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おばの手帳

作者: 石原正三
掲載日:2014/10/06

1.叔母の平屋









朝から降っていた雪は結局、積もることもなく止んでしまった。しかし県境にそびえる山々から吹き降ろす風は強くて冷たかった。雅樹はスーツの襟を立てると、吹き付ける風に目を細めた。春の足音は遠く寒さの続く2月の山々は頂上付近に雪を残し、ふもとの港町まで、肌に突き刺さるような冷たい風を届けていた。


「ほら!雅樹!ボーッとしてないで手伝ってよ!」


 古い平屋の玄関から、雅樹の母である結衣が手を振りながら大きな声を出した。雪の止んだ冬空は快晴に恵まれ、時折吹きつける冷たい風を除けば、とても空気が澄んで気持ちよかった。

雅樹は結衣に背を向けると「悪い村本、また掛けなおすよ。」と会社の後輩で設計部の村本に告げて電話を切った。


 雅樹が半開きになっていた玄関の引戸を最後まで開けて中へ入ろうとすると、「あっ!」と言う結衣の声が玄関に響き渡った。昔ながらの玄関の低さに頭をぶつけそうになった雅樹が、間一髪のところ頭を下げたのだった。「おっしい~!」と結衣は笑いながら、奥の部屋へと消えていった。雅樹は振り返って引戸を見上げると「危ね~」と呟いて革靴を脱ぎ、住宅営業での訪問の癖もあって、行儀良く玄関に膝をつくと革靴をきちんと並べて中へ入った。

 雅樹は薄暗い廊下の床に滑る感覚を覚えながら奥へと進んで行った。のれんの掛かった台所に頭を下げながら通り抜けてリビングまで行くと、そこには家族が集まって何やら話し込んでいる様子だった。

 

築30年を超えるこの平屋は、雅樹の父親であるしげるの妹で、叔母の吉本好美よしみが生前暮らしていた住まいだった。

叔母は先月の1月20日に市内の中心部にある市民病院で亡くなり、先日初七日の法要が終わったばかりだった。

 65歳だった叔母は、スキルス性の胃がんの術後に肺梗塞を併発して帰らぬ人となった。生命保険の営業を生涯現役で終えた叔母は、とても明るく元気な人だった。だから入院から3ヶ月も経たないうちに亡くなった現実を、親戚の雅樹達は受け入れるのにとても時間が掛かった。

 生涯独身だった叔母はこの平屋に一人暮らしだったので、今日は叔母の兄である茂の家族が遺品の整理に集まったのだった。


「お、雅樹ちょうどよかった。」


 寒そうに両手をさすりながらリビングに入ってきた雅樹に、ソファーに座った茂は顔を見上げて言うと「ここに座りなさい」と目の前のソファーを指差した。

 雅樹が座るとエアコンからの温かい風が身体に当たるのが分かった。ソファーはガラスのテーブルを囲むように4つ置いてあり、そこには茂の他に雅樹の実の兄である宗孝夫婦が座っていた。

「お~い!お母さんもおいで!」と茂が言うと、雅樹は立てていたスーツの襟を戻した。

 

「どうだ雅樹、ここの家を継いでみないか」


 母親の結衣が座ると、茂は両肘をひざについておもむろに話しを始めた。「え…」と寝耳に水の雅樹は驚いて茂を見た。


「確かに少し古いが、まだまだ住める。亡くなった好美叔母さんには家族がいないだろ。だから家を継ぐ人間がいないんだ。もちろん売りに出すことは出来るが、他人の手に渡るよりも、きっと好美叔母さんは雅樹に住んでもらいたいと思うんだ。」


 茂の隣で結衣は頷きながら話しを聞いていた。すると「俺もその方がいいと思うよ。」と、離れて座る兄の宗孝が言った。


 「確かに…ね。」はじめは驚いて遠慮した雅樹だったが、兄夫婦の姿を見て「なるほど」と思った。現在、雅樹が住んでいる家には、雅樹の他に父の茂と母の結衣、それに兄の宗孝夫婦が住んでいたが、玄関が二つある二世帯住宅になっていた。1階と2階が完全に分かれており、1階には雅樹家族が、2階には兄夫婦である宗孝とひかりが住んでいた。

 まだ子供のいない兄夫婦だったが、将来のことを考えると雅樹は出て行くべきなので、この叔母さんの平屋は打ってつけの存在のように感じられた。


「そうだね、みんながいいなら俺が継ぐよ。」


 決心したというより空気を読んだ雅樹は、家族全員の顔を見渡しながら言った。すると「もちろんだよ、古くて大変かもしれないが、雅樹が継いでくれるなら、きっと好美叔母さんも喜んでくれる。」と茂が言い、兄の宗孝は「ごめんな雅樹。」と雅樹の心情を察したかのように声を掛けた。


 「それじゃ…さ。」雅樹は立ち上がると「もう片付けはいいよ。」と言った。


「叔母さんの家具もそのまま俺が使うし、洋服や下着なんかはもう全部片付け終わったんだしさ、後は俺が少しずつ整理するから…もういいよ。」


本音を言うと兄の宗孝が結婚して同居が始まって依頼、雅樹は実家に住むことに窮屈さも感じていた。叔母の家を継ぐことを予想していなかったので始めは驚いたが、継ぐと決まったのであれば早く一人になりたかった。それはもしかしたら、雅樹は家族から「追い出された」というような感覚を無意識のうちに感じていたのかもしれなかった。


 

雅樹は地元の大学を卒業後に地元の住宅会社の営業職に就いて、もう5年目になる。雅樹には大学に通っていた頃から長く付き合っていた彼女がいたのだが、大学を卒業してお互いが就職すると、それぞれの時間が合わないことなどからすれ違いになることが増え、3年前に別れたのだった。


 週に一回水曜が休みだったのだが、営業という仕事上、顧客からの呼び出しがあれば休日であっても出て行かなければならなかった。そのため休日にも予定を入れることは殆んどなく、休日の大半を家で過ごす生活を送っていた。



 暖房の入った乾燥したリビングで、兄嫁のひかりが買ってきた弁当をみんなで食べると、先に家族は帰り支度を始めた。玄関で「少し片付けてから帰るから。」と言って家族を見送った雅樹は、家の鍵を預かってリビングに戻るとソファーに腰掛けた。夕方にはまた会社に戻らなければならなかったことを思い出すと、大きなため息をついて腕時計を見た。暖房に暑さを感じた雅樹は立ち上がり、上着を脱ぐと台所の椅子の背もたれに掛けた。すると雅樹は台所で、去年の11月24日で止まった日めくりのカレンダーに目が留まった。「叔母さん…。」そう呟くと、雅樹は叔母が入院した日のことを思い出した。


 

 もうすぐ12月というのが嘘のように温かい11月の下旬、雅樹は街の中心部にある大きな「市民病院」に着くとナースステーションへ行き、叔母さんの部屋を聞いた。看護師が指差す部屋へ行くために、病院の廊下を歩くと内科独特の匂いがしたことを覚えている。そして「吉本好美」と書かれた個室のドアをノックすると、中から叔母の声が聞こえた。


 「好美叔母さん、大丈夫?」と雅樹が言うと、「もう、大袈裟なんだよ雅樹は!」と言って叔母は笑っていた。


 「ちょっと胃が痛かったから、この際泊りがけで検査を受けることにしたのよ。」

叔母は布団から身体を起こすと、心配する雅樹をヨソに元気に話してみせた。

 「それならいいんだけどさ。」雅樹は1階の売店で買った女性週刊誌を叔母に渡すと、パイプ椅子を開いて腰掛けた。


 幼い頃から、家族同然に接してきた雅樹にとって叔母は第二の母親の様であった。時には良き理解者でもあった叔母は、同じ営業職の雅樹の相談にいつも乗っていた。叔母が緊急入院したと聞いて慌てて来た雅樹だったが、叔母の元気な様子を見て安心した入院初日であった。しかし雅樹の安堵とは裏腹に、それから叔母が退院することは最後までなかった。




 気が付くと雅樹はソファーの上で眠っていた。いつの間にか台所の椅子に掛けたはずのスーツの上着が横になった雅樹の胸元に掛けてあった。横になったまま上着を見詰めた雅樹は、自分で上着を掛けたのか思い出せず不思議な感覚を覚えた。


携帯を見ると営業の田端課長や設計部の村本からの着信が残っていた。そしてようやく仕事のことを思い出した雅樹は、慌てて起きて時計を見ると、もう夕方の6時だった。「やっばい!」と声を上げて暖房を消すと、雅樹は上着を着て玄関を出た。すっかり暗くなった外の様子を見て慌てる雅樹だったが、玄関の引戸の鍵が上手く掛からず、雅樹は思わず「も~!叔母さん!」と声が漏れてしまった。









