二つ目の条件
特別なことなど何一つしなかった。
できないことを望まない。失敗してもムキにならない。できる限り心を落ち着けて愚直に何度も繰り返す。
もちろん転べば痛いし、長時間運動すれば疲れもたまったが、そこは凛々子さんにお願いして治して貰った。
「魔法で疲れも癒せるんですね」
「カウンセリングは私たちの得意分野ですからねー。身体の疲れも、結構簡単なことで楽になるものなんですよ」
耳元でそっと囁かれたかと思えば気持ちが楽になる。また同時に筋肉の凝りも解されて疲れが和らぐ。カウンセリングにマッサージ、血流の改善など複数の作用を組み合わせた疑似的なヒーリングらしい。
……そういう言い方をされると割合、科学的な話に聞こえるから不思議だった。
「杏子様でしたらもっとスマートな方法も取れるかと思いますが、応急処置的な治療で申し訳ありませんー」
「いえ、そんな。これだけやってもらえれば十分すぎます」
実際、そのおかげで延々と鬼ごっこに取り組むことができた。
無数に転んで起き上がっていると、余計な思考が抜けていった。
紗羅と悠華の動きを追う。二人の距離が離れ、かつ悠華と俺の距離が近くなった瞬間に飛び出す。
やがて身体の感覚もどこか曖昧になっていく。
それでも身体は変わらずに動く。
視点が変わる。自分と悠華、紗羅の姿だけが映像のごとく浮かび上がる。
最初は白黒。少しずつ色が付いていき、カラーに変わると今度は地面が、空が、石や草や木々が現れる。
耳からは風の音や草ずれの音。
……この屋敷が自然いっぱいの土地にあることを思い出す。
自然の静けさに身を委ねていると気持ちが落ち着く。
自然体。
静謐な空気と、かすかな音に逆らわない。むしろ一体となって利用し、あるいは利用される。
魔法を使う時が「世界を小さく集める」感覚だとすると、今回はその逆。自分という小さな存在を世界に広げていく。
――でも、突き詰めればどちらも同じことなのかもしれない。
悟り、というほど大袈裟なものではないが、何かが掴めた気がした。
何度も繰り返した特訓の経験。
静と動のルーチンワークにより生み出された無心の状態。
好ましく懐かしい田舎の風景。
幾つもの経験が重なり合い、俺を高め、押し上げていく。
そして。
ふと、見えた。
紗羅が地面を蹴ろうとする瞬間が。悠華がそれを察知し、回避の予備動作に入ろうとするのが。
それらを頭で認識するのが早かったか、身体が動くのが早かったか。
俺は「悠華が紗羅を避ける瞬間」に、「悠華が避ける先」へと踏み込んでいた。
……結果。
俺の胸にぽすん、と小さな感触が収まった。
やはり殆ど意識しないまま、悠華の身体をそっと抱き留めると、少女が一瞬、ぽかんと俺を見上げる。
直後、その顔にはっきりとした笑みが浮かんだ。
「良くやった。合格じゃ」
合格。
その言葉に、ふっと意識のステージが戻っていく。
気づけばもう夕暮れで、腕の中に悠華がいて、駆け寄ってきた紗羅がにっこりと笑顔を見せてくれる。
「やったね、御尾くん」
「……ああ」
先ほどまでの経験がどこか夢のように感じられて、俺は瞬きを繰り返しながらそれに答えた。
ふと、抱きしめたままの少女を見つめて尋ねる。
「悠華。ひょっとして、俺を訓練するつもりで?」
「さあ、どうじゃろうな」
悠華は飄々と答えると、俺の腕をするりと抜け出した。
「さて、次の条件といこうか」
次。
やはり、鬼ごっこをこなしただけでは元に戻してもらえないらしい。
「次は何をするんだ?」
「うむ。簡単なことじゃ」
答えた悠華が俺の背後へ視線を向ける。同時に履物が地面を擦る音。
振り返った先には華澄がいた。
静かに胸の前で両手を組み合わせて立ち、じっと俺を見つめている。
「華澄……?」
違和感から名前を呼んでみたが、返事はなかった。
代わりに正面と背後――二カ所から細かな火の粉が舞い上がる。
「御尾くんっ!?」
側面から紗羅の声。彼女はこちらに手を伸ばそうとして、直後、何か戸惑うような表情で硬直した。
その間に火の粉は俺を取り巻いて渦を巻く。
中心にいる俺は炎の眩しさと風圧から思わず目を瞑ってしまう。
すると、不意に全身の感覚が消失した。
『……え?』
疑問の声を上げたつもりが言葉にならなかった。
更に、視界が急速に低くなっていく。倒れてる? いや、落ちている? これ、どうしたらいいんだ?
