悪魔の傀儡
周囲を見回す。
結界は直径十五メートルくらい。その外は普通に人通りがあって、おそらく人々が私たちの存在に気づきもせずこの場を迂回して歩いているはず。
結界自体はたぶん破れるけど、逃げれば無関係の人を巻き込む危険がある。
私は逃走を諦めて正面を振り返った。
迷っている間に、真夜は慎弥の隣まで移動していた。どうやら肩に乗ったり、胸に抱かれるつもりはないようだが。
「……慎弥も、お父さんたちの形見が欲しいの?」
「いや。まあ、欲しいと言えば欲しいが……無理に奪おうとは思っていない。今の状況はこの女の独断だ」
彼の発言からして、私と円さんの会話はだいたい聞かれていたっぽい。
「じゃあ、真夜が欲しがる理由も検討はつかない?」
「ああ。ただ、多少の知識はある。……その指輪はもともと父が母に贈ったもので、後に父が母から借り受けて研究に使っていたらしい」
物品に力を持たせる試みの一環として、金属部分に細工したり怪しげな儀式を行っていた記録が残っていたそうだ。
おそらく、大粒の宝石というところに魔術的な意味があったのだろう。
真夜はそれを何らかの理由で欲している。
今の彼女は慎弥に魔法を使わせられるらしい。ということは、自分が手を下さず私を害する手段があるということ。
……とはいえ少し腑に落ちない。
「……言い方は悪いけど、素人がしていた実験でしょ? 真夜が欲しがるほどの価値があるの?」
尋ねると、黒猫からはあっさりした返答。
「知らないわよ。その指輪がどれほどのものか、私だってまだ把握してないもの。言うなら、宝箱を開けるような気分かしらね」
「そんな適当な……」
でも、知らないからこそ興味があるのかもしれない。
もしかしたら掘り出し物かもしれないし、大した物でなくても害にはならない。なら、とりあえず手に入れてみようか、的な。
「……それで殺されたらたまらないんだけど」
「ん? ……ああ、貴女、何か勘違いしてない?」
勘違い?
「素直に指輪を渡せば危害は加えないわよ。前に言った通り、貴女のことは結構気に入ってるんだから」
「ああ、私の胸を、ね」
「……何だそれは?」
慎弥が首を傾げるけど、あらためて説明するほどの話でもない。
……でも、どうしよう。
指輪を渡せば見逃してくれる。真夜が言った以上は本心だろうけど、だからって指輪を渡すのは怖い。私にとっては、宝箱というかびっくり箱だ。
なら、戦う?
「戦いを止めてくれ、って慎弥に言っても無駄だよね?」
「……ああ、すまない。さっき結界を張った時も、僕は半ば無意識の状態だった。戦いになった場合も同じだろう」
申し訳なさそうに慎弥が答えてくれた。
それはそうだ。彼が魔女になったのはつい昨日のこと。いくらなんでも自分の意思で魔法なんて使えるわけがない。
となると、真夜が操作する慎弥と一対一。
女悪魔と直接ぶつかるわけではないのは有り難いけど、勝てるかどうかはわからない。正直、勝算は五分といったところか。
なるべく戦いを長引かせて助けを待つ手もあるけど、屋敷からここまでは電車だけで三十分かかっている。持ちこたえていられるか微妙だし、来てくれたとしても援軍は移動で疲労してしまっているはず。
……それに、真夜と結んだ不可侵の契約に華澄は含まれていないので、来てくれても逆効果になりかねない。
――やるしかない、か。
私は鞄から小箱を取り出すとコートのポケットに入れ、鞄を捨てる。そして全身の魔力を高め、妖孤の姿を取った。
お尻に生えた尻尾にショーツが無理矢理ずり下がって鬱陶しい。かといって悠長に脱ぐわけにもいかないので、仕方なく火力を絞った炎で燃やし尽くした。
……割と気に入ってたんだけどなあ。
「貴女が死ねば、契約も切れるわよ」
変身した私を見た黒猫が唇を歪める。
「わかってる。だから絶対、死ぬつもりはないよ」
