紗羅の記憶
畳の上に、いわゆる女の子座りをした紗羅が俺を見下ろす。
彼女の膝の前にちょこんと座った俺は、そこから紗羅を見上げるのだが、アングルが違うせいか妙に新鮮な印象を受ける。紗羅が浴衣姿なのも拍車をかけているだろう。これで俺の姿が狐でなかったら、二人で温泉旅行にでも来たと錯覚しそうだ。
「実は、ちょっとだけ危険な方法なんだけど」
そう前置きして教えてくれた『方法』とは暗示の応用。凛々子さんが俺の記憶を探ったのに近いが、より高度なもの。
紗羅の記憶に俺の意識を入り込ませ、客観的な自分の姿を確認するというものだ。
『それが、危険なのか?』
「うん。精神感応――テレパシーみたいなものだから、たくさんの情報を頭の中に直接送り込むことになるの。使い方を間違えたり、わざと悪用すれば、御尾くんの心を壊しちゃう」
『そう聞くと怖いな……。でも、大丈夫だろ』
「え?」
『紗羅が酷いことするわけないからさ』
ほいほい他人の心を壊すような子じゃないし、失敗の危険が大きいなら最初から提案していないはず。万が一があるのは考えておくべきだとしても、彼女になら身も心も預けられる。
「御尾くん……ありがとう」
にっこり笑いかける――いまいちちゃんと笑顔を作れてるか不安だったが――と、紗羅は瞳に涙を浮かべて俺に手を伸ばしてきた。
そのまま力いっぱいぎゅっと抱きしめられる。
苦しい、けど、ここは好きなようにさせてあげよう。
「あっ、ごめんなさい……」
しばらくして、紗羅は俺を解放してくれた。
「御尾くんが可愛いから、かな。つい抱きしめたくなっちゃって」
『ああ……母さんたちもそんな感じだったっけ。男に可愛い、って褒め言葉じゃないと思うんだけど』
「ごめんなさい。嫌だった?」
つい愚痴をこぼすと、紗羅が顔を歪める。慌てて首を振りフォローした。
『嫌じゃないよ。大丈夫』
……でも、何で嫌じゃないんだろう。
言いながら自分自身で疑問に思う。
強がりで言ったわけじゃない。本当に嫌な気持ちが湧いてこなかったのだ。今だけでなく、夕食前に母さんたちに撫でられた時も。
愚痴ったのは恥ずかしさと、単なる照れ隠しだ。
もっと、本気で止めて欲しいと思ってもいいはずなのに。
「御尾くん?」
『あ、大丈夫。始めようか』
「うん」
紗羅の記憶を見せてもらうのに特別な準備は必要ないらしい。
「でも、リラックスするためにお布団の中にしようか。終わったらそのまま眠っちゃった方が楽だと思うし」
『うん』
彼女の提案に頷き、二人で布団に潜り込んだ。電気も消して本格的に眠る体勢。
紗羅の胸と布団に半身を挟まれる形で、顔を出して目を合わせる。
「行くよ……」
囁き声と共に、紗羅の瞳が輝いたような気がした。
気づくと俺の意識は落ちて、夢の中にいた。
* * *
ふわふわと浮いている。
俺は、灰色の雲に全身を包まれていた。
周囲にはいくつもの光の粒。目を凝らすと、注目を受けた粒は大きくなって映像に変わる。注目を外せば光の粒に戻る。
向きを変えるには思うだけでいいようだ。ぐるぐると回りながら、いくつかの粒を確かめれば、ここにあるのは全て俺と紗羅の記憶のようだった。
それにしては数が多いような気もするが、一つ一つが断片的な記憶なのか。
……俺が見るべき記憶はどれだろう。
思うと、それに反応していくつかの光が近づいてくる。一つずつフォーカスしていくと、殆どがここ数日の記憶だった。
神社の境内で目が合ったときの記憶。
記憶を取り戻した俺と抱きしめあったときの記憶。
俺の手を胸に押し当てたときの記憶。
そうした大きな出来事の記憶だけでなく、小さな記憶もたくさんあった。笑う俺、転ぶ俺、食事をする俺……なんでもないような姿がいくつも、鮮明な記憶として残されている。
そして、どれも再生される際に強い印象を俺に残す。
悲しみや辛さを残す記憶は暗く、ゆっくりと。楽しい記憶や穏やかな記憶は明るくスムーズに再生され、同時にかすかな感情までも胸に与えていく。
驚いたのは、ちりばめられた記憶の中に、前の高校でのものがあったこと。
