神との邂逅
三つまで俺の願いを叶える。
かつてマヤと俺はそういう内容の契約を交わし、その一つを使って俺は女から男へ戻ったらしい。
その証が左手に浮かぶ紋様。もとは「三」だったという数字は、今は「二」。
つまり、あと二つまでは願いを叶えられる。
「二つ目の願いとして、マヤが一つ目の願いを履行する際に封印した記憶を全て解放してもらいましょう」
「……その文言だと、曲解する余地もなさそうね」
願いを告げるのは俺の役目らしいので、念のため凛々子さんの言った内容を一言一句違わず復唱し――願いは受理された。
黒猫が一瞬にして妖艶な悪魔に変わり、驚く間もなく手の紋様が「一」へ変わる。
そして、失われていた約二か月の記憶が、脳内へみるみるうちに蘇った。
「ああ……」
くらり、と視界が揺れ、倒れそうになったので慌てて踏みとどまる。
身長、立ち方、筋肉のバランスが『悠奈』の時の感覚と違うことを今更ながらに理解し、戸惑いのうちに受け入れる。
はあ、と息を吐く。
周囲を見渡すと、四人の女性が俺を見ていた。
その中の一人、華澄と目が合う。
彼女にもきっと心配をかけてしまった。声をかけてあげたいけれど――。
今は、まず。
「……紗羅」
最愛の少女を見つめ、ゆっくりと歩み寄る。
紗羅の目が見開かれ、彼女が足早に駆け寄ってくる。
勢いよく抱き着いてくる彼女を、胸と両腕を使って受け止める。
「悠奈ちゃん……って、呼んでもいいんだよね?」
「うん。ごめん、心配かけて。ありがとう、ここまで来てくれて」
そこまで言ったところで、唇が強引に塞がれた。
紗羅の目には涙が浮かんでいた。それに気づいた途端、もらい泣きが始まったため、俺はいっそ目を閉じることにした。
ほんの数日前に味わったはずなのに、ひどく懐かしい感触だった。
不意に、膝がかくん、と落ちそうになった。
心地よさもあったが、紗羅が勢いよく精気を吸い取っているのが大きな原因だ。おそらく無意識だろうが、俺のせいで数日間、気を揉んでくれていたのだから、これくらいは甘んじて受ける。
唇が離れたのは、立っているのが本格的に辛くなった頃だった。
「……落ち着いた?」
「……うん。ごめんなさい、また会えたのが嬉しくて、我慢できなくて」
「謝らなきゃいけないのはわた……俺の方だよ」
微笑んで彼女の髪を撫でる。
それから顔を上げると、凛々子さんと目が合った。
あ、目が笑ってない。
紗羅が気を利かせて離れてくれるのに合わせて、俺は頭を下げた。
「ご心配、おかけしました」
「本当ですよー。お詫びになるべく早く、私のことを『お義母さん』と呼んで下さると助かります」
「い、いやその。それはもうちょっと心の準備とか色々……」
決して嫌なわけではないが、急すぎるだろう。しどろもどろに答える俺。
と、そこに履物が地面を擦る音。
「悠人様」
「華澄」
そうだ。
彼女にもきちんと伝えなければならない。
……記憶が戻る前に危惧していた恐れは現実になった。
紗羅のことを思い出した今、俺は前と同じ俺ではいられなくなった。
胸には華澄への思いも残っている。今度はここ数日の記憶を忘れた……なんて間抜けな話にはなっていない。
でもそれ以上に。
紗羅の声、肌の温もり、指先や唇の感触が。お互いの気持ちを確かめあった記憶が、深いところに刻まれている。
華澄は澄んだ瞳で俺を見つめ、じっと言葉を待っている。
それを正面から見つめ返し、頭を下げた。
「ごめん。俺は紗羅が好きだ。記憶がどうとかでコロコロ変えていいことじゃないのはわかってる。けど、これは変えられない」
「……そう、ですか」
俺の言葉を最後まで聞いた華澄は、肩を落とした。
何と声をかけるべきか。いや、俺に声をかける資格はないか。
「本当は、わかっていました。紗羅さんが境内に現れて、悠人様を見た瞬間から。きっと、お二人の間に華澄が入る余地はないのだろうと。ですが――」
ただ、黙って待っていると、やがて華澄は顔を上げて言った。
「申し訳ありません、悠人様。一度だけで構いません。八つ当たり、というものをさせていただいてもよろしいでしょうか」
「……もちろん」
むしろ正当な権利だろう。
華澄の前に立ち、身構えずに待ち受ける。
すると華澄はすっと息を吸い、勢いよく右手を振り上げ――。
『何じゃ、その程度か。もっと本気で怒りをぶつければいいものを』
え?
