目が覚めたら女の子
ゆっくり目を開く。
まず視界に入ったのは深い色をした、重厚な造りの天井だった。見覚えはない。雰囲気からして病院でも死後の世界でもなさそうだが……。
どうやら俺はこの部屋に一人でベッドに寝かされているらしい。
助かった、のか?
感覚的には腕も足も繋がっている。
試しに右腕へ力を籠めると、腕を中心に鈍い痛み。外ではなく内側からで、折れている感じはない。強いて言うなら筋肉痛とか、長時間寝込んだ後のような感覚。
なら、多少無視しても大丈夫か。
はぁ、と軽く息を吐いて一度力を抜き、もう一度力を籠める。やはり同じ痛みが返ってくるのでまた力を抜く。何度か繰り返すとだんだん痛みが和らぎ、無理なく動かせるようになった。
眼前に右手をかざし、にぎにぎしてみる。
……うん、大丈夫そうだ。
部屋には白い小さな照明も点いていたので、手の外観も確認できた。やはり外傷はなく、白く滑らかな手の甲と、そこから伸びる細い指先が見て取れる。左手も確認してみたが同じ。
おそらく外傷はほぼない。身体も動かせなくはない。となると俺はトラックに轢かれなかったのか。
跳ね飛ばされたか、脇を掠めて地面に叩きつけられた……ってところか。
「ああ、良かった……」
少女のような声音でほっと息を漏らし、俺はベッドの上で脱力した。
無事に生きている。それがわかれば、ここがどこかとか、あの後どうなったのかはとりあえず後回しで構わない。羽々音さんが怪我をしなかったかは心配だが。
いずれ誰かが様子を見に来るだろうし、その時に色々尋ねてみればいいだろう。
そう思い、俺は目を閉じて――。
「いや、待った」
何かが引っ掛かり、閉じかけた瞳を再び開いた。
おかしかったのはどこだろう。……そうだ、手を確認したときと自分の声を聞いたとき、俺はなんて思った? 白く滑らかな手に、少女のような声音と表現しなかったか?
御尾悠人。十六歳。ごく普通、かどうかは知らないが健全な男子だ。あいにく女の子に間違えられるようなファンタジーな容姿はしていない。
じゃあなんで。
嫌な予感がした。
俺は身体が痛むのも無視して身を起こすと、そのまま首を下へ向けた。
するとそこには、薄桃色のパジャマを着た少女の身体があった。
「……え?」
見間違えではない。見慣れた自分の身体より明らかに細くて肌も白いし、胸元にははっきりした起伏がある。念のため触れてみるとくすぐったい感触が伝わってきた。
一方、下半身はやけにスペースがあるので、恐る恐るパジャマ越しに触れると「あるはずのもの」がなかった。
……夢じゃないよな。
現実逃避、あるいはお約束から自分の頬をつねると、普通に痛かった。
「何だ、これ」
暴走するトラックから羽々音さんを庇って気を失い、目が覚めたら女の子になっていた。
って、脈絡がなさ過ぎて意味が分からない。
一体どうしたらいいのか。俺が呆然と視線を彷徨わせていると、不意に部屋のドアがノックされた。
振り返ると同時に、部屋にひとつきりのドアが開く。
入ってきたのは見知らぬ女性だった。黒のワンピースに白いエプロン、つまりいわゆるメイド服を身に纏っている。彼女は入室後、室内をぐるりと見渡すと俺の視線に気づき口を開いた。
「良かった。気が付かれたんですねー」
間延びした、どこか気の抜ける声が室内に響いた。
「あ、えっと」
「ご心配なくー。状況はきちんとご説明いたしますので」
何を言うべきか思案していると、彼女はそんな俺を制してにっこり微笑んだ。それから彼女は「お嬢様を呼んでまいりますー」と言って一礼し、部屋を出て行く。
開いたまま放置されたドアをぽかんと眺めていると、程なく廊下をこちらへ向けて移動してくる気配。
「御尾くん」
「羽々音さん」
