特訓の後に
深香さんによると、主な属性について一つ一つ確認した結果、火の反応が一番良かったらしい。
「確かに。火の時はかなり熱かったです」
「ですので、本格的な特訓は火の扱いについて、ということになります。ただ、しばらくは今日と同じ内容を繰り返しますが」
全く魔力を使い慣れていない今は、少しの魔力行使でも疲労や消耗が大きい。そのため今日のところはこれで終了、続きは明日以降ということになった。
「ありがとうございます、深香さん」
「いいえ。お役に立てて幸いです」
深香さんは片づけを終えると「それでは、おやすみなさい」と部屋を出ていった。俺は彼女の背中を見送るとほっと息を吐いた。
右手を持ち上げて視線を落とす。手を強く握り、開く。
……魔力の扱い。これを習得すれば力になる。そうすれば自分を、紗羅を守ることだって。
「……よし」
頷いたところでくらりと目眩がした。目を瞑ればすぐにでも意識を手放せそうなくらい、身体が休息を欲している。
……これは、とっとと寝てしまった方がいいかな。
俺は濡れた水着を脱いでハンガーにかけると、寝間着を羽織った。と、そこへコンコンとドアがノックされる。
深香さんが忘れ物でもしたのだろうか?
「どうぞー」
応えるとドアが開き、紗羅が入ってきた。
「悠奈ちゃん。特訓、終わった?」
「ああ。……でも、どうしたんだ?」
スマホを手に取って起動すれば、時刻は就寝時間にさしかかっている。色々やっているうちに案外時間が経っていたらしい。
紗羅もそろそろ寝る時間のはずだけど。
疲労のせいかうまく回らない頭で思い、首を傾げる。紗羅はそんな俺をじっと見つめたあと、薄く微笑んだ。
「……ううん、寝る前に顔を見たかったから」
「そっか」
「うん、それだけ」
何もないならよかった。俺ももう、遊んだり話したりできる気力がないし。
紗羅はそのあと部屋をぐるりと見回し、脱いだばかりの競泳水着に目を止めた。
「特訓、うまくいったんだね」
「ああ。魔力は並だけど、火の扱いに適性があるってさ」
「そうなんだ」
彼女の首が僅かに傾げられる。何かを考えているのか、眉間に皺が寄っていた。
しかし紗羅は結局何も言わず、ドアに向かって身を翻した。それからドアの前で立ち止まって振り返り、
「それじゃあ、おやすみなさい。……お疲れさま」
「ありがとう。おやすみ、紗羅」
互いに小さく手を振りあった。
軽く音を立ててドアが閉じるのを聞きながら、俺はベッドへと倒れこんだ。
……あー、もう。本当に限界っぽい。自分でもここまで疲れてるとは思わなかったが。
これは、気持ちよく眠れるかも……。
睡魔に身を任せ、そのまま眠りについた。
結果、自分がとても大事なこと――紗羅との儀式をすっかり失念していたことに気づいたのは、朝、目が覚めたあとだった。
「ごめん、紗羅! 昨夜はすっかり忘れてて!」
気づいたからには放っておけず、俺は着替えもしないまま紗羅の部屋へと突撃した。この屋敷に来て初めてそのドアをノックし、顔を出した紗羅に深く頭を下げる。
許しが出るまでは顔を上げないつもりでいると、紗羅の返事は。
「仕方ないよ。大丈夫、怒ってないから」
「……でも」
恐る恐る顔を上げる。俺を見つめる紗羅の顔には確かに怒りはなく、むしろ彼女は苦笑気味だった。
「疲れてるのは見ればわかったから。前にも、大変ならお休みするって言ったでしょ?」
「だけど」
他ならぬ俺自身が紗羅の申し出を断ったのも事実だ。
紗羅のためじゃなくて自分のため、とか偉そうなことを言っておきながら、当の俺が忘れ去っていた。
特訓に気を取られ過ぎで、あまりにも情けない。
「……うーん。じゃあ、一つだけお願いしてもいい?」
俺がどっと落ち込んでいると、紗羅がそう言ってくる。
「もちろん。何でも言ってくれ」
「ありがとう。じゃあ、キスしてほしいな」
「ああ、わかっ……え?」
キス?
「今ここで?」
「そう、今ここで。もちろん、精気は吸わないから」
……おお、そうきたか。
確かに、それなら儀式の代わりとしては申し分ない。
けど、その、なんていうか。俺が紗羅とキスしたのって儀式以外だと、どさくさに紛れてしたあの時しかないんだよな。
だから、逆にこのシチュエーションは恥ずかしいというか。ほら、歯も磨いてないし、寝起きにパジャマだから格好付かないし。
「……やっぱり、嫌?」
「嫌じゃ、ないよ。もちろん」
ただ、だからといって断れるわけがなかった。
俺が頷くと、紗羅も「良かった」と微笑んでくれる。そうして彼女はそっと目を閉じる。
完全にキスを待つ体勢。
いつもとは逆に、俺の方から紗羅に近づかなければならない。
……やばい、緊張する。
紗羅に聞こえないように息を吐き、少しでも呼吸を落ち着かせる。それから紗羅の肩に軽く手を置いた。
ぴくりと彼女の身体が震えるのを感じながら唇を近づけ――かすかに触れ合わせる。
時間にしたら一秒くらいだろうか。
「これで、いいかな?」
「……うん」
唇を離して見つめあうと、俺たちは互いに真っ赤になった。
「ありがとう」
「い、いや。こちらこそ」
もじもじと会話を交わした後、ぎこちない沈黙。
「……えっと。まだ特訓は続けるんだよね?」
「あ、ああ。しばらくは」
「じゃあ、しばらくはお休みしようね」
「いいのか?」
「もちろん」
にっこりとした笑顔。
無理をしている様子は、ない、かな。
「もう体調も戻ってきたし、私は大丈夫。悠奈ちゃんは特訓に集中して」
「……わかった」
紗羅の気持ちが有り難かった。
……この気持ちをどう伝えたらいいだろう。ただ言葉にするだけじゃ足りないような気がするんだけど。
『こういうのはお姉ちゃんにしてあげてください』
そこで思い浮かんだのは昨夜の世羅ちゃんの言葉。
……やってみようか? キスした後なら恥ずかしさも薄れるだろうし。
と、俺は恐る恐る右手を伸ばし――。
「……え」
頭を撫でる前に、紗羅が横を振り向いたことで動作を止めた。
つられて同じ方向を見れば、肩を寄せ合ってこちらを見つめる二つの顔。
目をきらきらさせた世羅ちゃんと、にんまりとする深香さんがいた。
「………」
「……二人とも、そこで何を?」
「えっと、大きめの声がしたから何かなって見に来たら、その。お姉ちゃんたちが良い感じだったので、つい」
「同じく。面白そうでしたので」
息を殺して観察していたらしい。
「いつから?」
「……えっと」
尋ねると、世羅ちゃんは言いにくそうに口ごもった。代わりに深香さんが何故か胸を張りつつ、
「一つだけお願いしてもいい? って辺りからかな」
「ばっちり聞かれてますね」
居るなら居ると言ってほしい。
いや、あの場で存在を示されたら仲直りもできなかったわけで。良かったと言えば良かったのだろうが。
あ、紗羅がこれ以上なく真っ赤になっている。
「……わ、私は着替えるから」
「あ、ああ」
部屋の中に引っ込みドアを閉じる彼女を引き留めるのも忍びなく。
代わりに俺は「キスってどんな味なんですか?」と聞いてくる世羅ちゃんや、「歳の近い同士の関係もいいものですよね」と変な納得をする深香さんの対処を迫られることになったのだった。




