うたがい
あっという間に数日が過ぎて日曜になった。
その間も、昼は女の子のレッスンを受け夜は紗羅と悪魔についての相談を続けた。そこに部屋や身の回りのあれこれが加わり、結構忙しい毎日だった。
凛々子さんからは、スカートでしゃがんだり椅子に座る動作。階段を上り下りする動作に、風が吹いた時の対処方法、ポケットではなくバッグからハンカチ等を取り出す仕草などを教え込まれた。
紗羅のレッスンはだんだん「練習」ではなく「日常的な雑談」に近いものになっていった。あれこれ取り止めのない会話を続けつつ、気を抜いた俺が男言葉を使うと即座に駄目出しが入る。
でも、おかげで少しは仕草や話し方が身に付いた気がする。周囲が女性ばかりの環境も追い風になっていたし。
一方、夜の相談はさほど進展していない。悪魔を見つける方法についていい案が見つからないので、会った後の対処について詰めるしかなかったからだ。
結果、行われたのは昼のレッスンと大差ない事。要は会話と駄目出しだった。
「悪魔は嘘をつかないけど、それは人を騙さないってことじゃないの。例えば、質問されても『無視する』ことはできるし、『話題を逸らして有耶無耶にする』こともできるの。後は『真実を伝えるけど部分的にしか伝えなかったり、伝え方を工夫して相手を誘導する』とか」
「何だそれ。性質悪すぎるだろ」
「悪魔だもの。……だから、悠奈ちゃんにも少しでも、そういうのに慣れて欲しいの」
ということで、紗羅の意図的な誘導に気づけるか、というテストをしたのだった。正直、紗羅に向いているとは思えない訓練だったが、「他の人にお願いするわけにはいかないから」ということで毎日続けられた。
……基本的な会話の内容は、事前に紗羅が一生懸命考えてくれているとのことで、本当に頭が下がった。
そんなこんなで、明日からは紗羅は再び高校に通い始める。俺の転校は当初の予定通りまだかかるとのことなので、しばらくは紗羅と一緒にいられる時間が減るし、紗羅も新しい生活に慣れるので忙しくなる。
俺も、自分でできることは頑張らないとな。
「清華の制服はどうかな? 今までのとはちょっと違うけど」
「う、うん。良く似合ってると思う」
「ありがとう、悠奈ちゃん」
新しい学校の制服――若干古風なブレザーを見せてもらいながら、俺はそう思った。
そしてその日の夜。
今日も紗羅との相談を終えた俺が就寝前にぼんやりベッドに腰かけていた時、コツコツと窓の方から音がした。
「なんだ?」
近寄ってみると、夜闇にぼんやりと浮かび上がる黒い影。そして小さな鳴き声。
なんだ、猫か。
どうやら黒猫のようで、ほんのり青い目だけが宙に浮いて見えちょっと不気味だった。しかし、俺は割と動物好きだったりする。特に好きなのはふさふさした毛並みなので、どっちかというと犬派だが。
こんなところにも野良猫って来るんだな。確かに猫なら門も簡単に越えられるだろうけど。
にゃーお。
と、再び黒猫が声を上げる。
「なんだ、入れてほしいのか?」
窓越しに尋ねると、まるで返事をするようにこつこつと窓を叩く。
う、そういう仕草をされると弱いんだよな……。あんまり野良を部屋の中に入れるのは良くないんだろうけど。
この部屋だけなら大丈夫かな。
「ちょっと待ってろよ」
そう呼びかけつつ、俺は窓を開けてやった。途端、黒猫はジャンプして俺の肩に飛び乗ってくる。
「人懐っこいな、お前」
すりすりと頬を摺り寄せてくるので、喉をなでてやると気持ちよさそうにする。と、こいつ首輪が付いてるな。それに鈴も。じゃあ、どこかの飼い猫なのか。
「道にでも迷ったのか?」
にゃーお。
「うん、わからん」
猫相手では会話になるはずもなく。俺はどうしたものかと首を傾げた。とりあえず、ある程度人には慣れているみたいだから、そうそう部屋を荒らされはしないだろうが。
もし家から脱走してきたのなら帰してやった方がいいような。