2.叔母のメモリ









 叔母の家に家族が集まってから、もう2週間が過ぎようとしていた。信号待ちで車内に流れる音楽を聴きながら、ハンドルに置いた雅樹の右手は指を軽快に動かしてリズムを取っていた。予想外の渋滞の中で時計を見ると、もう23時を回っていた。

予定よりも30分ほど遅れて、雅樹は実家に立ち寄った。そして雅樹は最後の荷物となるダンボールを自分の部屋から持ち出して会社のライトバンに積み込んだ。

「それじゃ、ね。」と運転席の窓を開けた雅樹が言うと、母親の結衣は「夕飯ぐらい食べていけばいいのに。」と濡れた手をエプロンで拭きながら言った。「いいよ、これ以上遅くなると帰って片付けをしたくなくなるからさ。」と言って窓を閉めた雅樹は、母親に手を振ると車を発進させた。


 車内の時計が0時に変わろうとする頃、雅樹は「叔母の平屋」から「雅樹の平屋」へと変わった新居へ到着した。古い玄関は相変わらず頭をぶつけそうになるほど低く、なかなか慣れない雅樹は「危ね~。」と声を出して頭を下げると、灯りのスイッチを押した。そして引き戸を開けたままのライトバンに戻ると、玄関まで雑誌の詰まったダンボールを運び、最後に助手席からコンビニで買った弁当と発泡酒を取り出してリビングへ持っていった。


 古い電子レンジが昔懐かしい音を立てながら弁当を温めているころ、リビングのエアコンがようやく暖かい風を出し始めた。テーブルに置いたコンビニの袋から発泡酒を出して一口飲むと、雅樹は上着をソファーに掛けネクタイを外した。


 空腹の27歳にとって、コンビニ弁当を完食するのには5分も掛からなかった。あっという間に食べ終わった雅樹はテレビを消し、まだ残った発泡酒の缶を持って寝室へと向かった。

 寝室は叔母の使っていたベッドと仕事用の机のある小さな部屋だったが、まだ慣れない古い平屋の中で、雅樹が一番落ち着く空間だった。


 寝室へ入ると冷たい空気が雅樹を包んだ。すぐにエアコンのスイッチを入れた雅樹は、リビングのソファーに上着を置いてきたことを後悔した。

 「寒む…。」と呟いた雅樹は、発泡酒を一口飲むと机の上に置いてあるノートパソコンの電源を入れた。そしてパソコンの横に発泡酒の缶を置くと、雅樹はシャワーを浴びるために風呂場へと向かった。


 シャワーを浴び震える身体を拭くと、雅樹はドライヤーで頭を乾かした。洗面台の鏡も低く、曇った鏡には雅樹の首や顎しか映っていなかった。少し屈んだ体勢で乾かし終わった雅樹は学生の時から着ているジャージに着替えると、冷蔵庫から新しい発泡酒を取って寝室へ戻った。


寝室に入り温かい空気に包まれると、今度は「暑…。」と呟き、壁に掛けてあるリモコンを手に取って暖房の設定温度を下げた。そして机の前の椅子に座った雅樹は残りの発泡酒を一気に飲み干すと、冷蔵庫から持ってきた新しい缶も開けて、豪快に一口飲んだ。


 雅樹は椅子に腰掛けてパソコンのマウスを動かすと、久しぶりにウイルスプログラムのスキャンを試みた。しかし予想に反して、時間の掛かるスキャンの動作に、雅樹はため息をつき時間を持て余していた。少し古いパソコンなので、スキャンをしながら他の動作をすることは、パソコンが固まってしまう可能性が強かったので出来なかった。


「長いな…。」とマウスから手を離した雅樹は、何気なく机の引き出しを開けてみた。叔母さんの使っていた古い机の引き出しは滑りが悪く、きっと動きが硬いと思い力を入れて引き出しを引いたが、予想外にスムーズに動いた引き出しに雅樹は拍子抜けを食らった。


 すると空のはずの引き出しの中に、一つのUSBメモリが音を立てて転がった。


 不思議に思いながらも、そのメモリを手に取った雅樹は、あることに気付いた。USBメモリの裏面に小さくビニールテープが張ってあり、「0367」とマジックで書いてあったのだ。


 「なんだろう…。」メモリを眺めながら雅樹が呟いていると、パソコンのウイルススキャンが終了しスキャンの結果報告が画面に映し出された。

 特に異常の無かった画面を閉じると、雅樹は見付けたUSBメモリを興味本位でパソコンに差し込んでみた。


―「システムのインストール開始」


突然画面中央に表示されたかと思うと自動でインストールが始まった。「ちょ…。」と思わず声が出た雅樹はインストールを止めようと、キーボードを色々と叩いたが止めることが出来なかった。

 何かのファイルやフォルダが一覧で表示されるかと思っていた雅樹は、一体何のシステムをインストールしているのか不安に思った。パソコンの横では飲み掛けの発泡酒の缶が、暖房の入った部屋の中で汗をかき、机の上に雫を垂らしていた。



 「パスワードを入力して下さい」



 インストールが終わったのか、パソコンの画面中央にメッセージが表示されると、パスワードとして4ケタの英数字を入力する窓が開いた。


 「パスワード…。」と声に出した瞬間、雅樹はUSBメモリの裏に書かれていた数字を思い出して、パソコンの裏側を覗き込んだ。


 「0367」


 雅樹は「0367…0367…」と呟きながらテンキーで入力すると、ENTERキーを叩いた。「まさか」とは思ったが、本当にパスワードが整合してシステムが立ち上がったので、雅樹は驚き画面から目が離せなくなった。



すると、画面中央に焦げ茶色で革製の手帳が映し出された。

 


それは所々が黒っぽく変色していて、長く使われた古い手帳という印象だった。そして革の表紙には「destroy destiny」と焼印されてあった。


 手帳…?日記帳…?スケジュール帳…?どちらにしても、叔母さんのプライベートなことが書かれていると思った雅樹は、中身を見ることを躊躇した。

 手帳の下部に表示された「ENTER」というカーソルを見ながら、雅樹はしばらく考えた。そして大きく息を吐くと、雅樹は汗を書いた発泡酒の缶を手に取り一口飲んだ。口に含んだ炭酸にぬるさを感じながら、雅樹は発泡酒の汗で丸印に濡れた机の上に置いた。


 「遺族として何か大切な内容があるかもしれない。遺言とか…。」しばらく考えて出た答えに自信を持って、雅樹は手帳の中を見てみることにした。


 「ENTER」をクリックすると、革の表紙がめくられ手帳が開くと次のページには「目次」と書かれたメニュー画面が表示された。


 続けて雅樹はメニュー画面の一番上にある「スケジュール」というアイコンをクリックしてみた。手帳が一枚めくられると、そこには各月毎にアイコンが立っており、スケジュールを選択出来るようになっていた。

 

雅樹ははじめに、一番古いスケジュールである「2000年1月」をクリックした。すると画面には今から10年以上前である2000年1月のカレンダーが表示された。


そしてカレンダーには叔母が当時入力したと思われるスケジュールがあった。


「7日・仕事はじめ」

「10日・営業会議」

「11日18時・坂田様」

「13日17時・島田様」


保険会社に長く勤めていた叔母の予定を見ると、忙しく動き回っている叔母の姿が目に浮かぶようだった。予定は殆んど毎日のように入力してあり、何も入力されてない日は土日ぐらいだった。


「メニューに戻る」を押して再びメニュー画面に戻った雅樹は、ぬるくなった発泡酒を一口飲んだ。そして雅樹は、ふと叔母が亡くなった先月の予定を見てみようと思った。病室にもパソコンを持ち込んでいた叔母だから、何か入力しているかもしれないと思った。そして空になった発泡酒の缶を机に置くと、発泡酒の汗で濡れた右手で「2012年1月」をクリックした。


画面に表示されたスケジュールを見て、不思議なことに気が付くと雅樹は固まったかのように画面を凝視した。


「17日宗孝・ひかりさん夫婦と最後に会う日」

「18日手術。執刀は結局、司馬先生。」

「18日雅樹と最後に会う」

「19日茂・結衣さん最後に会う」

「20日私の最後の日」


20日は…確かに叔母が亡くなった日だった。叔母は18日に「スキルス性胃ガン」の手術を受け無事に成功した。術後も経過は順調だったのだが、突然20日に肺梗塞を起こして亡くなった。


雅樹は首をかしげて思う。叔母は自分が亡くなるのを分かっていたのか?でも肺梗塞が起きたのは医者も想定していなかったことであり、突然であっという間の出来事だった。それなのに叔母がスケジュールとして自身の最後の日を入力しているところに雅樹は疑問を抱いた。


