エピローグ
屋敷では凛々子さんと世羅ちゃんが起きて待っていてくれた。
紗羅からスマホで連絡があったあと、杏子さんは寝間着の上からコートだけを羽織ると、すぐさま行動を開始したらしい。
凛々子さんへ簡単に事情を伝えると、世羅ちゃんを一人にしないよう屋敷に残して車に乗った。紗羅と同じように飛んでくることもできたが、移動先で何があってもいいよう魔力を温存した。
車が出る音で世羅ちゃんは目覚めてしまったが、そこは凛々子さんが宥めてくれた。そうして二人でお茶を飲みながら留守番をしてくれていた。
「お姉ちゃん、悠奈さん!」
「ただいま、世羅。ごめんね、心配かけて」
屋敷に戻るなり、俺たちは世羅ちゃんに抱き着かれた。二人並んでいたせいもあって、今回は俺も一緒である。
ちょっと照れくさいけど、涙ぐむ世羅ちゃんを二人で半分ずつ抱きしめていると「こういうのも悪くないかな」と思えた。
世羅ちゃんが落ち着くのを待って身体を離すと、今度は涙ぐんだ凛々子さんが「お帰りなさい」と深い会釈をしてくれた。
――帰ってこれた。
そこで深い実感が湧いてきて、気力で持っていた身体が崩れ落ちた。慌てて紗羅が俺を抱き上げ、部屋のベッドへ運ばれた。そのままなし崩しに「詳しい話はまた明日」ということになる。
なお、あまり気にしている余裕はなかったが、深香さんは世羅ちゃんたちから無視されていた。
「お疲れさま、悠奈ちゃん」
横になった俺をベッドサイドから紗羅が見つめる。
「紗羅こそ。来てくれて、本当にありがとう。……あのままだったら俺、どうなってたかわからない」
「……うん、悠奈ちゃんが無事でよかった」
紗羅が来なくても、おそらく命の危険はなかっただろう。ただ、代わりに俺の精神はどうなっていたかわからない。
深香さんに都合のいい暗示をかけられ、最悪、紗羅を手に掛けるような洗脳をされていた可能性もある。
……そうなるくらいなら、まだ死ぬ方がまだましだっただろう。
「それから、ごめん。ここのところ、紗羅のことないがしろにしてた」
「いいよ」
紗羅は首を振って、それからじっと俺を見て目を細める。
「でも、寂しかった。悠奈ちゃんは私のこと、どうでもいいのかなって思った」
「そんなこと……」
「わかってる。深香様の暗示のせいだっていうのも。でも、思ったの」
なら、間違いなくそれは俺の責任だ。
「深香さんからもらった服、捨てようか」
「それは服に失礼だよ。でも……」
「でも?」
「なるべく着ないで欲しい、かな。特にあのコートは」
「ん……」
今回の被害は手首だったから、あの赤いコート自体は無事だ。
だけど、コートなら紗羅とお揃いで買ったあれがある。
「わかった。あくまで予備ってことで取っておく」
「うん。白いのが駄目になっちゃったら、また新しいの買いに行こうね?」
それは、永遠に予備になりそうだけど。
いいか、それで。
「あの、そういえば、悠奈ちゃん」
「……ん?」
「私とお屋敷を出るっていう話、どうするの?」
「ああ……」
紗羅は俺と深香さんとの話を聞いていたわけだから、当然それも知っているのか。
……そうだな。
俺はしばらく考えて、
「出ない方がいいかな、って思う」
今回の件での杏子さんや凛々子さん、世羅ちゃんを見ていて、少なくとも彼女たちは本心から紗羅を疎ましく思ってなどいないと感じた。
結局、なんだかんだと面倒なしがらみが問題なのだろうと。
それに、帰ってきた時のあの安心感。杏子さんたちの庇護は確かにあるのだと、そう思った。
「だから、留まれるなら留まりたい。もちろん、紗羅が屋敷を出たいなら別だけど」
そう言うと、紗羅は「ううん」と首を振った。
彼女は俺の右手をぎゅっと両手で包み込んで言う。
「私も、自分からは屋敷を出たくない。居られる間はこの家の娘でいたいよ」
「そっか。じゃあ、そうしよう」
紗羅に向けてそっと微笑む。
