緊張の一日
杏子さんたちが言うには、たとえ亜梨子さんを殺しても暗示は解けないらしい。
だから当面、私たちにできるのは、今度こそ最大限に警戒しながら日常を過ごすことだけ、ということだった。
その間、杏子さんたちは亜梨子さんについて調査を進める。ただ、大っぴらに羽々音家を動かせないため、どこまで効果があるかは不明らしい。
「おはよう、紗羅」
翌朝、私は洗面所で紗羅と出会った。
あまり眠れなかったのか少し眠そうではあったものの、彼女の様子はいつもとそれほど変わらないように見えた。
「おはよう、悠奈ちゃん」
……でも、もちろん、内面の痛みを思えば安心はできない。
微笑んで私に手を伸ばし、触れる直前で慌てて引っ込める紗羅を見て強く思った。
朝食の後は予定通り、凛々子さんの車で学園へ登校した。助手席と後部座席に五人も乗るのはかなり窮屈だったけど、なんとかなった。
後部座席で、誰が誰の膝に乗るか軽く揉めたのはまあ、余談として。
「お嬢様、しばらく学校をお休みされても構いませんが……どうされますか?」
「ううん、ちゃんと登校する。受験だってあるんだから、なるべく通わなくちゃ」
「わかりました。でしたら、お屋敷の外では悠奈さんから離れないようにしてくださいね」
「うん」
凛々子さんと紗羅のやり取りを聞いた世羅ちゃんと澪ちゃんが「つまり、いつも通りってことですよね」と混ぜっ返す。それがなんだか嬉しくて、私はついくすりと笑ってしまった。
車を降りて教室に着くまで、特に何事も起こらなかった。
いきなり結界が張られて攻撃される……なんて、そこまで極端なことはないにしても、亜梨子さんが尋ねてくるくらいはあってもおかしくないと思っていたんだけど。
まだ私たちの動向に気づいていないのか、それとも別のタイミングを狙っているのか。
とにかく注意しないと、と思っていると。
「ね、羽々音さんたち、今日は車で来たでしょ?」
クラスメートから思わぬ指摘を受けた。
「う、うん。見てたの?」
「たまたまねー。やっぱりお嬢様なんだね、なんか格好良かった」
「あ、ありがとう」
うわ、結構見られるものなんだなあ。
ちょっと恥ずかしいというか、変な風に反感買わないといいんだけど。
「あ、あと。先に降りた羽々音さんが姫の手を取って降ろさせるのとか感動……」
「わーっ!」
それは本気で恥ずかしいから止めて欲しい。
思わず大きな声を出して遮ると、周囲からもくすくすと笑い声が聞こえた。
紗羅と私は頬を染めたまま顔を見合わせるしかなかった。
……悪い気分ではないんだけどさ。
ホームルーム、午前中の授業も無事に終わった。
移動教室はもちろん、トイレに行くときも紗羅に付いていくようにしてけど、やはり亜梨子さんは現れない。
「羽々音さんって本当に過保護だよねえ」
「う。……私のことまで騎士様とか呼ばないでよ?」
「あ、それいい!」
「悠奈ちゃん、それ藪蛇……」
……釘を刺すつもりで言ったんだけど。
「それじゃあ、私たちは」
「また保健室?」
「ううん。今日は妹たちと一緒に食べるの」
昼休みは「一緒に食べよう」と言ってくれるクラスメートたちを丁重にお断りして、神霊研の部室へ向かった。
部室には華澄、澪ちゃん、世羅ちゃんに亜実ちゃんも集まる。
全員が集まった後、華澄と世羅ちゃんに目くばせをしてみたけど、小さく首を振られた。やっぱり皆も平穏無事だったらしい。
揃っていただきますをして、お弁当を食べた。
「でも、これだけ人数がいるのに、おかず交換できるのが亜実ちゃんとだけ、ってちょっと寂しいですよね」
「むしろ、皆さん一緒だから私だけ変な感じですよ」
「それは気にしなくていいと思うけどなあ」
「それに、澪さん。お弁当に変化をつけようとすると、手間が増えるのは凛々子さんや華澄、澪さんですよ」
「う。それはちょっと嫌かも」