首をかしげてメニュー画面に戻った雅樹は、自分の目を疑うことになる。それは1月に亡くなったのに、メニュー画面の中にある2月のアイコンが赤色になっていたのだ。3月以降のアイコンを見ると灰色なので、スケジュールを入力するとアイコンが赤色に変わるシステムということが分かった。

 確かにこれはスケジュールを整理するシステムのようだから、亡くなった後に入力があっても不思議ではなかった。しかし妙な胸騒ぎのした雅樹が恐る恐る「2月」をクリックすると、雅樹は画面を見たまま固まってしまった。


「1日 茂たち家族が片付けに来る日。」

「4日 雅樹がうちに引っ越してくる日。」

「5日 雅樹がUSBメモリを見つける日。」


すべてが「自分が亡くなる前提」の予定は、まるで予言とも言える内容が入力されていた。そして、その全てが予定通りになっている。信じられない現実に、雅樹は少し落ち着こうと発泡酒の缶を手にしたが、空になった缶の軽さに拍子抜けしてしまった。

叔母はこのスケジュール帳に予言をしたのか、それとも入力した通りに、未来が動いているのか。頭の中が混乱する中、雅樹は一つの仮説を立てた。

― このシステムは未来を決められるのではないだろうか。

    
























3、決められる未来









 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて目が覚めた。雅樹はベッドから慌てて起きて時計を見ると、もう朝ではなくすっかり昼だった。しかし次の瞬間、今日が水曜日で仕事が休みだったことを思い出すと、雅樹は再びベッドに倒れた。

 つけたままのエアコンのせいか、乾燥した空気の中、咳をして足元にある机を見ると、そこには開いたままのノートパソコンがあった。そして昨日の不思議な手帳のことを思い出し、天井を見て考え込むと雅樹はボソッと呟いた。

 

「未来を決められる…か。」


 すると時計の秒針の音だけが響き渡る静かな部屋で、突然携帯電話が大きく鳴って雅樹は驚いた。慌てて携帯を手に取ってみると、それは雅樹の顧客で新築を計画している受注見込み客の田上さんだった。


間取りや価格について注文や交渉が多く、指示が細かい田上さんは、頻繁に競合他社を引き合いに出して交渉をしてくる。雅樹が若いからか、40歳の田上さんは揚げ足を取るような発言が多く雅樹は悩んでいた。とは言いながらも、雅樹は手持ちの顧客が少ないのもあって、もう半年以上も一生懸命フォローを続けていたのだった。


「はい、吉本です。あ、田上さん、お世話になります!」

 雅樹は寝起きということがバレないように、作って明るく電話に出た。


「ええっ!!本当ですか!?ゴホッゴホッ、ありがとうございます!」

 雅樹は興奮のあまり、咳き込みながら誰もいない部屋でひとり頭を下げた。


それは「吉本君のところで家を建てることに決めたよ」という電話だった。この半年の間、嫌なことにも耐えてフォローしてきた苦労が報われた瞬間だった。電話を切った雅樹は天井を見上げて「しゃ~っ!」と声を上げて喜びを爆発させた。


そして顔を下ろした時だった。手が机に当たると暗くなっていたパソコンの画面が点灯した。薄暗い部屋の中で、パソコンは2月のカレンダーを開いた謎の手帳が映し出していた。


半年も追いかけていた田上さんから受注の取れた喜びを爆発させたのも束の間で、パソコンの画面を見た雅樹は昨夜から続く謎の世界へ引き戻された。


カーテンを開けても薄暗い叔母の部屋の中で、雅樹は部屋の明かりをつけた。そして再び椅子に座って机に向かいマウスに右手を置いた瞬間、叔母が生前に入力したであろう、2月の予定に目が入った。


「3日・雅樹が社長と契約に行く(田上邸)」


明日の契約の予定が記入されているのを見付けて、雅樹は再び固まってしまった。開いた口が塞がらないというのはこのことだと思った。あれは12月だったか…。


雅樹が叔母の病院へ見舞いに行った時のこと。叔母が亡くなる2ヶ月ほど前のことだっただろうか。長く保険会社の営業を勤めていた叔母に、雅樹は田上さんのことを相談していた。


「たとえ雅樹が提案した商品が否定されても悩むことはない。それはあなたではなく、会社が否定されたの。もちろん、あなたのプレゼンも大切だけど、一つ一つの指摘をまともに受けていては身体がもたないわよ。」

叔母の言葉はいつも優しく雅樹の不安な心を包んだ。細かい田上さんの指摘に悩む雅樹は、営業職の先輩でもある叔母の言葉を聞く度に救われていた。


叔母が入力したと思われる「田上邸の契約」という予定を見て、雅樹は叔母のことを思い出していた。


― なんで…まさか…田上さんの受注は叔母の力…?


雅樹は右手をマウスの上に置いたまま固まったようにしてパソコンの画面を見詰めていた。


― もしも田上邸の受注が叔母の力なら、俺がこの手帳を試してみよう。現実にはあり得ない予定を入力して、その内容が現実に起きるかを試してみればいい。


雅樹はマウスを右手で動かし、カーソルを今日の日付のところに合わせたところで止まった。そして、雅樹は入力する未来を考えた。そしてすぐに思い浮かんだものは2つあった。


一つは長い間こっそりと熟年離婚を考えている、母「結衣」のこと。母親と仲のいい雅樹は、長年悩む母親の気持ちを知っていた。

若い頃から仕事人間で家庭のことを母親に押し付けきた父「茂」。家にお金は入れてくれるが、子育てに関しては一切協力をしてくれなかった。母親は子育てとパートに明け暮れているのに、茂は休みの度にゴルフや飲みにと自分の時間を満喫していた。

母に言わせると、「茂のせいで30代からは自分の時間が全くなかった。それに比べて自由に遊ぶ茂は人生を満喫していて心底腹が立った。」

茂に不満を抱きながらも、母は心から子供を愛し、子供の笑顔と成長していく姿を見ることだけを生き甲斐にこれまで生きてきた。そして今、育てた二人の息子も大きくなった。


長男はお嫁さんをもらって同居しているものの、玄関が別で所帯も1階と2階で分けているからあまり接する機会もない。次男の雅樹も営業のため帰りが遅く、最近はもっぱら茂と二人で過ごす時間が増えてきた。

これで茂が定年退職でもしたら、ずっと二人きりで過ごすなんて絶えられないと母は悩んでいた。「きっと茂は家にいて、“あれをしろ”だの“これをしろ”だの口うるさく言うに違いない。」そう思うと、母は「離婚しかない」と考えるようになっていた。


そんな悩みを聞いていた雅樹は、母の気持ちをよく理解した。しかし子供としての本音は、どうか茂との関係を修復して、兄夫婦と幸せな二世帯暮らしを築いて欲しかった。

この手帳に、「母と茂が関係を良好にして円満な夫婦になる」と書き込んでみようか。雅樹が一番に思い浮かんだのはこのことだった。


しかし入力を躊躇する雅樹にはもう一つ心当たりがあった。


それは結婚して5年になる兄夫婦が不妊で悩んでいることだった。「な~に、まだ若いんだから」と家族は楽観的なことを言っていたが、兄夫婦にとっては深刻な悩みで、不妊治療が有名な産婦人科に夫婦で通院しているようだった。

だから雅樹は、二人のためにも「どうか一日も早く子供が出来て欲しい」と思った。


そこで雅樹はキーボードを叩いて、兄夫婦に子供が出来るように入力してみた。

母と茂のことは、この結果を見てからにしようと思った。



「2日(今日)・ひかりが産婦人科へ行き、妊娠したことを知る。」


入力をしてENTERを押した瞬間に携帯のメールの着信音が鳴り、雅樹はビクッ!と肩が上がった。それは兄宗孝からのメールで「嫁さんが妊娠した!」という報告だった。夫婦で不妊治療を受けて5年、諦めかけていた時の妊娠だった。


― 今日の予定をたった今、入力したばかりなのに…。本当に手帳の通りになった。


― これって、やっぱり…この手帳の奇跡に違いない。


静かな部屋の中で胸が高鳴る雅樹は、自分の胸の音が聞こえるようだった。


驚きと興奮の中、雅樹はふと現実に戻った。受注の取れた顧客田上さんのことが頭の中をよぎり、壁に掛けてある古い時計に目をやった。契約が取れたのだから、すぐ会社に行き契約の準備に取り掛からなければならなかった。「明日一番に契約書を持って来ないなら、話しはなかったことにして他所で建てるぞ!」そんな田上さんの声が聞こえてくるようだった。