契約と、残り一回の『願い』は守り切らないといけない。これが無くなったら紗羅や杏子さんたち、そして真昼までが危険に晒されるのだから。
「理解しているならいいわ」
真夜はそう言って、私から離れる方向へ歩いていく。おそらく結界の端と思われる辺りで振り返ると――。
「……ぐ」
「慎弥」
私と向かいあっている少女の様子が変化する。
瞳の輝きが薄くなり、無感情な瞳が私へと向けられる。同時に膨れ上がる魔力に開戦を察する。
「ここはわかりやすくいきましょうか」
開いたのは慎弥の口。けれど、紡がれたのは真夜の声。
慎弥の右手が無造作に上がる。傍らの噴水から水が噴き上がり、少女の周囲に十数本もの水の槍となって滞空する。
「避けたら、結界を突き破って一般人に当たるわよ」
――悠華との戦いで、私がやったのと同じこと。
状況を利用して回避を封じることで防御や迎撃を誘発し、相手の魔力を削ぐ。
やられる前にやるのが一番の対策だけど、慎弥に大きな傷をつけるわけにはいかない。
「……やばいかも」
呟きつつ右手を前に。それを左手で支えると、手首までを覆うように大きな炎を生み出す。
それを待っていたように、水の槍が一本飛んできた。
私は右手の炎から火球を飛び出させてそれを迎撃。両者は空中でぶつかり、お互いに消滅した。
更に二本。これも狙いを定め、立て続けに迎撃。
――悠華と特訓した成果だ。投げる必要がなくなったおかげで撃つスピードが上がったし、精度も安定している。
「ほら。どんどん行くわよ」
そこへ、水の槍が連続して打ち出されてくる。だんだん数と速度を増し、足りなくなれば噴水から補充しながら。
私が翻弄されるのを楽しむように。
……迎撃が間に合わなくなるまでに三、四十発は迎撃できただろうか。
ついに撃ち落としきれなくなった一発が左肩に突き刺さった。
「……っ」
貫通力は、それほどなかった。
浅く貫かれた肩から血が溢れて服を濡らすが、量は多くない。左手もまだ十分動かせる。
ただ、防戦一方じゃどうしようもない。
「慎弥、多少焦げても恨まないでよ……っ」
攻撃しないと駄目だ。
致命傷にならない程度にダメージを与えて動けなくしないと、戦いは終わらない。たぶん慎弥は真夜から魔力を供給されているだろうから、消耗戦も分が悪い。
再び左手で右手を支えながら、小さな火球を連射。胴体の中心はなるべく避けて四肢に当たるように。
防がれるなら、それでもいい。
こっちである程度ペースを作れる分、守っているだけよりはマシだ。
しかし。
「皆が皆、馬鹿正直に付き合ってくれるとは限らないと思わない?」
慎弥は、否、真夜は防ごうとしなかった。
水の槍は打ち出されるものの、それらは全て火球を素通りする。狙いはあくまで私自身。
――慎弥の身体は、どうでもいいのか。
愕然としながら、私は余力を使って槍を迎撃する。
やっぱり全部は撃ち落としきれないので、
「ああ、もう!」
左手にも炎を生み出しながら構えを解除。残った槍を直接叩き落とした。
と、落とした槍の影にもう一本。
「あっ……!」
槍は目前で角度を落とし、コートを掠めて地面に刺さり、潰れた。かわせたことに一瞬、安堵する私だったが――。
切り裂かれたポケットから小箱が転がり出たのを見て、息を飲んだ。
慌てて拾おうとすると、間の地面に水の槍が何本も突き刺さって行く手を阻む。その間に、まるで触手のように伸びた水が箱を掴んで引き寄せた。
……駄目!
無造作に封印が解かれ、中身が露わになった。
箱の内側にはお札のようなものがびっしり張り巡らされ、そのうえで一つの指輪が収められていた。
慎弥が手を伸ばす。
先程の火球は命中し胸に火傷を作っていたが、魔法ですぐに治癒されてしまう。
『魔女』の手が触れるとお札はみるみるうちに焦げて文字を失った。
「へえ」
濃紅の輝き。
ガーネットの指輪を眺めた真夜が、楽しげな声を上げた。