思って黒猫を見るも、そいつはなおも俺にすり寄るばかり。
「……ま、いいか。窓開けとけば勝手に帰るかもしれないし」
少しだけ窓を開けたまま、俺は眠りにつくことにした。小さい明かりだけを付け、黒猫を連れてベッドへ。慣れたもので、そいつは俺の枕元へ陣取ると丸くなる。
いい子だなー。黒猫ってのが若干不吉だけど。
「おやすみ」
にゃーお、という返事を聞きながら目を閉じ、眠りに落ちる。
微睡の中で、俺はちりん、という鈴の音をかすかに聞いた。
* * *
気づくと俺は見知らぬ部屋にいた。
五メートル四方程度の、正方形の部屋。その中央に俺は座っていて、足にはそれぞれ枷が嵌められ、丸い鉄球付きの鎖が繋がっている。
そして、足元には魔法陣。紅いインクで描かれた五芒星があった。
――そうか、これは夢か。
あまりの現実感の無さから、俺は瞬時に理解する。
「何、笑ってるの?」
そこへ、頭上から嘲るような声が響いた。
顔を上げると、そこには妖艶な姿をした少女。蝙蝠の翼と細い尻尾、闇色の髪と瞳を持ち、肌も露わな衣装に身を包んだ紗羅がいた。
「紗羅……?」
「そうだよ、悠奈ちゃん。ううん、御尾くん」
くすりと、楽しそうに紗羅が笑う。いつもの彼女とは全く違う女王様然とした態度に俺は苦笑した。
すると――突然、全身に電流を流されたような痛みが走り、すぐに消えた。
「何を笑っているの?」
冷たい問いかけ。魔法陣の外から紗羅が俺を見下ろしている。
――たとえ夢でも、こんな光景を見るなんてどうかしてる、と思っただけだよ。
などと、さすがに声を出しては言えなかったが。
代わりに、この夢がどういう方向に向かうのかと、俺は紗羅に問いかけてみる。
「俺は、どうなるんだ?」
「御尾くんは死ぬんだよ。私のための糧になって、ね」
「糧?」
「そう。今の貴方は女の子になりたて。これ以上ないくらい、まっさらな状態の乙女。その身体と魂を私のものにするの」
魂を糧にするって、まるで悪魔みたいだな。
悪魔。……ああ、そうか。最近悪魔だの呪いだの、そんな事ばかり考えていたからこんな夢を見るのか。
思った俺の身体に再び、先ほどと同じ痛み。しかし今度はすぐには消えない。それどころか、だんだんと強くなっていく。
痛みで呼吸すらできなくなる中、紗羅の声が聞こえてくる。
「おかしいと思わなかったの? ある日突然、女の子になんかされて。悪魔とか呪いとか、適当な説明で煙に巻かれて。証明する術もなく屋敷での生活を余儀なくされて」
――何を、言って。
「当の私たちが悪魔だって可能性、考えなかったの?」
それを最後に視界が暗転し、目が覚めると朝だった。
* * *
「夢、だよな……」
薄く目を開き、寝転んだまま右手を眼前にかざす。だんだん見慣れてきた少女の手が変わらずそこにあった。
黒猫は……いない。寝ている間に帰っていったらしい。
一抹の寂しさを感じつつ、俺は床やベッドに何本か落ちている黒い毛を掃除した。
しかし、嫌な夢だった。
紗羅が悪魔で、俺を騙していた。そして、正体を現した紗羅によって痛みつけられ、罵られる夢。
あれが俺の願望、あるいは何らかの暗示でないことを願うが。
『おかしいと思わなかったの? ある日突然、女の子になんかされて。悪魔とか呪いとか、適当な説明で煙に巻かれて。証明する術もなく屋敷での生活を余儀なくされて』
妙にはっきりと思い出せる夢の中の声を、脳内で何度も再生する。
おかしいと思わないのか……か。
確かに、あまり考えたことはなかった。俺に衣食住を与えてくれ、優しくしてくれるこの家の人達が、俺を騙しているなんてことは。
もしあの夢、それ自体は単なる夢で、何の意味もなかったとしても。
『当の私たちが悪魔だって可能性、考えなかったの?』
あらためて、あらゆる可能性を考えてみる必要はあるのかもしれない。
そのためにはどうするべきか。
俺はしばし一人で考え、やがてあるプランを思いついた。