人数が増えたのもあって、朝食とお弁当の用意は華澄たちも手伝ってるもんね。
「いつもありがとう、二人とも」
「うん。本当に助かってる」
「はい。ありがとうございます。澪さん、華澄さん」
「な、なんですか突然」
「華澄たちがしたくてしていることですから、お気になさらないでください」
紗羅や世羅ちゃんと口々にお礼を言うと、二人とも照れたように笑ってくれた。
そっと紗羅を窺う。
和やかな昼食の風景に微笑んでくれている。
……このまま、いつもどおりの日常が戻るといいんだけど。
――でも、事件は放課後に起こってしまった。
「羽々音さん……あ、お姉さんの方ね。ちょっと職員室で話があるんだけど、いいかな?」
「はい、わかりました」
帰りのホームルームの終わり際、紗羅が担任の先生に呼ばれた。
学校の用事なら拒否するわけにもいかないので、素直に頷く紗羅。私も先生と紗羅の後を追うように付いていき、職員室の前で待つことにした。
どっちにしろ、凛々子さんが車を回してくれるまでは帰れないのだ。
華澄と世羅ちゃんには簡単にメールで送り、そのまま待機していると。
「あら、悠奈さん。こんにちは」
黒系統の、露出が殆どない衣服。ヴェールに手袋を付けた、少女のような女性。
亜梨子さんが当たり前のように、職員室前の廊下へと現れた。
……途端に、緊張と怒りで表情が強張る。
駄目だ。まだ、私たちが気づいたことに気づかれていない可能性もあるのだから、できるだけ普通にしていないと。
そう、思うのだけど。
「紗羅さんはお元気ですか?」
言って微笑む彼女の目、ヴェールの奥で一瞬だけ見えたそれが全く笑っていないのを見て、理解した。
『……ふむ。思った以上に面倒な相手だったようじゃな』
どこか苛立たしげな悠華の声。
――うん。この人はもう気づいてる。気づいていて私に尋ねている。
「はい、元気ですよ。……お蔭さまで」
「そうですか。それは良かったです」
……どの口が言うのか。
もういいから、問答無用で火球を叩き込んでしまいたい。そうして紗羅を傷つけられた恨みを、思う存分晴らしてしまいたい。
でも、できない。
人殺しになるのはこの際どうでもいいけど、この人を殺しても紗羅は助からない。それに、杏子さんたちからも止められているから。
そう思ったのだけれど。
「では、わたしは職員室に用がありますので」
「っ。待ってください!」
今、職員室には紗羅がいる。亜梨子さんを中に入れるわけにはいかない。
「何か?」
私を振り返って小首を傾げる亜梨子さんの動作は自然だった。
きっと、この場を見ている人がいれば、焦っている私の方がずっと不審に見えるだろう。
でも、どうにかして止めないと。
「えっと……相談があるんです。大事なことで、できれば早めに」
「そうですか。でしたら、こちらの用を済ませてからお聞きします。すみませんが、保健室で待っていていただけますか?」
出任せの用件で引き留めようとしてみたけど、当然のごとく後回しにされた。
職員室の扉を窺う。紗羅が出てくる気配はまだない。
「あまり時間もありませんので、失礼しますね」
言って亜梨子さんが私から視線を外すのを見て、決意する。
『鬱陶しい。悠奈、無理矢理引き留めてしまえ』
悠華に言われるのが早かったか、動き出すのが早かったか。
自分を中心に、入り口付近に小さな結界を形成。一般人が立ち入れないようにした上で、更に魔力を注ぎ込んで『防音』『不可視』の属性を付与する。
……やったことが殆どないから、うまくいったか不安だけど、要は音の伝わり方と光の屈折率の問題だから、妖狐の力とも相性は悪くないはず。
でも、念のため変身はしないまま亜梨子さんを睨む。と、
「できれば穏便に済ませたいのですけど」
どこまで本気か、亜梨子さんは穏やかに言って足を止め、私を再び振り返った。