やがて、ドアの向こうから顔を出したのは羽々音さんだった。制服ではなくゆったりしたワンピースを着ていて、先ほどの女性が言っていた「お嬢様」という形容がぴったりと嵌まる。
また、見たところどこかに怪我をしている様子もなかった。
羽々音さんがいるってことは、ここは彼女の家なのか。
思いつつ、俺はベッドを下りようと身体に力を籠める。
「痛っ……」
すると下半身を中心に強い痛みが走った。それでも体を動かそうとしていると、静かに差し出された手が俺の肩を押さえる。
「無理しないで。まだ事故のショックが抜けていないはずだから」
「……あ、ああ」
そう言われてしまうと強硬な態度も取れない。俺は体勢の変更を諦め、彼女に導かれるままベッドに背を預けた。その際、一瞬だけ顔が羽々音さんの髪に近づき、ふわりといい匂いがした。
羽々音さんは近くにあった椅子をベッドの傍へ引き寄せると、そこに座った。そうして、そっと俺の顔を覗き込んでくる。その表情はどこか暗く曇って見えた。
「あの時は、助けてくれてありがとう」
「いや。俺は夢中だっただけだから」
そう答えると、羽々音さんは噛みしめるように頷いた。同時に「やっぱり」という小さな呟きが聞こえたが、どういう意味かはわからなかった。
「羽々音さん。俺はあの時、トラックに轢かれたの?」
「……ううん、御尾くんは轢かれなかった。たぶん車の角に跳ね飛ばされて、衝撃で気絶したんだと思う。道路に転がっていたけど、目に見える怪我はなかったから」
「じゃあ」
無事だったのは確かなのか。でも、それならこの状況は一体。
というか、今の俺を見て迷わず「御尾くん」と呼ぶってことは……。
羽々音さんが目を細めてゆっくりと告げる。
「……御尾くんがその身体になったのは、別の理由があるの」
「別の、理由……?」
それってどんな。
更に問おうとして口を開いたところで、横手から声が聞こえた。
「それは私から説明します」
いつの間にか部屋の入り口に女性が立っていた。先ほどのメイドさんではない。ふわふわした髪に澄んだ瞳を持った美人で、年齢は二十代後半くらいだろうか。
「お母さま……」
振り返った羽々音さんが呟く。
お母さん? とてもそんな歳には見えないが。
しかし、彼女は羽々音さんの言葉に軽く頷いて答えた。そしてそのままベッドの傍まで歩み寄ると、俺へ向けて頭を下げた。
「御尾悠人さん。この度は本当に申し訳ありません」
「あ、いえ……」
反射的に首を振ったものの、何と言っていいか迷う。その間に彼女は顔を上げ、俺をしっかりと見つめた。
「私は羽々音 杏子。紗羅の母親です」
「杏子さん」
と、いきなり名前で呼ぶのは失礼だっただろうか。
そっと表情を窺うと、幸い杏子さんに気にした様子はなかった。にっこりと柔らかな微笑みを作ると、言葉を続けてくる。
「あなたの身体が変わってしまったのは、紗羅が原因なんです」
「羽々音さんが?」
「はい。この子にかけられた『呪い』。それにより、あなたは女性化してしまったのです」
「呪い……」
思わず羽々音さんを振り返る。彼女は辛そうに目を伏せ、胸の前で手をぎゅっと握りしめていた。
なんだか荒唐無稽な単語がいきなり出てきたけど、冗談じゃないのか。
「じゃあ、事故は無関係ってことですか」
「直接的にはその通りです。あなたと紗羅の接触がきっかけになったのは確かでしょうけれど」
確かに。俺は羽々音さんと同じクラスだが、友人として親しかったわけではない。二人だけでまとまった会話をしたのは初めてだったと言ってもいい。
……それが原因で、俺はこうなった。
「俺、元に戻れるんですか?」
「……ほぼ不可能でしょう。現実的には、その身体で過ごしていただくしかないと思います」
「そう、ですか」
杏子さんの返答を聞き、俺はため息をついた。
「本当に申し訳ありません。こうなったのは全て私たちの責任です」
