新しい名前
初めて見た瞬間、好きになっていた。
以降、姿を見かける度に目で追いかけ、仕草の一つ一つに見とれていた。
見ているだけで幸せだった。
告白しても結ばれることはないだろうと諦めていた。
次第に胸の中で膨れ上がる気持ちが抑えられなくなる、その時までは。
* * *
次に目覚めたのは夜だった。
その頃には身体も起き上がれる程度に回復していたので、ベッドを下りて立ち上がってみる。
「ちょっと視点が低くなってるかな」
知らない部屋なので比較対象としては微妙だが、調度品の位置などからそう察する。
ベッドサイドから辺りに視線を巡らせていると、首元に髪が当たってくすぐったかった。どういう原理かはわからないが、どうやら髪も伸びているらしい。
「なんか、変な感じだな」
自分の身体がまるで変わってしまったのだから当然だが。
これにも少しずつ慣れていかなければならない。
とりあえず、俺は入り口の傍まで歩み寄り照明を操作した。室内が明るくなったのを確認したら、今度は窓際に移動してカーテンを閉める。
「……ふう」
さて、どうしたものか。さすがにこれ以上は眠れそうにないが、かといって他にすることもない。勝手に部屋の外を出歩くのも迷惑がかかるような気が。
悩んでいると、部屋のドアがノックされた。
「あ、はい」
返事をすると、すぐに音を立ててドアが開いた。入ってきたのは羽々音さんだ。
「夕食、持って来たんだけど……食べられそう?」
「ありがとう、助かる」
言われてみればだいぶ腹が減っていた。昼も食べないままトラックに轢かれてそれっきりだったのだから、それはそうだ。
俺の返事に羽々音さんはほっとしたように頷いてくれる。
「わかった。それじゃあ、準備するね」
彼女はいったん部屋を出ると、レストランで使うようなワゴンを引いてきた。ワゴンを部屋の真ん中あたりで止め、室内にあったテーブルをベッドサイドまで移動させ料理を並べていく。
パンにスープ、サラダとメインの魚料理が二皿ずつ。
すごく美味しそうだけど、二皿ずつ?
「もしかして、羽々音さんも一緒に?」
「うん。迷惑だったかな?」
「い、いや。まさか」
ぶんぶんと首を振る。むしろ恥ずかしいというか……嬉しい。
「良かった。じゃあ、食べようか」
そう言って羽々音さんがスプーンを手にする。慌てて俺もそれに倣った。
スープをすくって一口飲む。美味い。これ、出来合いのコンソメをただ使っただけじゃなくて、結構手間かかかってるやつじゃないのか。
ついつい、二口、三口と無言で飲み続けてしまう。
「料理とか、家事は凛々子さん……うちのお手伝いさんがしてくれてるの。ほら、御尾くんもさっき少しだけ会った人」
「ああ、さっきのメイドさん」
なるほど。あんな衣装を着ているのは伊達ではないらしい。
しかし、メイドさんまでいるあたり、羽々音さんは本当にお嬢様なんだな。前から育ちが良さそうだとは思ってたけど。
「……あ、それでね。急で申し訳ないんだけど」
「?」
「御尾くんの新しい名前を決めないといけないの。手続きに必要になるから」
「……そっか。そうだよな」
俺は食事する手を止めて頷いた。
確かにそれは早めに決めておいた方がいい。いつまでも「御尾くん」扱いでは互いにやりにくいだろうし、無用なトラブルを招きかねない。
「それって、俺が決めていいの?」
「うん、大丈夫」
そうか、それなら……何がいいかな。
うーんと俺が唸り始めると、羽々音さんはにっこり笑って食事を再開した。ゆっくり待ってくれるつもりらしい。せっかくなので気持ちに甘え、俺も食事をしながら考える。
しかし、いくら頭を捻ってみても、これという名前は思いつかなかった。
そもそも名前って普通、自分で付けるものじゃないんだよな。芸名とかならともかく、本名だし。しかも女の子の名前となると……あ、そうだ。
「あのさ、良かったら羽々音さんに付けてもらえないかな?」
「私に?」
「うん。自分で決めるとしっくりきそうにないし、誰かに付けてもらった方が愛着も持てるかなって」
それに、彼女が付けてくれた名前なら、どんなものでも文句はない。心配しなくても羽々音さんは変な名前を付けたりしないと思うが。
「……うん、わかった。そういうことなら」
「ありがとう」
幸い、羽々音さんは俺の提案を受け入れてくれた。手を止め、目を閉じて考え始める。
次に彼女が目を開いたのは数分後だった。
「……悠奈ちゃん、でどうかな」
言って、彼女はスマートフォンを取り出し、文字を入力して見せた。
「名目上は私の親戚っていう事になるらしいから、苗字は私と同じ。だから、羽々音 悠奈 ちゃん」
「羽々音、悠奈」
紡がれた名前を口内で反復する。悠奈。それが、俺の新しい名前か。
名前に悠の字を入れてくれたのは羽々音さんの優しさだろう。全てがなくなるわけじゃない、小さくても受け継がれるものがあるのだと、そう思えた。
「ありがとう、羽々音さん。すごくいい名前だと思う」
「……よかった」
ほっと息をついた先輩と笑いあう。
こうして、俺の新しい名前は「羽々音悠奈」となった。
「あ、そういえば。俺も同じに苗字になるなら、羽々音さんだとややしこしいよね?」
「あ、そうだね」
なんて呼べばいいんだろう、と二人で首を傾げる。親戚だし、お姉ちゃんとか呼んだ方がいいかと尋ねると「それはちょっと」と断られた。
「えっと、良かったら名前で呼んでくれれば」
「え、いいの?」
「うん。もちろん」
……そっか、いいのか。
羽々音さんを名前で呼べる日が来るなんて、今まで思いもしなかったけど。
「じゃあ……紗羅」
「うん。悠奈ちゃん」
羽々音さんは「片思いをしているクラスメート」から「同居している親戚」へ。
なんだか急激に変化がありすぎて、当分は慣れそうにないが。
とにかくこうして、俺の新しい生活が幕を開けた。