ささやかな酒宴
二、三人がけのソファの対面に私と華澄が腰かける。紗羅は見慣れない母親の様子に戸惑いながら、杏子さんの隣に腰を下ろした。
テーブルの上には外国語で書かれたワインのボトル。一本は空で、もう一本も半分くらいまで中身が減っていた。ワイングラスは杏子さんが持っているものの他にもう一つ、使われた形跡のある空のグラスが置かれている。
凛々子さんと二人で飲んでたのかな?
「ここ、初めて来ました」
「華澄も、何度か調理酒を取りに来たくらいです」
「お酒を飲むところですからね。私はよく利用していますが、相手が少ないので寂しいのが困りものですね」
と、杏子さん。
なんだか上機嫌な様子で、いつもより表情が柔らかい。
「お母様、飲み過ぎじゃないですか?」
「大丈夫よ。ね、凛々子?」
「そうですねー。限界にはまだ余裕があります」
そうなんだ。
って、限界まで飲む前提なの?
お酒のことはよくわからないけど、ギリギリまで飲み過ぎると気持ち悪くなったり二日酔いになったりするんじゃ?
杏子さん、夕食の時も飲んでたはずだし。
「いいんですよ。このところ忙しかったので、たまには」
「あ、お仕事が一段落したんですね」
「ええ」
頷いて、杏子さんがワイングラスを傾ける。
グラスが空になると手酌でワインを注ぎ始める。お酌くらいした方がいいのかな、と思ったけど、凛々子さんが首を振った。
「お気になさらず。この場は遠慮無用ということで」
「はあ……」
いまいち空気感が飲み込めない。
私たちの困惑を見て取ったのか、凛々子さんは微笑んで、
「皆さんにもお飲み物をご用意致しますね」
「あ、ありがとうございます」
慌ててお礼を言う。華澄は手伝おうと立ち上がりかけたが、座っているよう凛々子さんに言われてソファに座り直していた。
数分後、高そうなグラスが三つとお湯の入ったケトル、それからラベルの張られていない飲み物の瓶がテーブルに並べられた。
それからおつまみとしてチーズにさきいか、柿ピーなどが提供される。
「お酒、じゃないですよね?」
未成年だという以上に、今飲んだら即寝る自信がある。
「飲んでみればわかりますよー」
「凛々子さん。その言い方は怖いんだけど」
「大丈夫です。少なくとも不味くはないはずですから」
いや、余計怖いです。
まあ、この弛緩した空気の中で妙な嫌がらせが発生するとも思えない。凛々子さんが瓶の中身とお湯を注いで混ぜてくれたものへ、私たちは同時に口を付けた。
「あ……甘い」
「これって、蜂蜜?」
「はい、正解ですー」
その飲み物は予想していたのとは違う味だった。
紗羅が呟いた通り、蜂蜜の甘さと香りが漂う不思議な飲み物。お湯で割ったことでしつこすぎず、また身体を温める効果もプラスされている。
……正直、美味しい。
思わずもう一口、二口と続けてしまった。
「ですが、これはやはりお酒ですね」
「え?」
「あら、華澄ちゃんにはわかりますかー」
「ええ?」
華澄と凛々子さんのやり取りに、私と紗羅は驚きの声を上げた。
これもお酒だったんだ。これなら全然気づかずに飲めちゃうけど。
杏子さんがくすりと笑う。
「飲みやすさと即効性を重視した薬酒です。一般の市場には出回らない『本物』の品ですから、効果のほどは保証しますよ」
「本物の、薬酒……って。じゃあこれは魔法の?」
「ええ」
肯定の返事を聞いて、半分くらいに減ったグラスの中身を見つめる。
これが魔法のお酒かあ。
「いくらくらいするのか、って聞いてもいいですか?」
「買ったのではなく作ったものなので、正確な価格はわかりません。七桁には届かないと思いますが」
「七……」
だ、大事に飲もう。
「開けちゃうと保ちませんから、その瓶は飲み切ってくださいねー」
「六桁のお酒を一晩で!?」
……恐ろしい世界すぎる。
凛々子さんまでくすくすと笑い声を漏らす。
「お酒ではありますけど、同時にお薬ですから。疲れた身体にはよく効くと思いますよー」