今、どこから声が?
驚いたのは俺だけではなかったらしく、紗羅や凛々子さん、華澄も動きを止めていた。唯一、真夜――いつの間にか猫の姿に戻っていた――だけは平然としていたが。
「ふふ、そう驚くでない」
「なっ――」
次の声は間近から。
瞬きするほんの少しのタイミングで、眼前に新たな少女が現れる。
頭の後ろで大きな三つ編みを作った小柄な子だった。見た目の年齢は十歳くらいだろうか。袖の長い黒の着物を羽織り、腕は着物の中へ完全に隠している。
見覚えはない。けれど、何故だか懐かしい印象を受ける。
彼女を見た華澄が呟いた。
「――悠華様」
悠華。それがこの子の名前?
呼ばれた少女が華澄の方を振り返った。
「久しぶりじゃの、華澄。もっとも、わらわはずっとお主のことを見ておったが」
「恐れ入ります」
そうして華澄は少女、悠華の前に跪いた。恭しく頭を下げる様子は、いつかの杏子さんを連想させる。
絶対的な上位者と、それに傅く者。
「君も、天使とか悪魔の類、なのか?」
「ん?」
少女が再びこちらを振り返る。その顔には楽しげな色が浮かんでいる。
横手から「違うわよ」と真夜の声。
「それは……」
「神」
真夜の声を他ならぬ少女自身が引き継いだ。
その言葉は、確かな力を持って俺の胸を打つ。
サキュバスに悪魔、天使……これまでにも色々な存在を目にしてきたが、神、となればやはり存在としては別格だ。
「じゃあ、あの跡地にあった神社は」
「そう。元はわらわを奉っていたもの。……今となっては信仰を失い、わらわもこの有様じゃが、な」
……この有様、って?
疑問に首を傾げると、紗羅が傍に寄ってきて囁いてくれた。
「あの子の腕、だよ」
「……あ」
彼女の腕は着物の袖に隠れて見えない。
しかし、いくら袖が長めだと言っても、完全に隠れるほどの長さではない。そう、彼女に腕があるのなら。
腕の欠落に、小さな身体。
真夜や真昼と同じような理屈が通用するとしたら、悠華は本来の姿になるのもままならないほど、力を失っていることになるか。
「そういうことじゃ」
俺の思考を読んだようなタイミングで、悠華が鷹揚に頷いた。
「今のわらわには、偉そうに胸を張れるほどの力はない。こうして姿を晒すだけでも勇気がいる程にな」
「じゃあ、どうしてわざわざここへ?」
「それは、お主に興味があったからじゃ、悠」
言って彼女が見つめる先は俺の顔。
「一応、俺は悠人なんですけど……」
悠華が華澄の主だとすると、従兄弟である俺にとっても無関係ではないはず。そう思って敬語を使ってみたが、悠華は「気を遣う必要はない」と笑った。
「お主は二つの名を持っておるじゃろう? どちらで呼ぶか使い分けるのも面倒だから悠、と呼ばせてもらう」
「ああ、なるほど」
「で、わざわざ顔を出した理由は……」
悠華がちらりと俺、それから紗羅と華澄を順に見る。
「面白そうなので、わらわも悠を狙わせて貰おうかと思っての」
はい?
「ちょ、ちょっと待ってください! 御尾くんを狙うって」
「もちろん、悠を伴侶とするという意味じゃ。挑戦するのは勝手であろう?」
「それは、そうだけど……」
紗羅が俺を振り返った。不安そうな彼女に俺は頷いてみせる。
「大丈夫、何があっても紗羅への気持ちは変わらない」
確かに、挑戦すること自体を拒否する権利はない。けれど、求婚を受けるかどうかは俺の自由だ。
どんな誘惑をされても靡かなければいいだけの話だ。
と、悠華も俺の考えは予測していたのか、
「まあ、そうなるじゃろうな。なので……」
月夜の庭に火の粉が舞った。
それはほんの一瞬のこと。しかしその一瞬で火の粉は俺の身体を取り巻き、何らかの影響を残していく。
痛みはない。記憶がどうにかなった様子もないが……。
「悠、お主の男性機能を封じさせてもらった。取り戻したくば、わらわの戯れに付き合って貰おうか」
予想を超えた言葉が、小さな神の口から告げられた。