「それとさ。前に杏子さんから聞かれたことがあったんだ。俺の、一番望むものは何かって」
「うん」
紗羅も微笑みを浮かべながら聞いてくれる。
「その時は答えられなかったけど……今の俺にはやっぱり、紗羅が一番大切だと思う」
深香さんと紗羅の戦いを見ていてそう思った。紗羅を失いたくない、と。
もちろん「男に戻りたい」という気持ちはあるけれど、無事に『御尾悠人』へ戻る方法は今のところ見つかっていない。
代替案として「男になる」方法も、今の『羽々音悠奈』を捨てることになる。
「せっかく紗羅が認めてくれて、名前まで付けてくれた身体を簡単に捨てるのも違う気がするんだ」
もっといい方法が見つかれば別だけど。
「だから、その」
「……うん」
「これからも、一緒にいてほしい」
「うんっ」
強い返事と共に右手が更に握られた。ちょっと痛い。
でもそれは、なんとなく心地いい痛みだった。
「それじゃあ、眠るな」
「うん。ゆっくり休んでね」
おやすみなさい、という紗羅の声に、おやすみ、と声にならない声を返して目を閉じる。限界に達していた睡魔のおかげで、俺の意識は一瞬で落ちた。
翌日、俺が目を覚ましたのは夜だった。殆ど丸一日眠っていて、高校の方は紗羅が「風邪で病欠」と話してくれたらしい。
おまけに、それだけ休んだというのに体調は最悪だった。良く分からないがお腹の妙な部分が痛く、その影響なのか頭痛までする。痛みを堪えつつよろよろと着替え、食事をとりつつ話を聞くと、深香さんは既に屋敷を去ったとのことだった。
「事情を一通り聞いたうえで、彼女には浜辺で告げた通り『出入り禁止』と『接触禁止』を言い渡しました。これは羽々音家の当主としての決定ですので、違えれば親族からの信用すら完全に失うことになるでしょう」
家柄に拘っていた深香さんにとって「家の決定」は重く、これ以上プライドを傷つけるような真似はしないはずだ。
「悠奈さんの特訓については私と紗羅が引き継ぎます。その結果、毎日とはいかなくなると思いますが……構いませんか?」
「はい」
「私も、それで構いません」
それから、俺は杏子さんへ、今後の身の振り方についての希望を伝えた。ぶっちゃけて言ってしまえば「現状維持」ということだが。
皆は俺の意思を尊重してくれた。
「……わかりました。できる限り、悠奈さんの意思に添えるようにいたします。今回の件の後処理が終わるまではバタバタすることになるかと思いますが」
ともあれいったん、騒動は終わった。
これでまた平穏な日常が戻ってくる。まあ、テスト前に一日休んでしまった分は頑張らないといけないだろうが。
「とりあえず、俺はまた寝ます。できれば明日は学校に行きたいので」
今晩のうちに体調を戻してしまわないと。たぶん、単なる風邪だろうし。
「あ、ちょっと待ってくださいー。悠奈さんの症状ってどんな感じですか? お薬とか、あるいは治癒が効くかもしれませんー」
「え? えーっと」
頭痛と腹痛、あとは若干の吐き気。そのせいで普段よりも夕食の量は少なめだった。極度の消耗を考えれば、むしろいっぱい食べるべきなんだろうけど。
俺が症状を話すと、皆は「あー……」という表情になる。
「これは、明日はお赤飯ですかねー」
和食!? って、そうじゃなくて。
「風邪じゃないんですか、これ?」
「えっとね……悠奈ちゃん、起きてからトイレには行った?」
「いや、行ってないけど」
そう答えると、紗羅にトイレまで引っ張って行かれた。
更に言われるままパジャマを下ろす。
……結果、下着の汚れがすごいことになっていた。後で確認したらベッドの上も。
「……あー、えっと。紗羅、これってもしかして」
「うん、生理みたいだね」
そうか。そういえば、そういうのもありましたね……。
紗羅から生理用品の使い方をレクチャーされつつ、俺は思わぬイベントにため息をついた。
――やっぱり、戻れるなら男に戻りたいかも。
ちょっと思うところあって一日に二話更新です。




