プロローグ
年明けからの三週間はあっという間だった。
元日、私たちは御尾家のお節を堪能――主に私と紗羅が――したあと、慌ただしく羽々音の屋敷へ戻った。
「お帰りなさい!」
世羅ちゃんに抱き着かれ、真昼からは「どうしてそうなった」と言いたげな視線を向けられ、杏子さんからは心配をかけたことへのお叱り代わりにでこぴんを貰って、自室に戻った。
――帰ってきた。
もう、悠奈として訪れることはないと思っていた部屋に足を踏み入れると、途端に言いようのない思いが胸から溢れた。
後から後から、泣きそうになるくらい。
私、こんなに涙もろかったっけ。
悠奈として過ごした二か月間も滅多に泣かなかったと思うのだけど、心から「女の自分」を認めたことで、感情の機微にも影響が出ているのか。
「……ん、よし」
数分間、こみ上げる思いをいっぱいに噛みしめてから、服を着替えた。
裸になってクローゼットを開け、ブラとショーツ、服をたっぷり悩んでから選び取る。気分的に白の下着に、同じく白いワンピースを選んだ。
髪を軽く手で整えたら櫛を通し、鏡でチェック。全身問題無いことを確認の上、スキンケアに毛が生えたような化粧を施した。
……どうしよう、楽しい。
うきうきしながら着替えを終えたら食堂に移動。
悠華を紹介したり、田舎での出来事を話したり、記憶喪失で迷惑をかけたお詫びをしたり、皆との会話に花を咲かせた。
お屋敷のお正月料理は準備の都合で翌日に回され、その日は焼き餅やお雑煮をいただきつつ、いろいろなことを話して過ごした。
なお、真夜はいつも通り、気づいたらいなくなっていた。あの女悪魔のことだから、どうせそのうちまた顔を出すだろう。
また、私が悠奈へ戻った影響は、もちろんいいことばかりではなかった。
年末に手を付けられなかった冬休みの宿題、クラスメートや澪ちゃんたちへのメール返信、あけおメールの送信、更には今度の身の振り方の相談(羽々音家で過ごすのか、母さんたちの家に『居候』するのか)など、やることは山積みで、私は目を回しそうになりながら一つ一つをこなした。
おかげで、紗羅とゆっくりする時間があまり取れなかったのはちょっと不満だ。
ただ、それでも夜の儀式だけは絶対に欠かさなかったけど。
皆への連絡といえば、慎弥への連絡はちょっとだけ大変だった。
何しろ、彼にだけは「男に戻った」ことを伝えていた。「期待しないでおく」という言葉通り、慎弥は外部に漏らさないでくれていたけれど……年明けに再度連絡した際は、さすがにびっくりされた。
『はあ!? 結局女に戻っただと?』
「ちょ、ちょっと慎弥。今の声、澪ちゃんに聞かれてないよね?」
彼の妹であり私の後輩でもある澪ちゃんは、私が男子高校生『御尾悠人』だったという事実を知らない。
彼女に知られるのは避けたい私は、真っ先にそこを心配してしまった。
『ああ、問題ない。それより、どういうことだ? 期待しないでおくとは言ったが、本当にこうなるのは予想外だぞ』
「あはは……本当にごめん。こみいった話だから詳しくは教えられないんだけど……とにかく、もう、私は男に戻るつもりはないよ」
『……そう、か』
息を吐く音。
慎弥は「まあ、それもいいかもしれないな」と小さく呟いた。寂しそうなその声に、もう一度ごめんと謝る。
『気にするな。男だろうと女だろうと大した違いはない。その方が澪も喜ぶだろうしな』
「……ん。澪ちゃんとまた部活ができるのは私も嬉しいよ」
『あいつの話を聞き続けられる人材も希少だからな』
……いい奴だなあ。
慎弥と雑談を続けながら、私はあらためてそう思った。
「悠奈先輩、紗羅先輩っ」
澪ちゃんとは三学期の始業式で再会した。廊下で声をかけられ、紗羅と一緒に振り返ると、駆け寄ってきた彼女がにこりと笑った。
「こんにちは。もう、去年最後に意味ありげだったから心配したじゃないですか」
「あはは。そうだっけ? ごめんごめん」
「むー。……って、悠奈先輩、ちょっと雰囲気変わりました?」