「……いえ」
首を振る。こうなってしまった事はショックだし、彼女の言う通り、原因は向こうにあるのだろう。
けれど、俺には羽々音さんや杏子さんを責める気にはなれなかった。
「俺はあの時、死んでいてもおかしくなったわけですし。それを考えたら生きてるだけで。それに……後悔するような事はしていませんから」
「……ありがとうございます」
そう言うと杏子さんは再び頭を下げた。
「それで……今後のことですが、私たちでできる限りサポートさせていただきたいと考えています」
「サポート、というと」
「衣食住、戸籍と通学の手続き、その他諸々。……今後のあなたの人生すべてを」
言いたいことはなんとなくわかった。服も食事も、住むところも補償してくれる。その言葉の意味するところは。
「じゃあ、俺はもう家には」
「帰らない方がいい、と思います。公式には『事故死』として処理し、今後は『御尾悠人』ではない別の人間として生活していただいた方がいいと」
元に戻るのが非常に困難な以上、家に帰ってもまず信じて貰えない。仮に信じて貰えても、その後には騒動が待っている。
記録は捏造できても事実は変えられない。『御尾悠人が女になった』という事になれば、病院で何度も検査され、友人達からは奇異の目で見られるだろう。下手をすればテレビや新聞で大々的に報道されることもあるかもしれない。結局、元の生活を続けられないばかりか、両親や周囲の人々にまで迷惑がかかる。
だから、最初から別人になってしまった方がいい、と杏子さんは言う。
「勝手な言い分だとは思いますが、承諾していただけると助かります」
「……はい」
杏子さんの話には筋が通っていた。なら、すべてお願いしてしまった方がいいだろう。
……父さんと母さんに『御尾悠人』として会えなくなるのは寂しいし、申し訳ないけど。
俺の父さんは平凡なサラリーマン、母さんは専業主婦だ。そんな二人を突然わけのわからない騒動に巻き込むよりはずっといいと、自分を納得させる。
そんな俺に杏子さんは黙ったまま、再び頭を下げた。
「……では、こちらでできる手続きは進めさせていただきます。詳しい話はまた後日いたしますね」
「ありがとうございます」
そう返事をするのは精いっぱいだった。
部屋を出ていく杏子さんを、俺は羽々音さんと一緒に見送った。
ばたん、と音を立ててドアが閉じると、場には沈黙が満ちる。
杏子さんが話している時から、羽々音さんは黙ったままだった。きっと責任を感じているんだと思う。なら、それをなんとかしてあげたい。
俺は軽く息を吸うと彼女に言った。
「呪いのせいならさ。羽々音さんのせいじゃないよ」
「……御尾くん」
「だから、そんなに気にしなくていいよ。俺はこうして生きてるわけだし」
ついでに笑顔を作って見せると、少しだけ彼女の顔に笑顔が戻った。
「うん。ありがとう、御尾くん」
それから羽々音さんはおもむろに、俺の身体へと手を伸ばした。
何をされるのかと少しだけどきっとしたが、単に手を取られただけだった。
……いや、それでも十分大事か。肌と肌が直に接触しているわけだから。
「この恩は、一生かけて絶対に返すから」
「……え」
一生、って。
突然の言葉に俺が言葉を紡げずにいると、彼女は恥ずかしそうに顔を背けて立ち上がった。
「それじゃあ、また来るから。ゆっくり休んでね」
「あ、羽々音さん」
声をかけても振り返ってはくれず、羽々音さんはそのまま部屋を出て行った。
「なんだったんだ……」
呆然と呟く。だって、あれじゃあ取りようによっては。
プロポーズ、みたいに聞こえてしまうじゃないか。
なんとなく左胸に手を当ててみると、柔らかな胸越しに心臓の鼓動が早くなっているのが感じられた。
15/11/19 紗羅が一か所「先輩」と表記されていたのを修正しました。




