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プロローグ

 朦朧とする意識の中で思い出す。

 俺が、俺としていられた最後の記憶を。


 *   *   *


 クラスメートの羽々音(はばね) 紗羅(さら)は、誰もが認める美少女だ。

 しっとり濡れた深い色の瞳に、緩やかなウェーブを描く長い髪。豊かな胸やお尻と、対照的に細い腰。独特の愁いを帯びた雰囲気も相まって多くの者を惹きつける。

 当然、憧れる者も多かったが――羽々音さんは彼らの告白すべてを断っていた。


「ごめんなさい。私、誰とも付き合う気はないの」


 誰も手に入れられず、なのに諦めきれない。

 彼女はまさに高嶺の花だった。


 それは俺――御尾(みお) 悠人(ゆうと)にとっても同じで。

 だから、十一月の最初の金曜。二学期の中間テスト最終日。

 俺は遂に、羽々音さんへ告白し――きっぱりと振られた。


「だから、御尾くんとは付き合えません」


 放課後、校舎の最上階――しっかり施錠された屋上の入り口前。

 羽々音さんは申し訳なさそうに、けれどはっきり俺に告げ、深く頭を下げた。

 それを見て俺は頷き、そっとため息をつく。


「……そっか」


 やっぱり、駄目だった。

 わかっていたことだった。これまで無数の相手を振ってきた彼女から色よい返事をもらえる可能性が限りなくゼロに近いことは。

 だから、そこまで大きなショックは受けなかった。

 たぶん、帰宅してから数時間、地の底まで落ち込む程度で立ち直れるだろう。

 ……辛いなあ。


「本当にごめんなさい。御尾くんの気持ちは嬉しいんだけど」

「いや、羽々音さんは悪くないよ」


 落ち込みを見破られたのか、羽々音さんにもう一度謝られてしまった俺は慌てて笑顔を作った。

 そう。どんなに辛くても、彼女が悪いわけじゃない。

 これ見よがしに落胆したり、当たり散らしたりするわけにはいかない。

 そう胸の内で考えながら、俺はふと思った。


 ――羽々音さんは今までずっと、こうやって一人一人の告白を断ってきたのだろうか。だとしたら、それだけで結構な精神的負担になっただろうな、と。

 そんな事、俺が言うべきじゃないのだろうけど。


「……そうだ。一つだけ、聞いてもいいかな?」

「うん。どんなこと……?」

「羽々音さんが誰とも付き合わないのは、学校外に恋人がいるから?」


 代わりに尋ねたのは、以前から疑問に思っていたことだった。

 あんな美人に恋人がいないはずない。他にもう恋人がいて、それを学校では隠しているだけだ――ファンの間では有力な仮説。

 それが正しいのかどうか、きっとこんな機会でもなければ確かめられない。


「ううん。言葉通り……私は本当に、誰とも付き合うつもりがないの」


 果たして、羽々音さんはそう答えた。


 ――正直、意外だった。

 確かにその可能性はあった。恋愛自体に興味がないとか、実は男性恐怖症なのだとか、家のしきたりで交際を禁じられているとか、無数の仮説も立てられていた。

 だけど、俺はあまり信じていなかったのだ。


 羽々音さんはいつも、どこか寂しそうに見えたから。

 もし、本当に誰とも付き合わないのだとしたら、なんだか悲しい気がして、信じたくなかったのだ。


「どうして? 羽々音さんを好きになってくれる人は沢山いるのに」


 彼女に告白してきた多くの人達。年齢も性別も、容姿もばらばらだけど、彼らはみんな真剣だったと思う。中には、彼女を本当の笑顔にしてくれる人がいたかもしれない。


「……ごめん、お節介だった。そんなの、羽々音さんの勝手だよね」

「ううん」


 言ってから失言だと気づき、すぐに撤回する。しかし意外にも羽々音さんは首を振った。ただし、やや俯きがちになりながらではあったが。

 それから彼女は顔を上げ、迷うように視線を宙に彷徨わせながら口を開く。


「……私はね、誰とも付き合っちゃいけないの。私と両想いになった人は、絶対に幸せになれないから」

「……絶対?」

「そう、絶対」


 とても嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 家庭の事情か、先輩自身の問題なのか、あるいはもっと別の何かなのか。そこまではわからないけれど、少なくとも彼女がそう信じていることはわかった。