雅樹は再びパソコンに目を下ろし、慌ててメニュー画面に戻った。するとメニュー画面の右端の方にあった「destiny balance」という項目に目が留まった。「何だろう…。」雅樹が恐る恐る試みたダブルクリックは遅すぎて、何も反応しなかったので、もう一度、今度は素早くクリックをした。

すると「古代ギリシャ帝国やイタリアのローマにありそうな古い塔」が画面中央に映し出された。


その塔は何もない草原の中に立っているのだが、かなり右に傾いているように思えた。風になびく草原を見て、この古い塔は風に煽られて倒れるのではないかと心配した。しかしその画面には特に何のボタンもなく、ただ傾いた塔だけが映し出されているだけだった。

一体何のための画面なのか雅樹は気にはなったが、深く考えることもなく「戻る」を選択してメニュー画面へ戻り、「終了」でパソコンを切った。そして慌ててパソコンを閉じると、洗面所に向かうために出た薄暗い廊下はひんやりとして寒かった。


外へ出ると陽は沈みかけ、夕方から夜になりかけていた。会社へ行く途中、雅樹が運転する社用車は海岸沿いの国道を走った。雅樹の走る左側には山の斜面が続き、右には冬の冷たくて暗い海が広がっていた。西側の大きな山が夕日を遮り、海は一足早い夜を迎えていた。


すると、少し先をこちらに向かって走ってくる対向車がフラついているのが分かった。緩やかな左カーブに差し掛かった時、雅樹は直感で危ないと思いアクセルを強く踏んで、前の車との車間距離を詰めた。そして次の瞬間、フラついた対向車が中央線を越え雅樹の車線へ突っ込んできた。


― ドンッ!


間一髪、雅樹は対向車を避けることが出来たのだが、対向車は雅樹の後続車と正面衝突をして大破した。対向車はブレーキどころか、事故の寸前にこちらの車線に向かって加速したように思えた。雅樹の車列は後ろの車が最後だったので、後続車はおらず事故は2台の衝突事故に止まった。


― もしも自分が前の車との距離を縮めていなければ、自分も事故に巻き込まれていた。


雅樹は慌てて車を路側帯に停めて、負傷者の救助に当たった。同じく救助に出てきた反対車線の後続車を運転していた中年の女性に救急車の手配を頼み、雅樹は大破した2台の車へと向かった。

そこで見た壮絶な光景に雅樹は息を呑んだ。フラついていたライトバンの運転手は車外へ放り出され、路肩にうつぶせで倒れていたが左手はヒジから反対へ折れ曲がり、頭からは大量の血が溢れていた。一方、追突された赤の外車の車は高級車の見る影もなく、ボンネットはグチャグチャに潰れており、運転手の女性はフロントガラスを突き破り頭を車外へ突き出した状態だった。

雅樹はなんとか運転席のドアを開けて、30代半ばと思われるその女性をシート側へ引き寄せた。シートベルトをしていなかった女性に、雅樹は「きちんとルールを守っていれば…」と嘆いた。すると救急車を手配した女性が駆け寄り、二人でケガをした女性を車から引きずり出した。雅樹はスーツに女性の額から流れる血液が付くのも気にせず、必死になって抱えた。

なんとか車から出すと、雅樹は女性の車にあったひざ掛けを折りたたみ、枕のようにして道路へ寝かせた。対向車の男性と同じく、頭からの出血が多く止血のために押さえたハンカチもすぐ真っ赤に染まった。

必死の呼び掛けにも応答がなく、息もしていなかったので雅樹は、人工呼吸をするために、横たわる女性の頭に敷いたひざ掛けを広げて平らにすると、アゴを上げて気道確保を試みた。するとその時、雅樹は女性の首がグニャッとして、首の横がボコッと突き出ているような感じがした。「折れてる…?」と思ったが、雅樹は目を閉じて必死に人工呼吸を試みた。一緒に救助した中年の女性は、オロオロするばかりで雅樹の近くで時計ばかりを様子で見ていた。


それから数分後、大破した2台の車とガラスの破片や部品が散乱する現場に救急隊が到着した。「これは酷いな…。」救急隊員の1名が呟いた声が、負傷者の血液で顔を汚した雅樹の耳に入った。その瞬間、雅樹は自分の役目が終わった気がしてホッとした。3名の隊員のうち2人が女性の救助にあたった。そして間もなく、救急隊は女性の首を固定して担架で救急車の中へ乗せた。するとすぐにもう1台の救急車と警察の車輌が到着して、現場は慌しくなってきた。救急隊が男性の救助に当たっている頃、雅樹は一緒に救助を行った中年女性と警察へ状況を説明していた。警察官がメモをしている向こうで負傷者した男性が目に入ったが、もう息絶えているようだった。


その後、雅樹は会社へと向かい、契約に必要な書類の作成を行った。営業は休みだったので、社内は物静かで照明の半分は消えていた。雅樹が疲れた様子で社内に入ると、偶然会った設計部の荒木課長は負傷者の返り血で汚れた雅樹を見て驚いた。そして会社の玄関で課長に説明をしていると、工事部の人間や設計部の人間が次々に集まって、雅樹の話す交通事故の話しで盛り上がった。

「ちょっといいですか。」雅樹は野次馬から逃れ、営業部の隅で汚れたジャケットとシャツを脱いで職場のジャンバーを着ると首下までチャックを上げた。すると「吉本さん、大変でしたね。」設計部で入社二年目の女性社員である村本が心配をして声を掛けてきた。同じ大学の後輩ということもあり、雅樹は常日頃から気に掛けて面倒をみていた。会社玄関での大騒ぎを耳にした村本が心配して雅樹の様子を見にきたのだった。

結局、落ち込んだ雅樹に気の利いた声を掛けることも出来ず、血のついたジャケットとシャツを抱えると「軽く水で濯いできますね。」と言って給湯室を出ていった。「うん…。」と呟いた雅樹は、ようやくお湯の出始めた給湯室で顔を何度も洗った。


念願だった受注、半年も田上さんに耐えて獲得した受注なのに今は嬉しさよりも、事故の光景で頭がいっぱいだった。あの二人は助かっただろうか、自分の救助は間違っていなかっただろうか。蛇口から出るお湯で曇りかけた鏡を見詰めて自問自答を繰り返した。そして大きくため息をつくと、雅樹はタオルで顔を拭いてデスクへ向かい、田上邸の書類に取り掛かった。

気分は晴れないまま、必要な書類を作成して雅樹は工事部の人間に挨拶もせず、早々と職場を後にした。



家に帰りスーツをクリーニング用の袋に無造作に入れると、珍しくシャワーではなく湯船に浸かった。そして雅樹はまた事故のことを考えていた。風呂から上がると食事もせずに布団に入ったが、その晩はなかなか寝付けなかった。

     





















4、運命のバランス









翌日、寝室に降り注ぐ眩しい朝日の光で目が覚めた。目が覚めても事故のことが気になった雅樹は布団の中で携帯を触り地元のニュースを検索した。するとそこには「県道にて乗用車2台正面衝突2名死亡」という記事があった。助からなかった…。携帯を閉じると、雅樹は大きなため息をついて深く目を閉じた。


自分の救助方法は間違っていなかったのだろうか、本当に助けられなかったのだろうか、ということばかりが頭の中を駆け巡った。憂鬱な気持ちで布団から起き上がった雅樹は、朝日に照らされた机の上のパソコンが目に入った。そこで雅樹は昨日会社に出かける前に起きた不思議な出来事を思い出した。


雅樹はパソコンの電源を入れると暖房のスイッチを入れて、ひんやりと冷たい廊下の先にある薄暗いトイレに向かった。

暖かい部屋に戻ると立ち上がったパソコンの前に座り、デスクトップに表示してある「手帳」と書かれたプログラムを開いた。

そして一番に目に入ったのが「destiny balance」というコマンド。昨日出掛ける直前に不思議に思った「傾いた塔」を思い出した。雅樹は「destiny balance」にカーソルを置きクリックをした。するとそこに映し出されたのは、傾くことなく真っ直ぐ草原にそびえ立つ塔だった。昨日とは異なり、風もなく草原もなびいていなかった。

雅樹にはこの画面の意味が全く分からなかった。塔が真っ直ぐになった。風も止んだ…でも、それだけだった。


時計を見ると、もう7時を過ぎていた。すぐに現実の日常へ引き戻された雅樹は慌てて洗面所へ行き、歯を磨いて充電の切れそうな電気カミソリで髭を剃った。再び暖かい寝室へ戻ってくると、パソコンの電源を切って時計を見ながらスーツに着替えた。