「そう?」
こちらをじっと見つめてくる彼女に首を傾げると、
「はい、ちょっと女の子らしくなった感じが」
「それは、前まで女の子らしくなかったってこと?」
「いえ、そういうわけでは……ないですよ?」
……なんて。
澪ちゃんとはその後二、三言話して別れたけど、彼女に言われたことが少しだけ引っ掛かった。
なので、その日の夕食で口に出してみたところ、紗羅や凛々子さんから頷かれた。
「うん。仕草や言葉遣いはすごく頑張ってたけど、雰囲気はそうだったかも」
「そうですねー。意識の問題ですから、直していただくのも難しいですし」
これまでの私には「自分は男だ」という意識があったから、細かい部分が雑というか男性的になっていたらしい。
そもそも私の立ち居振る舞いはほんの数日で叩き込んだ付け焼刃、女の子をしていた期間全体で見ても二か月程度でしかなかったわけで。荒い部分とか至らない点があるのは仕方がない。
でも、それが少し改善された。
……うん。
「もう一度、最初の頃に凛々子さんたちから教わったこと、いろいろ思い返してみようかな」
「ええ。私たちももちろんお手伝いしますよー」
それからの日常生活では極力、クラスメートや紗羅、それから羽々音家の面々など、身近な女性たちの振る舞いを観察するようにしている。
前にも似たようなことはしていた……はずなのだが、いざやってみると気づいていなかったこと、真似できているつもりだったことがいくつも見つかった。これも心境の変化によるもの、だといいけど、単に勉強不足な気も。
満足いく振る舞いができるには年単位で時間がかかるんじゃないだろうか。
「馬鹿を言うな。一生、死ぬまで勉強に決まっておろう。男でも女でも、いい人間になろうとすればそれだけの時間がかかる」
「……そっか。思った以上に大変だ」
悠華には杏子さんたちに代わって私の特訓役をお願いした。何しろ私のご先祖様だ。力の性質も似通っているので、指導をしてもらいやすい。
付近に私と紗羅、華澄の三人が揃っていないと狐もしくは精神体になる性質上、彼女が自由に振るえる力がほぼ無くなっていることもあって、貞操の心配がないのも嬉しい。
それから、私の生活環境について。
母さんも交えて話し合った結果、月曜日と火曜日だけ家に帰ることになった。
制服は学校から着て帰ればいいし、教科書類もなるべく学校に置くようにすれば問題ない。私と紗羅が分かれる場合、悠華は基本的に私についてくる。
ついでに私の設定も微妙に修正された。
以前、御尾と羽々音の分家の間に生まれた子がいて、私はその子孫ということに。だから、天使の力はないものの、隔世遺伝により妖狐の血を発現している、と。
無理矢理な裏設定だけど、なにせ御尾家の人間が味方だ。
いくらでも口裏を合わられるし、そもそも深く詮索したがる人間がいないのだった。
「あれ? そういえば、これから悠華は学校にもついてくるの?」
「それしかなかろう。悠奈と紗羅に二人とも離れられたら、わらわは魔力の供給が受けられん」
幸い、精神体になれば私と紗羅以外から見えなくなる。授業の間はできるだけ大人しくしていてもらうことで手を打った。
なお、華澄は無事、清華の転入試験に合格した。実際に転校は二月頭で、越してきてからは、私と同じサイクルで私の家と羽々音家を行き来する。
まだまだ、私の新しい生活は始まったばかり。
でも、とりあえず出だしは順調。二日間一緒にいられない分、紗羅とは日曜日にゆっくり過ごすようにしたし、家の行き来もなんとかなっている。
父さんも女になった私にすぐ馴染んでくれた。というか、念願の娘ができたと泣いて喜んでいた。元、息子としてはほっとしていいのか悪いのか。まあ、敢えて場を和ませてくれているのだと思うけど。たぶん。
と、そんな矢先。
私のもとへかかってきた一本の電話から、新しい事件が始まった。
『すまん、悠奈。しばらくの間、僕の恋人役をやってくれないか』
……一体、慎弥に何があったんだろう。