 だから俺も彼女の言葉は疑わない。ただ、


「羽々音さんはそれでいいの?」

「……良くはないよ。でも、仕方ないの。これは決まっていることだから」


 仕方ないって。そんなの寂しすぎやしないか。

 だから、羽々音さんは笑わないのか。複雑な事情を抱えながら、気を許せる恋人を作ることさえ許されないから。

 俺は何と言っていいかわからず、思わず顔を伏せた。

 すると羽々音さんがかすかな笑みをこぼした。


「御尾くんは優しいんだね」

「そんなんじゃ……」

「ねえ、御尾くん。最後だから、良かったら少し付き合ってくれないかな」


 顔を上げると、そこには儚げな彼女の笑顔があった。

 羽々音さんが「付き合ってほしい」と言ったのは、つまり下校時のパートナーのことだった。途中で寄り道もしない、ただ一緒に雑談しながら帰るだけ。

 それでも俺にとっては初めての経験なので、すぐさま了承したのだけれど。何故、急にそんなことを言い出したのかは「最後」というフレーズの意味を聞いてわかった。


「実はね。家の都合で、私は今日限りで別の学校に転校するの」

「……それ、本当に?」

「うん。都内の女子校にね。遠くはないけど……皆とはほとんど会えなくなるかな」


 事前に公表すると騒ぎになるから、今まで情報を伏せていたらしい。

 最後の最後で御尾くんに告白されるなんて思わなかったけど、と、彼女は悪戯っぽく付け加えた。

 転校。

 羽々音さんがこの学校からいなくなるなんて急に聞かされ、俺は動揺してしまう。

 けれど羽々音さんはそんな俺に言ったのだった。


「ごめんね。できれば最後は、楽しい話がしたいな」


 だから、俺たちは努めて明るい話題を選んで話した。

 学校行事での出来事や、授業でのこと、学食や購買のメニューのことなど。共通の話題となると学校のことばかりだったが、羽々音さんは楽しそうにしてくれた。

 きっと、今の学校が好きだったのだろう。

 だとしたら転校は辛いだろうに、なるべく表に出さないようにしている。そう思うと胸が切なくなる。


 ――ああ。やっぱり俺はこの子が好きなのだ。


 あらためてそう実感する。しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


「ここまでだね」

「……うん」


 互いの家の中間地点に差し掛かると、俺たちはそこで別れることになった。


「ありがとう、御尾くん。最後に楽しかったよ」

「少しでも役に立てたなら、良かった。その、羽々音さん」

「……うん」

「元気で。いつか、幸せな恋ができるといいね」


 最後の台詞は言おうか迷った。けれど結局言うことにした。

 最後になるのなら、せめて後悔しないように全部言った方がいい。そう思ったからだ。


「……ぁ。うん」


 幸い、俺の言葉を羽々音さんは怒らずに受け取ってくれた。

 びっくりしたような顔をした後、深く頷く。

 そして彼女は、俺が今まで見た中で一番の笑顔を浮かべると「さようなら」を告げ、くるりと身を翻した。


 信号が青なのを確認しながら、交差点の横断歩道をゆっくりと渡っていく。

 俺はそれを最後まで見送ろうとして、辛くなり視線を外した。


 そこに、ちりん、と小さな鈴の音が聞こえた。

 たぶん猫か何かが通りかかっただけだったのだろう。けれど、思考の間隙を突かれた俺は何となく気になり、もう一度羽々音さんの方を振り返った。

 そこで、気づいた。道路の向こうから交差点へ向け高速で走るトラックに。


 止まる気配はない。このままいけば彼女にぶつかる。


「羽々音さん!」

「……え?」


 慌てて声を上げると、彼女は立ち止まってこっちを振り返った。

 違う、そうじゃない。そこにいたら大変な事になるんだ。


「危ない!」


 叫びながら、俺は羽々音さんに向けて走り出した。何ができるかわからないが、居てもたってもいられない。既に間に合うかどうかぎりぎりのタイミングだった。

 そこで羽々音さんもようやくトラックに気づいたようだったが、咄嗟のことに足がすくんだのか動けずにいる。

 ほんの数歩でいい。こっちに下がってくれればぶつからずに済むのに。


 羽々音さん――!


 その瞬間、俺の頭の中には何もなかった。

 ただ夢中だっただけ。ドラマみたいな自己犠牲をしようとか、羽々音さんに感謝されようとか、そんなことを考える余裕はなかった。

 駆け寄りざま彼女の身体を引っ張り、トラックの進路から引きずり出すのが精いっぱい。

 だから、代わりに自分の身体が前に出てしまったのはどうしようもなかった。


 刹那、衝撃と共に視界は暗転し、思考はかき乱れた。

 全身には痛みが走り、そのせいか以降の記憶はひどく曖昧だ。

 ただ、動くことさえままならない中で誰かの声を聞いた気がする。


「ごめんなさい……私のせいで」


 羽々音さん……? 良かった、無事だった。

 思ううち、頬に温かな水滴が落ち、唇に柔らかなものがそっと触れた。


 それが何だったのか、明確にはわからないまま。

 俺の意識は完全に途切れた。


 そして、次に目を覚ました時には、俺は俺ではなくなっていた。

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