今日は念願だった田上邸の契約の日だった。前日のうちに部長へは契約の連絡を入れ、今日は朝から社長と部長の同行で田上邸へ契約に行く。社長も同行するのが雅樹の会社の決まりだった。田上さんからもらった電話の翌日だったが、偶然田上さんの仕事が休みだったということもありバタバタの契約となった。


「吉本君の頑張りに心を動かされました。」


田上さんが契約書に押印をして、ティッシュで印鑑を拭きながらそう言うと、雅樹と部長は「ありがとうございます」と深く頭を下げ、社長は雅樹の方を見て誇らしげに大きく頷いた。


田上邸からの帰りの車中。「今回のように難しいお客さんから受注を取れたのは、吉本も成長した証拠だな。」という思いもしない嬉しい言葉に、両手でハンドルを持った雅樹が横目で助手席を見ると、部長は前を向いたまま「自信を持っていいぞ。」と雅樹を励ました。滅多に部下を誉めない部長の言葉に有頂天になる雅樹だったが、社長の「引渡しまでが勝負。これからが大切だぞ!」という言葉に、雅樹は背筋を伸ばして「はい!」と答えた。それでも運転席から見える、晴れ渡った冬の空のように雅樹の心も清々しかった。



雅樹が家に帰った時はもう深夜0時を過ぎていた。その日の夕方、雅樹は部長と二人で小さな居酒屋まで飲みに行った。小さい商店街にある数件の飲み屋街は、平日の夜ということもあって人通りは少なく静かだった。


家に帰ると雅樹はスーツの上着を脱いで冷えた寝室の机に向かった。エアコンとパソコンの電源を入れるとネクタイを外し、発泡酒の缶を開けようとしたが、あまりの寒さに雅樹は飲むのを躊躇した。

パソコンが立ち上がり「手帳」を開いた雅樹は、真っ先に「destiny balance」を開いた。二日前に傾いている塔を見てから、雅樹の頭からずっと離れず気になっていた。すると画面に現れた塔は、今朝の出勤前に見た時と同じで、傾くこともなく真っ直ぐそびえ立っていた。

傾いていたのは何だったのだろうか…。雅樹はあれ以来変化のない塔を見詰めて考え込んでしまった。


腑に落ちない様子の雅樹は、次にメニュー画面の「2012年2月」を開くと、今日の予定を改めて見た。


―「3日・雅樹が社長と契約に行く(田上邸)」


やはり今日の予定には確かにそう書いてある。しかしこれは確かに雅樹が入力したものではない。考えられるのはやはり、「生前の叔母が入力した」ということだけだった。

「叔母さん…」そう呟くと、雅樹は昨日自分で入力した「2日・ひかりが産婦人科へ行き、妊娠したことを知る。」を見た。そして雅樹は思った。もしも未来の予定を決めることが出来る力がこの手帳にあるのであれば、過去は変えられないのだろうか。入力した過去の予定を変更することで、過去が変わるというのか。

そこで雅樹は恐る恐るカーソルを動かし、昨日の予定に入力した兄夫婦の懐妊を削除してみようとした。しかしよく見ると過ぎた日付や予定は文字の色が黒からグレーに変わっていて、そこにはカーソルがいかなかった。


― 過去に入力した内容は変えられないのか。


そして明日の「2月4日」にカーソルを合わせて雅樹はじっと考え込んでしまった。次は何と入力しよう。宗孝夫婦の次に頭に思い浮かぶのは、やはり両親の仲を改善することだった。

しかしこれはあくまで手帳…つまり予定を入力するスケジュール帳なのだから、入力する予定が「両親の関係が改善する」という表現では、いまいち曖昧な気がして、言葉を選び迷った。


―「母結衣が父茂に惚れ直す」

―「父茂が母結衣に優しくなる」


思い浮かぶ表現はどれも微妙だと思った。雅樹は一向に考えがまとまらないので、気分転換に風呂にでも入ることにした。すると、カレンダーのページを閉じてメニュー画面に戻ると、「メモ」というカーソルが赤く点滅していた。


「メモ」をクリックすると画面の右上に「2月4日」メモとあった。今日はまだ3日だぞと思った瞬間、壁掛け時計の視線を感じたように雅樹が振り向くと、ちょうど時計の針は深夜の0時を回ったところだった。

日付が今、4日になったから「メモ」が点滅したようだった。赤く点滅する文字をクリックすると、画面中央に大きな窓が開いた。そしてそこには亡くなった叔母からのメッセージが書かれていた。


「雅樹へ」


きっと雅樹は今頃、田上さんの受注が取れてホッとしていることと思います。

元気で頑張っていますか?


そして、雅樹。あなたはきっとこの手帳を不思議に思っていることでしょう。

もしかして田上さんの受注は私のお陰だなんて思っているかもしれません。


きっとあなたは気付いているかもしれない。そう、確かに私はこの手帳に「受注が取れる」と入力したわ。でも受注が取れたのはそれだけじゃないはずよ。これまでの雅樹の頑張りが無ければ、受注はきっと取れなかった。だから私は少しだけ力を貸したに過ぎないのよ。

でもこの手帳…あなたも不思議に思っているでしょう。私も正直この手帳の力はよく分からないの。


いつの間にか仕事の鞄の中に覚えのないUSBメモリが入っていて、訳も分からず使い始めたの。仕事でパソコンを持ち歩いていたから、気軽にパソコンでスケジュールを管理出来るからとても便利に思って使い始めたのよ。


でもある時、気が付いたの。この手帳は未来を操作出来るんじゃないかって。

それからというもの、あまり成績の良くなかった保険の営業も、どんなに調子が悪くてもいつもノルマを超えるように調整が出来たわ。


それはもう全てが順調で、とても素敵な物を手に入れた気分だった。


でもある時、気が付いたの。「destiny balance」というコマンドを。雅樹はもう開いてみたかしら?私にもはっきりは分からないけれど、「destiny balance」というのはきっと、その名の通り「運命のバランス」なのよ。


きっと世界の中にある「幸せ」の量は決まっていて。幸せと不幸せのバランスがちょうど良く保たれているの。だからもしも私が手帳に「幸せな予定」を書いたら、幸せのバランスが崩れて「destiny balance」の塔が右に傾くの。


だから自分勝手に「幸せな予定」ばかりを入力したら、きっと塔が倒れてしまう。でもね雅樹、塔は絶対に倒れないのよ。この手帳の最も恐いのは手帳による「運命の調整」が行われるということなの。


もしも自分に都合の良い幸せを入力したら、きっと自分に近いところで、「不幸せな出来事」が起きる。自分が書いた幸せの大きさに反比例した「不幸せ」が身の回りで起こるのよ。


でも「幸せのバランス」は自分でも調整出来ることに私は気が付いたわ。幸せな予定を入力することで塔が傾いた時、自分で不幸せな予定を入力すれば、「destiny balance」の塔を左に傾けることも出来るの。


私はこの手帳を使ってたくさんの幸せを手に入れたわ。でもその代償は大きかった。バランスを取るには「自分の死」しかなかったのよ。何を入力しても塔が真っ直ぐにならなかった。でも、私が自分で書けないからといって、「手帳による強制的な調整」が入るのは許せなかった。

だってそうでしょ、私の身勝手で私の身の回りに不幸が起きるのを黙って見ているなんて出来ないもの。だから私は「病気による死」を選んだ。少しばかりの幸せをみんなに残して。


こんな手帳は私が生きているうちに壊してしまおうとも考えたわ。でも、もしかして雅樹だったら上手に扱えるかもしれない。そう思ってあなたに託すことにしたの。


雅樹…あとはお願いね。家族のみんなが、そして雅樹の周りのみんなが幸せになれるように頼んだわよ。私は雅樹を信じています。ずっと天国から見ています。  吉本好美























5、鼓動









雅樹は叔母のメモを読み終わると、ここ数日の間、自分に起きた出来事を思い出していた。


本当にこのUSBメモリには力があった。確かに兄夫婦に子供ができる未来をスケジュール帳に入力した時にも運命の塔は大きく傾いていた。あれが「destiny balance」の力が働いていたというのか。


― 交通事故…。


あの時…、あの入力をした直後に遭遇した交通事故は、叔母の言う「手帳による強制的な調整」というのだろうか。…ということは雅樹が入力した「子どもが生まれる」という未来のせいで、何も関係がない二人が亡くなったのであろうか。

雅樹はパソコンの側面に取り付けられているUSBメモリを見詰めると、恐怖を感じてマウスから手を離した。


「でも…。」雅樹は呟くと手にした発泡酒の缶を開け一気に飲み干した。そして再びマウスの上に手を置くと、スケジュール帳を開いて明日の日付をクリックするとキーボードを叩いた。


