悪魔、ふたたび
「訓練の際に着る衣装を買ってきてください。運動に向いたものと……濡れてもいい衣装を。予備も含めて最低二着ずつ」
それが、杏子さんが俺に出した「条件」だった。
「そんなことでいいんですか?」
「そんなことと仰いますが、大事なことですよ。訓練のための最初の準備……悠奈さんの申し出が真剣なものか否か、購入された衣装で見極めさせていただきます」
――意外と真面目な指示だったらしい。
ということで、俺は買い物のために屋敷を出た。夕暮れまでもうあまり時間はないが、かといって明日に回せば「その程度の覚悟か」と言われてしまいかねない。
とはいえ、モールまで行くには時間的に微妙か。
最寄りの駅前周辺にある百貨店やスポーツ用品店を巡って、よさげなものを選ぶほうが無難だろう。
そう思い定め、俺は駅の方向へと歩き始める。
ええと、運動向きの衣装と、濡れてもいい衣装だっけ。
要するに体操着的なものと水着的なものだよな。高校用に買ったのがあるけど、予備まで必要ってことは着回しじゃ追いつかないってことだろう。
そう考えると、訓練の内容も激しいものに覚えてくる。
……体操着とジャージだったらどっちがいいんだろう。動きやすいという意味では体操着の方が当てはまるけど。
ふと、土剥き出しのグラウンドを走らされ、疲れ果てて転ぶイメージが浮かび、ううむと悩む。
とりあえず両方買っていくか?
軍資金はしっかり貰っているし、惜しむよりは判断を間違えない方が重要だろう。
と、何軒かの店を回り物色していく。
「女物のスポーツウェアって色々あるんだなあ……」
形や長さの問題に加え、柄という要素が重要視されているせいだろうか。あと、身体にフィットするデザインが多いせいか、素材の伸縮性なんかの問題もあるようだ。
……可愛いデザインはいらないけど、身体に合うかだろうかは重要だな。衣装が合わず苦しい、なんてことじゃ運動しづらくて仕方ないし。
色々と悩み、スポーツウェアを大量に購入した。ジャージと嵩張らないタイプのウェア、水着を二着ずつ。それから、店員さんに薦められてスポーツブラも買い求めた。
う、これだけあると結構重いな。
店を出た俺は、荷物を抱えて歩き出す。
しばらく歩くと、小さな公園に差し掛かる。その時――。
なー。
と、足元から鳴き声が聞こえた。
足を止めて見下ろせば、そこには一匹の黒猫。ごろごろと喉を鳴らしながら頭を摺り寄せてくる、
可愛い。……じゃなくて。
「……何のつもりだ、お前」
この姿には見覚えがある。おそらく十中八九――。
「あら、ご挨拶ね」
睨みつけてやると、黒猫は動作を止めて俺を見上げた。その目が僅かに細められ、口からは明瞭な言葉が漏れる。
知れず、はあ、とため息が漏れた。
周囲を見回す。人が通りかかりそうな気配はなく、屋敷までもまだ距離がある。スマホを取り出して連絡しても、すぐに助けは来ないだろう。
偶然……なわけないよな。邪魔が入らないタイミングを狙ったと見るべきだ。
「やっぱり、真夜か」
「ええ。すぐに分かってくれて嬉しいわ」
「こっちは、もう二度と会いたくなかったけどな……」
いや、本当に。
しかし、嫌がってばかりもいられない。逃れるのが難しそうである以上、せめて弱みを見せない努力くらいはしないと。
易々と、この悪魔に付け込まれるわけにはいかないのだ。
「で、報復でもしに来たのか?」
「まさか。ただ単に話をしに来ただけよ」
割と本気で言ったのだが、黒猫はあっさりと首を振った。
……世間話って間柄でもないだろうに。
「荷物が重そうだし、そこに入りなさい」