「そう言われれば……」
飲む前よりも疲労が和らいでいるような。
身体がぽかぽかしているのもお湯の効果だけじゃなく、この薬酒自体にそういう効能が含まれているのかも。
ちびちびと口に含みつつ尋ねてみる。
「いいんですか、こんな効果なもの?」
「ええ。もともとそういう目的で用意しているものですから」
未成年、特に子供に飲ませる意味で蜂蜜味にしているのだという。
確かにこれなら私たちでも美味しく飲める。
もちろん、自作とはいっても高価なのでそう頻繁に振る舞えるものではないらしいが……。
「皆さん頑張っていますから、たまには役得があってもいいでしょう」
「……ありがとうございます」
なんだか気恥ずかしくなりつつもお礼を言った。
紗羅も微笑みながら、けれど困ったように。
「私たちだけじゃ世羅に悪いような気もするけど」
「実は、あの子には似たようなものを何度か振る舞っているんです。あの子の訓練は私が担当ですから」
「ああ、なるほど」
特訓の後のご褒美があっても不思議じゃないよね。
じゃあ遠慮なく、飲み切るつもりで味わおう。もう飲んじゃったし、薬でもあるならノーカンということで。
ついでにおつまみにも手を伸ばす。
「温めたミルクで割っても美味しいと思いますから、そちらもお持ちしますね」
わ、それはもう聞いただけで美味しそうだ。
「……ところで。ちょっと話が戻るんですけど、杏子さんのお仕事ってどういうものなんですか?」
以前に聞いた時は「今は聞かない方がいい」とはぐらかされた。
以来、きちんと尋ねたことはない。分家を束ねているというのと、結構な資産を持っているというのは間違いないと思うんだけど。
杏子さんが頷く。
「概ねその認識で問題ありません。家長である私、および本家の役割は血と知識の継承、そして羽々音に連なる者たちをまとめ、調整することです」
歴史の古い家柄である羽々音家は様々な分野に手を出している。
人に害をなす人外を討伐するハンターのような裏の仕事から、ブライダル系の事業まで内容は多岐にわたっているため、全てを把握し管理する役目を負っているのだという。
その代わり、本家には分家から収入の一部が提供される。
このお金をやりくりするのも杏子さんの仕事。時には同族、一般人に関わらず有望な相手に融資することもある。
「おかげであまり外出する必要はないんですが……電話やメール、手紙ばかりでは息が詰まってしまいます」
「……ですね」
手伝え、ともし言われたとしても、私には向かなさそうな仕事だ。
まる一日、お屋敷の中で文字や数字と睨めっこなんて、息抜きと称して山や公園まで逃げ出したくなりそうだ。
「世羅ちゃんは、大きくなったらそういうことするんですね」
「ええ」
答えた杏子さんもため息を漏らす。
「正直、これを誰かに引き継ぐというのは心苦しいのですが」
「杏子様は不器用なくせに真面目ですからねー」
「凛々子だって、メイドの仕事に慣れるまでは大変だったじゃない」
……そうだったんだ。ちょっと意外だ。
「私も凛々子さんのそんな話、初めて聞いた」
「あら、言ってなかったの?」
「そんな恥ずかしいこと、自分から言うわけないじゃないですかー!」
「そう。ごめんなさい」
悲鳴じみた抗議の声に、杏子さんがくすくすと笑った。
二人のこういう姿は珍しい。普段から仲のいい主従だけど、お互い一線を引いて付き合っている感じがあるし。
プライベートだと、二人のやりとりは単に仲のいい友人、あるいは長年連れ添った恋人みたいだ。
紗羅や華澄と一緒に、興味深く聞いていると――。
こほん、と杏子さんが咳ばらいをして。
「話が逸れましたね。……まあ、そんな訳なので、私がどんな仕事をしているのか、簡単にでも皆さんに聞いておいて頂けるのは良いことだと思うんです」
切なげに細められる瞳に、私は場の空気が変化していくのを感じた。