― 「5日 雅樹、生涯を共にする愛すべき女性と出会う」


雅樹は両親の関係改善はやめ、自分に恋人が出来る未来を考え始めていた。確かにこのメモリの恐ろしさは十分分かった。だからもう、このUSBメモリは封印しよう。

でも…最後に一つだけ、自分のための願いを入力してみよう。そしてそれが「運命の出会い」という他愛のないものだったら、それほどの「強制的な調整」は入らないだろうと思った。


ENTARを押した後、「でも…まさかね」と呟いてパソコンを閉じた。そして「さっ」と言って立ち上がると、壁に掛かった古い時計を見てスーツの上着とネクタイをクリーニング用のビニール袋に入れた。そしてシャワーを浴びるために冷えた廊下に出ると早足で洗面所へと向かった。

2月4日午前0時30分のことだった。




「吉本さんですね、いつも兄がお世話になっています。」


日が明けて、同じく4日の土曜日、雅樹は朝から仕事で住宅展示場に入っていたが、夕方になると田上さんに頼んでいた住民票を自宅マンションまで取りに行った。「今日もまた無理な注文がなければいいけど…。」受注を取った後でも田上さんは悩みの種だった。

国道沿いのいつものパチンコ店に会社のライトバンを停めて、雅樹は田上さんの住むマンションまで歩いた。国道から少し入った途中の県道には多くのスナックが立ち並び、開店前の店前では化粧前でボサボサ頭の中年女性が水を撒いていた。

この道をもう何度歩いたことだろう。雅樹は田上さんに初めて展示場で出会い、その日の夜に即日訪問、通称「即訪」を行った日のことを思い出していた。


築20年程のマンションの10階までエレベーターで上がって、雅樹はインターホンを押した。しかし田上さんの応答がない。いつもなら異常に早く応答があるのに、この日はいつまでも反応がなかった。雅樹がポケットから取り出した携帯で時間を確認し、田上さんに電話を掛けようとしたその時、「はい」という女性の声の後、ドアがゆっくり開いた。

するとそこには田上さんでも奥さんでもなく、見知らぬ女性がいたので雅樹は驚いて思わず言葉を詰まらせた。


すると「あ…すみません、吉本さんですよね。私は妹の美佳です。」と女性が慌てた様子で話した。雅樹は一瞬女性のことを田上さんの不倫相手かと思ったので、ホッと胸を撫で下ろすと同時に、真面目な田上さんを疑ったことを反省した。

雅樹が初めて見る美佳は、がっちりした体系の田上さんとは異なり、細身で長い黒髪が印象的な美人だった。


「いつもお世話になっています、フクシマホームの吉本です。今日は田上さんに頼んでいた住民票を取りに伺いました。田上さん、いらっしゃいますか。」

雅樹は平静を装うようにして、ゆっくり丁寧に話した。すると美佳は黒目がちな大きい瞳で、雅樹の目をじっと見詰めて聞いた。それに対して雅樹はすっかり照れてしまい、意味もなく右手で持っていたカバンを左手に持ち直しながら話しをした。


「兄はもうすぐ帰ると思いますので、どうぞ上がってお待ち下さい。」


そう言うと美佳は屈んでバラけた靴を並べながら、長い髪の毛を耳に掛けた。そしてフロアマットをまっすぐに整頓すると、玄関横の和室の引き戸を開けて部屋の照明をつけた。


「はい、すみません。」


雅樹は美佳の清楚な動きにすっかり魅了され、靴をぬいで玄関に上がると、慌てて靴を並べた。そして立ち上がり「どうぞ」と和室を案内する美佳を見た瞬間、昨夜入力した手帳のことを思い出した。


― まさか…妹さんが俺の運命の人…?


雅樹は日記に入力した「運命の女性」が美佳ではないかと思うと胸が高鳴った。「しばらくお待ち下さい。」そう言って、美佳は和室を後にし、廊下の奥へと歩いていった。

美佳の後ろ姿に見とれていた雅樹は、ふと我に帰り和室に置かれたテーブルに正座をして座った。するとそこは障子越しに西日が射していてとても暖かい部屋だった。まるで美佳がつけた照明も必要ない程、日当たりのいい素敵な和室だった。


―美佳さんが運命の人であったとしても、田上さんがうるさいからな….


田上さんが義理の兄になるのかと思うと雅樹はゾッとして、正座する足にも力が入った。そして座った畳が琉球畳であることに気付いた雅樹は、これもきっと田上さんのこだわりなんだろうなと思った。


「お茶をどうぞ。」


独り言を言っていると、急に美佳がお茶を持ってきたので驚いた。礼儀や作法にも厳しい田上さんの妹さんだからと、雅樹は慌てて座っていた座布団から降り、丁寧に挨拶を再度しようかと思った。しかし美佳の親しみやすい優しい笑顔を見ると、座布団から降りずにそのままでいることにした。


「いつも兄の相手、大変でしょう?」


美佳がお盆を胸に抱えたまま正座をして、微笑みながら聞いた。美佳の背中には障子越しの西日が当たり、白く輝いて見えた。


「いえ、お兄さんは具体的に希望をおっしゃって下さるので、とても仕事がやりやすいです。それにとても住宅に詳しいので、私も勉強になることが多くて助かっています。」


出されたお茶を飲みながら、雅樹は自分の回答の出来に、“少しは営業マンらしくなってきたな”と実感していた。


「そう言ってもらえると助かります。兄も吉本さんのことがとてもお気に入りみたいですよ。いつか一緒に飲みに行きたいって、言っていました。」


“迷惑を掛けているのではないか”と、不安気な美佳だったが、雅樹の言葉を聞いてホッとした様子で軽快に話した。


「本当ですか?それは嬉しいです!ぜひ!とお伝え下さい!」


感じの良い営業マンとして即答した雅樹だったが、心の中では“田上さんとの飲みだなんて!”とひっくり返っていた。


「でもその時は妹さんも一緒に来て下さい。誰かいないと私は、お兄さんにずっと叱られそうなので…。」


雅樹は右手で後頭部をかきながら、苦笑いで話した。


「あ~!やっぱり兄は大変なんでしょ!」


大きな声で美佳が言うと、雅樹は驚いた様子で和室の横に位置する玄関を振り返り、田上さんが帰宅していないことを確認しながら「シーッ!内緒ですよ!」と言うと、二人で笑いあった。


それから二人の会話は弾み、笑いが耐えなかった。歯科衛生士の美佳は今日が休みで、実家の両親に頼まれて田上さんのところまで届け物を持ってきたところ、突然留守番を頼まれたとのことだった。雅樹の3つ上で30歳、独身で今は彼氏もいないと話す美佳は清楚な第一印象だったが、話してみるとオープンな明るい女性だった。


すると突然、雅樹の携帯電話のバイブが胸ポケットの中で振動した。


「吉本君、すまんが帰りがかなり遅くなりそうなんだ。明日また来てくれるかな。」


電話の田上さんは、周囲を気にしているのか珍しく声が小さかった。電話の内容自体はなんとも自分本位だったが、さすが田上さんだと雅樹は苦笑いと共に納得をした。


「分かりました。それじゃ、また明日伺います。」


携帯を閉じて再び胸ポケットに戻しながら、「すいません、また来ます。」と立ち上がろうとした。しかしうまく立てずに雅樹は、琉球畳に尻餅をついてしまった。長い時間正座をしていた足はしびれて、力が入らなかった。その様子を見て美佳が「兄に怒られますよ!」と言うと、雅樹はしびれた足を押さえながら「勘弁して下さいよ~!」と言って二人で笑った。


雅樹は靴ベラも使わずに、靴のつま先で玄関を軽快に叩いて軽い音を鳴らしていると、後ろから美佳が「すみません、せっかく来てもらったのに。」と話し掛けた。

美佳が深く頭を下げたので、「いえいえ」と雅樹も頭を下げて「また伺います。」と言って玄関を後にした。




「もしもし吉本さん、設計の村本です、今電話大丈夫ですか?」


田上さんのマンションを出た直後に会社から携帯に連絡が入った。外はマンションの影もあってすっかり暗くなり、街は夕方から夜へと姿を変えようとしていた。歩きながら電話に出ると、スナックの前の歩道は撒かれた水で濡れていた。


「昨日言われた田上邸のプランの訂正ですけど…。」


同じ大学出身の後輩ということもあって、雅樹は村本に経験を積ませようと田上邸の設計をお願いしていた。


「うん、できた?やっぱりスペース的に無理かな?」


 雅樹は県道沿いの歩道を歩きながら、営業車を停めているパチンコ店の駐車場を目指した。村本に経験を積ませるというのは実は建前で、本当は注文の多い田上さんの設計は無理難題の連続で、設計部の担当は何でも言いやすい後輩の吉本が、雅樹にとって適任だったのだ。


