エピローグ2
「さて、と。……真夜」
朝から股のあたりに違和感があるせいで、自宅付近の路地裏へ着くまでには結構時間がかかった。
立ち止まった俺は、周囲に誰もいないことを確認してから真夜の名を呼ぶ。
すると左手に刻まれた契約の証の効能か、今回は悪口を言うまでもなく、すぐに黒猫が姿を現した。
「一つ目の願い、使うのね」
「ああ」
短く答える。今更女口調を使う必要もないだろうと、しばらくぶりの素の態度だ。
「じゃあ、念のため、もう一度願いを聞きましょうか」
「律儀だな」
さすがは悪魔。嘘を吐けない、なんて特性を持っているあたり、案外契約とかそういうのに関しては杓子定規に動く奴らなのかも。
俺は苦笑しながら真夜に答えた。
「俺を元に戻してくれ」
「OK。貴女を、交通事故に遭う前の『御尾悠人』に戻せばいいのね?」
「ああ」
頷くと、真夜はくすりと笑みをこぼした。
……何がおかしかったんだろう? 首を傾げるも、理由はわからなかった。
「じゃあ、始めるわ」
それからすぐに黒猫はそう言った。
彼女が元の姿に戻るのと、周囲に結界が張られるのが同時。左手の刻印が三から二に変わり、足元に複雑な魔法陣が生まれる。
「目を閉じて。次に気づいた時には、貴女は元に戻っているわ」
言われた通りに目を閉じた。
これで、戻れる。
何もかも本当に全部終わる。
「ありがとな、真夜。色々と」
「何よ。お別れだからって、しんみりするような間柄でもないでしょうに」
「まあ、それはそうだけどさ」
魔法陣が輝きを放つ。
……しかし、お別れってのも気が早いな。まだあと二つ、願いは残ってるってのに。
「でも、ま、愉しかったわ」
「そっか」
続けて放たれた、らしくない言葉に頷く。
魔法陣がせり上がり、俺の全身を包んでいく。
「ばいばい。羽々音悠奈」
初めて名前で呼ばれると同時に、俺は奇妙な違和感を覚えた。
――何か見落とした?
真夜は契約によって俺に危害を加えられないはず。また、俺の願いを叶えることも契約によって決められている。
ならば、何が。
突然湧き上がってきた焦燥の中、俺は思考を進めるも、結論に行きつくよりも早く意識が薄れ始めた。
脳裏にこれまでの記憶が蘇る。
皆に見送られたこと。紗羅との一夜。真昼との戦い。亜実ちゃんのこと。
深香さんに洗脳されそうになったこと。
真夜との戦い。地下室に監禁されたこと。女の子のレッスン。
一つ一つの記憶が浮かび上がっては、どこか遠くへ去っていく。
思い出せなく、なる。
『貴女を、交通事故に遭う前の『御尾悠人』に戻せばいいのね?』
まさか。
あの時、尋ねられたのはこういう――。
「紗羅……!」
最後の瞬間に浮かんだのは、あの子の笑顔だった。
それから。
ちりん、とどこかで鈴の音がして。
「……あれ?」
気づくと、俺は自宅付近の路地裏に立っていた。
空の様子を見ると時刻はどうやら朝方らしい。こんなに時間に、俺は何をしていたんだっけ?
思い出せない。
更に記憶を探りつつポケットへ手を突っ込むと、何も入っていなかった。スマホどころか財布も、自宅の鍵すらない。
じゃあ、コンビニに用事ってわけでもないか。
早朝の散歩、とか?
「……うーん」
まさかこの若さでボケたのだろうか。
何だか知らないが、着ている服にも見覚えがないし。っていうかまだ新しくないか、この服。
と――不意に左手に目が行く。
手の甲にローマ数字の二の字に似た模様。そして薬指には見覚えのない銀の指輪があった。
……何だっけ、これ。
「まあ、いいや」
とにかく家に帰ろう。もしかしたら寝ぼけてるか、疲れてるのかもしれないし。今日が平日なら登校する準備をしないと。
――そういえば、学校と言えば。
「羽々音さんは、もう来ないんだよな」
ふいに蘇ってきた記憶。
二学期中間テストの最終日、俺はクラスメートの羽々音紗羅さんに告白して振られた。そしてその後、彼女に誘われて一緒に帰ったのだ。
あの日、彼女は今日限りで転校すると言っていた。
だから、もし登校しても彼女には会えない。
「うわ、なんか落ち込んできた」
もしかして記憶が曖昧なのもそのショックか?
などと考えつつ、俺は自宅へと辿り着いた。
「っ、と?」
鍵が無いのだから玄関は開いているはず。そう思ったのだが、ドアを引いた手に返ってきたのは堅い感触だった。
まだ若干、父さんたちを起こすには早い気もするが。
はあ、とため息をつきつつインターホンを押すと、しばらくしてから反応があった。
「……はい?」
「あ、俺だけど。ごめん、鍵を開けて貰っていいかな?」
訝し気な声に、気持ち申し訳なさそうな調子で申し出る。
と。
「すみません、どちら様ですか?」
「いや。俺、悠人だけど」
朝っぱらから外出したことに怒っているのだろうか。
そんな思いは、がたん、という物音によって遮られた。どうやら中との通話が乱暴に切られたらしい。
……何だ?
訝しむうちに屋内から足音が聞こえ、すぐに玄関のドアが開かれた。顔を出したのはやや息を荒くした母さんだった。
「……悠人?」
「うん」
信じられないものを見た、というように目を丸くする母さんに頷きを返すと、そこへ。
「どういうこと?」
更に意味の分からない質問が投げかけられた。
そこでようやく、俺は自分が置かれている状況が「何かおかしいらしい」ということに気づいた。
――しかし、俺自身には一体何がおかしいのか、全くわからなかった。
四章は終盤までは、悠人が男に戻った状態での話になります。
その後は再びタイトル回収の予定です。