悠然と公園の入り口を顎で示される。まあいいけど……公園が好きなのだろうか、こいつ。
隅のベンチに荷物を置き、腰を下ろす。と、真夜は俺の膝に飛び乗ってきた。
「おい、服が汚れるんだけど」
「あら。嫌なの?」
言いつつ前足を差し出し抱っこを要求してくる。
うむ、動物に罪はない。中身を考えなければむしろ大歓迎だ。
胸のあたりまで抱き上げてやる。この姿勢だと目を合わせなくていいし、ちょうどいいのかも。
「で、話って?」
「貴方、まだまだ隠し事をされてるわよ」
「隠し事? ……家の人間が、ってことか?」
「そういうこと」
真夜の声は淡々としていて、その意図は読み取れなかった。
ただ『嘘をつけない』性質を考えれば真実であるのは確かなのだろうが。
「隠し事の内容は?」
隠し事されてるよ、と言われただけでは「そりゃ、隠し事くらいあるだろ」としか言えない。実は杏子さんが可愛い物好きで、ぬいぐるみを大量に隠し持ってる……とか、例えばそんなどうでもいい話だって「隠し事」には違いないし。
「そうねえ、羽々音家の成り立ちや役割に関わる話とか?」
「……具体的じゃないな」
もっと教えろ、と暗に尋ねてやると、黒猫はどうでもよさそうに。
「そりゃ、貴方に色々疑ってもらうのが目的だし」
「ぶっちゃけたな、おい」
いや、そんなことだろうとは思ったけど。
「だって、私が明言したらそれが根拠になっちゃうじゃない。余計なことまであれこれ疑って貰わなきゃ意味ないのよ」
そりゃ、そうだろうけどな……。
でも、そんな言い方されても「はい、そうですか」と羽々音家の面々を疑えないぞ。
「隠してるなら、それは俺に言わなくてもいいことなんだろ。わざわざ疑ったって仕方ない」
「へえ、本当に? 貴方自身や、あのお嬢ちゃんが優しく大事に扱われてるって本当に言い切れるの?」
「……っ」
全く、嫌な言い方をしてくる。
こいつはどこまで、何を知っているんだろう。
「疑わないって言ってるだろ」
頭に浮かびかかった不安を打ち消すように言うと、くすくすと笑い声が聞こえた。
「揺らいだみたいね。なら、これで目的は果たしたから」
もぞもぞと動き、腕の中からジャンプすると、黒猫は地面へと着地する。
「じゃあね、また会いましょう」
振り返らずに言って、そのまま数歩進み――ふっと姿を消した。
後に残るのは静かな公園の風景だけ。
「……また会いたくは、ないんだけどな」
真夜は自分で言った通り、ただ話だけをして去っていった。
彼女との会話で俺の胸に残ったのは、かすかなわだかまり。
殺されたり、呪いをかけられたり――そういうのよりはずっといいのだが、しかしそれを喜べるような心境でもなかった。
もやもやしたまま、俺は再び荷物を抱え、屋敷に戻った。
「ただいま戻りましたー」
広い玄関で靴を脱ぎつつ、一応声を上げてみる。
多分誰にも聞こえないだろうな、と思ったのだが、予想に反して人の足音がこちらに向かってくるのがわかった。
「悠奈さん、おかえりなさい。……どうされたんですか、その荷物」
俺を出迎えてくれたのは深香さんだった。えっと、どういう風に説明するのがいいものか。
「ちょっと、運動用の衣装のまとめ買いを」
そう言うと、幸い意味を察してくれたようだった。
「特訓、ですか?」
「はい。そんなところです」
「なるほど。……そうですか」
頷いた彼女は、荷物を半分、部屋まで運んでくれた。それから「用事ができた」と言ってどこかへ去っていく。
用事ってなんだろう。まあ、いいけど。
深香さんを見送った俺は、お風呂と夕飯までの残り時間を宿題にあて、あっという間に夜を迎えた。