パニックになりかけた俺は、ふわりと華澄に抱き留められた。
『あれ?』
やはり声は出ない。代わりに鳴き声のようなものが夕闇に響く。犬? いや、ちょっと違うか?
思ううちに少しずつ身体の感覚がはっきりしてくる。
どうやら俺は華澄に全身を抱えられてるらしい。
……どうやって?
「気分はどうじゃ、悠?」
『いや、気分と言われても』
吐き気や目眩はないが、猛烈に違和感がある。
腕と脚は短く、指が思うように動かない。視野に変化はないものの、すぐ近くに動物の鼻先のようなものが見える。
『動物の鼻?』
……あ。やばい。どういう状況なのかなんとなく理解できてしまった。
動く範囲で首を巡らせれば、かすかに「ふさふさの毛で覆われた身体らしきもの」を確認することもできた。
あの鳴き声も、冷静になってみれば聞き覚えはある。犬っぽいが、若干猫っぽくもある声。この動物を日常生活で目にすることは殆どないが、実は俺はこの動物が一番好きだったりする。
つまり俺は。
「御尾くん……狐になっちゃったの?」
紗羅が呆然と呟きながらこちらに歩み寄ってきた。
すると、華澄は紗羅ににっこりと微笑みかけて、抱いていた俺の身体を丁重に差し出す。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
紗羅の手が伸びてきて、俺の胴体をホールドする。四足歩行がデフォルトの動物のため、顔の位置が人間と違って微妙に変な感じだ。
「御尾くん?」
『紗羅』
「……うん。御尾くんだ。目はそのままだもん」
ぎゅっと抱きしめられると、身体の大部分が紗羅の胸に包まれた。
びっくりして逃げたくなったが、不思議といやらしい気分が湧いてこないことに気づいた。むしろ、ふかふかのクッションに埋もれているような安心感がある。
もしかして、身体の変化に伴って性欲まで無くなったのか。
『俺、本格的にやばいんじゃ』
「大丈夫ですよ、悠人様」
言葉にならない鳴き声――狐語?――のはずの呟きを拾い、華澄が言った。
「華澄さん、御尾くんの言葉が?」
「はい。わかります」
紗羅の問いにしっかりと頷く。さっきの発言は偶然ではなかったらしい。ついでに、悠華も得意げに胸を張った。
「もちろん、わらわもわかるぞ」
「……私だって、やろうと思えばできるもの」
紗羅がむっとした顔で呟き、俺の目を見つめる。彼女の力が働いたことがなんとなくわかった。
「御尾くん、何か喋ってみて」
『えっと、急に言われても』
「ありがとう。ふふ、そういうところも御尾くんらしいね」
嬉しそうな微笑。魔法使ってまで会話しなくても、と思わなくもないが、紗羅が嬉しそうなのでよしとしよう。
「ところで……」
そこで紗羅は笑顔を消し、華澄と悠華を見た。
「どうして御尾くんをこんな姿にしたの? 別に酷いことをするつもりじゃないんでしょう?」
「ああ。お主が先ほど、割って入るのを躊躇ったようにな」
やっぱり。さっきの紗羅の行動はそういうことか。
悠華が笑みを作り、俺の背中を撫でる。気持ちいい。
「悠。お主は地力で人の姿に戻ってみせよ。それが次の条件じゃ」
……なんだか、急にハードルが上がった気がするぞ。