「いえ、図面の修正が出来たので一応連絡しました。会社で帰りを待っています。」


雅樹は電話を切ると、交差点のコンビニに立ち寄って温かい缶コーヒーと肉まんを二つずつ買った。会社で雅樹の帰りを待つ村本への差し入れだった。コンビニを出ると、風が冷たく交差点の向こうにあるパチンコ店のネオンが派手に騒がしく光っていた。





「吉本さん、まだ残って仕事されますか。」


突然の声に顔を上げると、会社1階にある営業部のデスクも雅樹だけになっていた。田上さんのマンションから帰った雅樹は、午前中に展示場に来た顧客に対する資金プランと簡単な間取りの提案書を作っていた。そこにコートを着て帰り支度をした村本が、大きなバックを抱えて通り掛かった。


「いや、もう帰ろうかな。村本ももう上がり?」

雅樹はボールペンを止めると、首に巻かれたマフラーに顔を埋めた村本に聞いた。


「はい…。吉本さん、よかったらご飯行きませんか?相談したいことがあるんです。」村本は決して美人とは言えなかったが、下に兄弟のいない雅樹にとって、まるで妹のようで可愛い存在だった。


「ああ、いいよ。それじゃ、ちょっと待ってて。」雅樹はボールペンを押して芯を戻しながら言うと、提案書のファイルを閉じて机の隅に寄せた。


「はい、ゆっくりいいですよ。私、玄関の自販機の前で待っています。」村本は営業部の端にあるレコーダーでタイムカードを切ると、会釈をして出て行った。



 次の日は日曜日で設計部は休みだったせいか、会社の近くにある洋風の居酒屋で、村本は雅樹の前で顔を赤くして酒に酔っていた。新卒で一緒に入社した同期が辞めることの寂しさや不安の話しにはじまり、設計部の上司の愚痴など酔った村本の言葉は止まらなかった。


 そこで意外だったのが、村本が亡くなった好美叔母さんのことを慕っていたということだった。まだ好美叔母さんが元気だった頃、雅樹は家族でのバーベキューに村本や村本の同期など若手を呼んだことがあった。そこで村本は酒に酔って訳も分からず涙を流し、好美叔母さんに慰められたというエピソードが懐かしかった。


「吉本さんには内緒にしていましたけど、私は好美さんが入院していた病院に、何度もお見舞いに行ったんですよ。」


村本はグラスに半分ほどお湯を入れた後に、焼酎を注ぎながら雅樹に言った。「村本が?」雅樹が驚きながら今にも溢れそうな焼酎のグラスを慎重に受け取った。


「そうです、好美さんにはいろいろ相談に乗ってもらっていたんです。」そう言うと村本は店員の運んできた小皿から半分に切られた鮮やかな緑色のライムを手に取り、お気に入りのライム酎ハイに直接絞って飲んだ。


「だから好美さんがいなくなって私寂しいんです。同期も会社辞めるって言うし、もう私どうしたらいいか…。」カウンターに顔を伏せて、最後の方は声が小さくなって聞こえないほどだった。右手にはグラス、左手には絞られたライムを握ったままだった。


「おい!村本!村本!」


何度呼びかけても、酒に飲まれた村本が起きることはなかった。そして雅樹は店員にタクシーを呼んでもらい、酔った村本を抱えて村本の自宅まで送った。




 雅樹が灯りのついていない暗い平屋に帰ると、居酒屋に行く前に代行業者に頼んでおいたライトバンが無事に届いていた。村本と飲む時はいつも送らなければならなかったので、事前に手配していたのであった。

 ライトバンの前輪の上に隠された車の鍵を取ると、雅樹は低い玄関に頭を下げて入った。そして照明をつけ靴を脱いで上がろうとした時に、夕方に出会った美佳のことを思い出した。そして何かを思い出したように、慌てて寝室に行こうとする雅樹は、冷えた廊下で足を滑らせて転倒しそうになった。


 寝室に入り蛍光灯のヒモを引っ張って照明をつけると、パソコンのスイッチを入れた。雅樹はいつもにも増して、パソコンの立ち上がるまでの時間がとても長く感じられた。その間も雅樹は座った机から動かず、寒さのあまり“貧乏ゆすり”をしながらじっとパソコンの画面を見詰めていた。

 

― もしも田上さんのマンションで出会った美佳さんが運命の人なら、きっと“運命の塔”が傾いているに違いない。…そして塔が傾けば、きっと身の回りで不幸が起きる。


 雅樹の“貧乏ゆすり”でタンスが揺れて床のきしむ音が静かな部屋に響き渡っていた。










6、真昼の月









「それじゃ、失礼します。」


雅樹は田上さんから受け取った住民票を鞄に入れると、玄関のドアを開けて外に出た。そして薄暗いエントランスでエレベーターを待っている間、雅樹は昨日出会った美佳のことを思い出していた。

 

 マンションを出て県道沿いの歩道を歩くと、スナックの前で従業員らしき女性が花に水を撒いていた。雅樹に背を向け、雅樹の存在に気付いていない女性の様子に不安を感じた。そして雅樹が女性の後ろを素早くすり抜けようとした時、突然振り返って歩道に水を向けた。

 「うわっ!」思わず声を上げて避けようとしたが、雅樹のズボンに水が掛かり足にべったりと濡れた生地が張り付いた。「スイマセン!」という女性の片言な言葉を聞いた時、雅樹は女性が日本人じゃないと思った。その時…。


― 「大丈夫ですか?」


 突然耳に入った声に顔を上げると、そこには美佳が立っていた。驚いた雅樹は「あっ。」と声が漏れ、挨拶をしようとするよりも早く美佳は肩に掛けたカバンからハンドタオルを出すと、雅樹のところに駆け寄ってきた。

 雅樹が驚くのをよそに、美佳は髪を耳に掛けながら濡れたスーツを拭いてくれた。そんな美佳の姿に、雅樹は胸のときめきを感じずにはいられなかった。


「美佳さん、すいません…。もう大丈夫ですよ。」雅樹はスナックの女性が持ってきたタオルで足を拭きながら言った。「兄の家に寄ってズボンを乾かしませんか?」美佳は心配そうな表情でハンドタオルを握り締めたまま雅樹を見た。


「それじゃ美佳さん、お茶に付き合って下さい。ズボンが乾くまで…。」

 タオルを畳んでスナックの女性に渡した後、思い切って雅樹は言った。県道を行き交う車の音も消えゆっくりとした時間が二人の前で流れていた。



 すぐ近くのマンションに住む田上さんに見付からないようにと、美佳は笑いながら知る人ぞ知る穴場の喫茶店に案内した。そこはレトロな雰囲気の喫茶店で、店内ではジャズが流れ壁に飾られたレコードがお洒落な雰囲気を作り出していた。程よい広さの店内では、窓際の席に大学生のカップルが試験勉強をしているようだったが、他に客もおらず落ち着いて話しが出来そうな空間で居心地が良さそうだった。


 それからどれぐらい時間が過ぎただろう。気が付けば外はすっかり夜になっていた。雅樹は年上の美佳がとても話しやすかった。まだ会って2回目だというのに、仕事の悩みや家族の悩みまで打ち明けた。美佳も雅樹の話しを受け止め、いろいろな話しをした。


「仕事じゃなくても連絡してもいいですか?」すっかり乾いたズボンを見ながら、喫茶店の前で雅樹は聞いた。「いいけど、兄にバレないようにね。」と笑いながら言う美佳に「脅かさないで下さいよ!」と返して笑った。月がとても綺麗な冬の夜だった。


 美佳と別れていつものパチンコ店の駐車場に向かう途中、胸ポケットの中で携帯電話が鳴った。その時、喫茶店にいる間、何度も村本から電話が入っていたことを思い出した。

 しかし携帯を開くとそれは村本ではなく、会社にいる営業の田端課長から「今どこで何をやっているんだ!」という叱責の電話だった。課長の電話に驚いた雅樹は、村本からの着信のことも忘れてパチンコ店の駐車場まで必死に走っていった。




「村本なら今日休みだよ。風邪とかって言っていたかな。」


 月曜の朝、全体の朝礼で社長の長い話しを聞いた後、雅樹は会社の2階にある設計部を訪ねていた。部屋の一番奥の席に座る設計部の荒木課長の言葉を聞いて、雅樹は昨日の着信を思い出した。

 設計部を出た後、雅樹は廊下で村本の携帯に連絡をした。しかし携帯は留守電になっていて、村本が出ることはなかった。「大丈夫かな…。」雅樹がつぶやくと、1階から営業の田端課長の雅樹を呼ぶ大きな声が聞こえ、慌てて階段を下りて行った。


