「え? どう、って……魔力を解放する感じ?」
答えた紗羅はなおも困惑気味だが、凛々子さんは微笑んで頷く。
「ですよね。では、真夜さんや真昼さんが猫の姿になる時は?」
「お嬢ちゃんが言ったののほぼ逆よ。活動に必要なエネルギーを最大限に抑えるイメージ」
部屋の隅で丸くなっていた真夜本人がそう教えてくれた。
「ありがとうございますー。で、ここで注意なんですが、今言った二つは方向性こそ違うものの同じ方法論なんです。扱いたい魔力の量に適した姿へ変化している、という意味で」
このプロセスを俺たちは「変身」と表している。
しかし、この「変身」は本来、姿かたちを変えるという意味での変身ではない。
「意味合いの違う二種類の変身がある、と考えてくださいー。私やお嬢様がサキュバスになったり、杏子様や世羅様が天使になる場合には、基本的に変わる姿は決まっています。別人に化けることが目的ではありませんから」
対して、例えば紗羅が『御尾悠人』の姿に変身するには全く別のプロセスが必要になる。化ける先の姿を明確にイメージし、肉体を変化させなければいけないからだ。
前者をモードチェンジ、後者を変化とでも仮に呼ぶなら。
「では、悠人さんが元に戻るのはどちらの変身でしょうー?」
「……変化、のほう?」
そう。理屈で言えばそうなる。だって、姿を変えるのにイメージを必要としているのだから。
しかし、ここで矛盾が生じる。
「悠人さんは『元に戻るだけ』のはずなんです。この場合、モードチェンジでも変化でも、通常、元に戻るのにイメージはいりませんー」
自分の身体だから自分が一番わかっている、がこの場合は正しい。
けど、俺の場合はそうじゃなかった。
「悠人さんは『元に戻る』べき元の姿がわからなくなっているんです」
本来なら、身体や魂が記憶しているべき『元の姿』が何らかの理由でリセットされてしまった状態。だから、詳細なイメージが必要だった。
「ですよねー? 悠華さん」
「うむ。悠が行っているのは、本来の姿を自分自身に再度、教え込む作業だということじゃ」
皆が説明を代わってくれて助かった。俺の理解は現状からの逆算だったので、理屈としてどうこう、というのは詳しくわかっていなかったから。
紗羅も凛々子さんの説明で理解してくれたようだが、それでも納得できない様子で小さく呟く。
「でも、そんなことって有りえるの?」
「いえ……普通は起こらないと思いますー。なので、私は悠華さんが何かをしたのだと思ったのですがー」
凛々子さんから視線を向けられると、悠華はのんびりと答えた。
「まあ、多少、そうなるようには仕向けた」
「じゃあ、御尾くんが失敗したのは……」
『いや』
紗羅の表情が険しくなりかけたところで、俺は皆の話を遮った。
『悠華のせいじゃない。俺が迷ったのがいけないんだ』
「迷った、って」
『自分の心がわからなくなった……っていうか。俺は誰なんだろう、って』
また記憶が無くなったわけじゃない。
むしろ、どちらかといえば逆だ。
「結果から見れば、最大の原因はそこの悪魔じゃろう。そやつの悪戯のせいで、悠の肉体と精神とがより明確に乖離した」
「そうね。さすがにそこまで考えてはいなかったけど……後から記憶だけが戻ったおかげで、思いがけないことになった」
「戻った、のではなく、なった……という感覚が強くなってしまった、のじゃろうな」
『最初は気づいてなかったけどな……』
戸惑いはあったが、すぐに慣れると思っていた。
けれど、もしかしたら俺は、あそこで違和感を放置するべきではなかったのかもしれない。原因を突き止めて受け入れていれば、あるいは別の結果に――。
「ちょ、ちょっと待って。それって、もしかして……」
思考が結論に辿り着いたのだろう。紗羅が慌てたように声を上げた。
彼女は悠華や凛々子さん、真夜を順番に見つめたあと、どうするべきか迷うような素振りを見せる。
そこへ、静かな声が投げかけられた。
「はい。紗羅さんがお考えの通り、悠人様のお悩みの原因は――『羽々音悠奈』の記憶、です」
* * *
羽々音悠奈の消滅。
男に戻るうえで避けられないその結末を、俺は一度納得していた。
それが狂う最初のきっかけは悠華の言った通り、真夜が俺の記憶を封じたことだっただろう。
あの出来事のせいで『羽々音悠奈』は『御尾悠人』に戻り損ねた。
封印された記憶が戻るまでの数日――ほんの数日の間に、すべてを忘れた俺は華澄と出会い、彼女に惹かれた。
あのまま紗羅が来なければ、淡い気持ちは明確な恋心に変わっただろう。
――紗羅と過ごした日々を覚えていれば、そんなことありえなかった。
たぶん、言葉にするならそんな思いが俺の中に生まれ……結果『悠人』と『悠奈』が俺の中で分離し始めた。
記憶が戻ってから何度も感じた違和感は『悠奈』が上げた悲鳴のようなものだったのだ。
更に、悠華により男性機能が封印された。男としての情動を抑制されたことで、自分でも気づかないうちに『悠奈』の影響が強くなっていった。
そして、昨夜の出来事。
紗羅の記憶から悠人の姿を把握した後、俺は紗羅と『悠奈』の思い出を見た。
それらは悠人との思い出よりもずっと多く、また一つ一つが煌めいていた。
たった二か月。
でも、とても長い二か月だったのだ。
……だって、大好きな人と一緒に居られた時間だったから。
ひとつ、記憶に触れるたび、胸がきゅっと絞めつけられた。
痛くはなかった。ただ、苦しくて切なくて、寂しくなった。
その感情はぜんぶ、『悠奈』としての俺の記憶が生み出しているものだった。
無くなってしまう。
もし今、悠人に戻ったら、この切ない思いは全部消えてしまう。そんな気がして、猛烈に怖くなった。
そしてふと理解した。
このままじゃ、俺はまた元に戻るのに失敗する。
何故なら、他でもない俺自身が、悠人の姿を『元の姿』だって思えなくなっているから……と。
『今の身体が雄でも雌でもないのも、そういうことなんだろ?』
「まあ、な」
俺にもう一度選ばせるため。
『御尾悠人』か、『羽々音悠奈』か。どちらの未来を続けていきたいのかを。
「……そう、だったんだ」
紗羅が小さく呟いた。他のひとたちは何も言わなかったが、皆一様に、何とも言えない面持ちで俺を見つめている。
もう、これから朝食、という雰囲気ではない。
当然だ。俺が言っているのは、物凄く我儘で、突拍子もないことなのだから。
『ごめん。本当に、皆に迷惑ばっかりかけてる』
意識せず目線が下がる。皆の、特に紗羅の視線が怖いのだ。どう思われるか、何を言われるのか。
怒られるのならいい。もし呆れられて見捨てられてしまったら、どうしたいいか。
そうなっても甘んじて受けなければならない、と理屈としては理解していても、怖くて逃げだしたくなる。
「………」
果たして、紗羅は何も言わないまま手を伸ばしてきた。
叩かれる――極度の不安から、冗談じゃなくそう思い身を震わせると、予想に反して柔らかな感触が俺を包んだ。