ふとした瞬間に目が合ったり、友人と話す俺を紗羅がちらりと見たり。用事で二、三会話を交わしたり。
他の記憶と比べると更に断片的で曖昧な内容だったが、それらは確かに紗羅の中にあった。
昔の思い出。
紗羅にとっては「ただのクラスメート」に過ぎなかった頃の俺の姿を、彼女が今も覚えていてくれることに、気持ちが昂ぶっていく。
……こんなにたくさん。
期間にとしてはごく短いというのに、紗羅はこんなにも俺のことを見てくれていたのだ。
『ありがとう』
肉体の無い記憶の世界では、気持ちが声になることはなかったが。
俺はそっと、紗羅に向けて囁いた。
そして、俺は最も大事な記憶を見つける。
俺と、紗羅と、華澄が一緒にお風呂へ入った時の記憶。
……自分で自分の裸体を眺めるのは若干不本意なのだが、正直、自分の姿を把握するのにこれ以上の記憶はなかった。
やはり時間としてはそう長くはない。けれど紗羅はその短い時間で、俺の身体を余すことなく見つめてくれていた。
髪の毛、眉毛に目、鼻、唇、顔の輪郭、首筋から腕と胸、おへそに腰、太腿から膝、足首、さらには指先に至るまで、隅々を。
――相手が紗羅でなければ、その精密さに背筋が寒くなっていただろう。
いや、正直に言えば、実際ほんの少しだけ怖くなった。だって、紗羅は俺が終始隠していたはずの部分まで見通していただのから。
……確かに、湯船に浸かってる間はタオルを外してたけど。
夜闇を映し揺らめく水面を透視してまで確認しているとは思わなかった。
もちろん、きっと隠したかったはずのこの記憶を俺に明け渡してくれたことを思えば、多少引いたくらいで紗羅を嫌いになるはずなんてないが。
でも、これで必要な材料は揃った。
羞恥心を必死に堪えつつ、自らの身体をしっかりと頭に叩き込みながら、俺は成功を確認した。
さて。
用事は済んだけど、この夢の世界からはどうやって出るのだろう。
どうやら、今の今まで紗羅から反応がないところを見ると、紗羅本人は俺の状況を知覚していないようだ。もしかすると本人はそれこそ夢の中なのかも。
だとすれば、朝になれば勝手に目覚めるか。
『なら、もう少し思い出に浸っていようかな』
より鮮明に思い出しておく分には構わないだろうし、と。
俺はまだ見ていないたくさんの光を確かめようと、視線を奥の方へ伸ばしていった。
* * *
気が付くと朝になっていた。
紗羅はもう目覚めていて、敷き布団の上に座ったまま俺を見下ろしている。髪を乱し、やや寝ぼけ眼の表情も可愛らしい。
『おはよう、紗羅』
「おはよう、御尾くん。どうだった?」
『ああ。俺の姿はしっかり把握したよ。ただ……』
「ただ?」
『……いや、なんでもない』
俺は首を振って言葉を濁した。あのあと多くの思い出に浸ったせいか、成功への確信に盛り上がる気持ちは治まっていた。
『とりあえず、着替えて来たら? 朝ご飯の前にでも、もう一回戻れるか試してみるからさ』
「そうだね」
頷いて、紗羅は布団を畳んで脇に寄せ――毛だらけになっていたので、後ではたくなりした方がいいかもしれない――、俺をそっと撫でてから部屋を出ていった。
とん、と軽く閉じる障子を見つめながら、俺はふっと息を吐く。
「どう、気分は?」
『……変なタイミングで現れるな』
「そうかしら。ここ以外ないと思うんだけど」
まあ、そうかもしれない。
障子を動かすこともなく、突然部屋の隅から声をかけてきた女悪魔に苦笑する。
しかし、この姿だと真夜の黒猫姿も結構大きく見えるな。
「で? どうするべきかわかった?」
意味ありげな問いかけに、俺はどう返すべきか迷い、
『……いや。まだ気持ちの整理がついていない』
生まれた不安の原因は、あのあと見た記憶の数々。
杞憂かもしれないと、あえて紗羅には言わなかったが――。
「そ。まあ、好きなようにするしかないんじゃない?」
『そう、かもな』
彼女の言葉に、俺はそう答えるしかなかった。
そして朝食時。
俺はまたしても変身に失敗した。