「吉本、田上邸の施工業者は柳本工務店でいいか?今月動けるのが柳本さんしかいないんだ。」田端課長はネーム入りの自慢のボールペンで田上邸の工程表を叩きながら言った。柳本工務店の柳本さんは無口な職人気質なタイプで、愛嬌はないが仕事が丁寧で早かったので、雅樹は即答で了承した。

「それで、間取りのプランは確定したのか?」デスクに座った田端部長はメガネの上から雅樹を見上げて不機嫌そうに言った。

「はい、設計部とも確認してなんとか確定しています。」雅樹は昨日の夕方に田上さんからOKをもらったことを思い出して答えた。「それなら早速、地鎮祭の日程を決めて動きなさい。」田端課長はそう言うと、同時に鳴った内線を取るために受話器を上げた。

雅樹は「分かりました。」と答えると自分のデスクに座り、パソコンを開いてスケジュール調整に入った。「これからまた忙しくなるな。」そう思うと雅樹は大きくため息をついた。




「すいません、ゴホッ…村本です。ゴホッ…この前はすいませんでした。」


会社の外に出て電話に出ると、それは風邪で仕事を休んでいる村本だった。「それはいいけど、風邪は大丈夫か?」心配して聞いた雅樹だったが、肝心の村本は受話器から顔を離して咳をしており、雅樹の言葉など聞いていないようだった。

 雅樹は飲んだ次の日に何度もあった着信のことを思い出すと、あの電話は“酔い潰れたことを謝る電話”だったのかと確認しようと思った。しかしとても辛そうな村本の姿に雅樹は何も聞かず、「お大事に。」と早めに電話を切ると携帯を胸ポケットにしまってデスクに戻った。

 

 夕方になり雅樹は会議室で施工業者の柳本さんと打ち合わせをしていた。田上さんの細かい性格を心配して伝えたが、柳本さんは一言「そんなの関係ねぇよ。」と一蹴した。その職人気質な性格とプライドが雅樹には格好良く、無事に引渡しまでいくことを祈った。

 柳本さんと上棟の日程を話してると雅樹の携帯が胸ポケットの中で振動を始めた。携帯を開くと相手は田上さんだったので、雅樹は「噂の田上さんです!」と小声で言い、柳本さんの苦笑いを見ながら電話に出た。


「吉本君、どうだ…今夜あたり食事にでも行かないか?」


突然の誘いに思わず「え…。」と言葉が漏れたが、雅樹に断れるはずもなく「もちろんOKです!」と即答して詳細を聞くと電話を切った。そして大きくため息をつくと、工程表を見たまま、状況を察した柳本さんは「がんばれ」とつぶやいた。




夜になり雅樹はスーツ姿のまま指定された和食の上品な店に行くと、まだ田上さんは来ていなかった。テーブルに掛けて待つ間、雅樹は神社で買った数珠のブレスレットを触り「何事もなく食事が終わりますように」と祈った。

 するとまた胸ポケットの携帯が振動を始めた。「このタイミングで田上さんからの電話だったら、絶対ドタキャンに違いない。」と思いながら雅樹が電話に出ると、案の定、田上さんからのキャンセルの電話だった。

 

「本当にすまない。娘が高熱を出したみたいで、今から救急病院に連れて行くことになったんだ。」と 珍しく謝る田上さんに謙遜しながら、雅樹はテレビで言っていた「インフルエンザ大流行」のニュースを思い出した。そして「いいですよ、気になさらないで下さい。それにしても娘さん心配ですね。」と雅樹が答えると、田上さんが「代わりに妹の美佳が行くから、すまんが一緒に食事をしていってくれ。」娘さんだと思われる泣き声が後ろで響き渡る中、田上さんは電話を切った。


― 「こんばんは。」


 電話を切った瞬間に声を掛けられ、肩を上げて驚いた雅樹が振り返ると、そこにはロングコートを着た仕事帰りの美佳が立っていた。

「またまたお兄ちゃんがごめんね。」 店員さんにコートを預け、マフラーを畳みながら美佳が言った。「いえいえ…。」と雅樹が言うと美佳は「私だけでもいい?」と言って席に座った。

 「もちろんですよ。」と雅樹が言うと「今日のお金はお兄ちゃんから貰ってきたからね。たくさん飲もっ。」と美佳は笑顔で言った。

 そして飲み始めると雅樹は美佳の酒豪ぶりに驚くことになった。顔色ひとつ変わることなく飲み続ける美佳につられて、つい雅樹も早いペースで酒が進んだ。

会話と共に酒が進む中、雅樹がトイレに行こうと席を立った時だった。テーブルに立て掛けていた雅樹の仕事用のノート型パソコンに足が当たって倒れてしまった。その時、雅樹は“運命の塔”のことを思い出した。


 初めて雅樹が美佳と出会った日、家に帰って手帳を開き“運命の塔”を確認すると、少しだけ右に傾いていた。しかし塔の背景にある草原は風に大きくなびいていて、塔もぐらついているように思えた。

 雅樹は考えた。やっぱり“運命の人と出会う”という程度の幸せでは、それほど「運命の調整」は働かない。だから、大丈夫…雅樹は自分に言い聞かせるようにしてつぶやくとパソコンを閉じ、USBメモリを抜いて空の引き出しにしまった。


 美佳との食事も終わり、家に帰ると雅樹はスーツを着たままパソコンの前に座って電源を入れるとあのUSBメモリを挿した。そして手帳を開いて“運命の塔”を確認した。

 すると画面には塔が完全に倒壊している恐ろしい映像が映し出された。雅樹は頭を抱えると「ああああ…!」と声を荒げて天を仰いだ。「全部おしまいだ…全部おしまいだ…!」恐れていた惨状に全てを後悔した瞬間、慌てて飛び起きるとそこは布団の上だった。そして雅樹は激しい頭痛に襲われた時、「塔の崩壊」が夢だったと知った。


― 自分の部屋じゃない。


次の瞬間、同じベッドに美佳が寝ていることに気が付いた。驚いてあたりを見回した雅樹はここがきっと美佳の自宅だと思った。そして激しい頭痛の中、昨夜の記憶を必死に掘り起こした。しかし飲み過ぎたせいで、雅樹は昨夜の記憶が途中から殆んど無かった。






      
















7、大切なもの









「吉本さん、彼女できたんですか?」会社の資料室で田上邸にプレゼントする模型を作りながら雅樹に聞いた。「え…なんで?」営業に持っていくカタログを揃えていた手を止めた雅樹が振り返って答えた。

 田上邸の設計もひと段落していたので、雅樹と村本はしばらく会社でも会わずにいたが、村本は風邪をこじらせたのか、会社を少し休んでいたようだった。


今日は営業成績が思うように伸びない営業二課の田端課長が、「エリアを特定して全員でローラー営業を掛けるぞ!」と言い出し、雅樹は二課の社員全員分のチラシやカタログを準備するように言われて資料室に来ていた。すると薄暗い部屋の奥の窓際で黙々と作業をする村本を見付けたのであった。


「村本、もう風邪はいいの?」雅樹が「お疲れ」の後に続けて聞くと、村本は「大丈夫です。でも咳が止まらないんです…。」と咳き込みながら言った。


「それより吉本さん、彼女できたんですか?」村本はタンブラーを開けて、湯気に目を細めながら自宅から持参したコーヒーを少し口に含んだ。村本の言葉に驚いた雅樹はカタログを揃える手を止めて振り返った。


「私見たんですよ。吉本さんがスラッとした女性と一緒に歩いているのを。」タンブラーのフタを閉めながら聞くとまた咳き込んだ。

 雅樹と村本が一緒に飲んだ次の日、休日だった村本は車を運転している時に、美佳と一緒に歩く雅樹を見掛けたのだった。田上さんのマンション前で雅樹の足が濡れ、喫茶店に歩いて行く途中のことである。


「私何度も電話したんです、でもすいません…後になって邪魔しちゃったかなって思って。」両手を膝の上に置いた村本は、下を俯いたまま話した。


「あ…あれは田上さんの妹さんだよ!打ち合わせの帰りに偶然出会ったんだよ。」

 慌てた様子で、再びカタログを手にしながら雅樹は応えた。しかし村本が何も言わないので不思議に思った次の瞬間、鈍い音とパイプ椅子が倒れる大きな音が静かな部屋に響き渡った。


 振り返るとそこには床に倒れて苦しそうにしている村本の姿があった。雅樹は手にしたカタログを床に落として、村本のところへ駆け寄ると肩を抱いて「村本!村本!」と呼び続けた。




 検査に時間が掛かるということで、設計部の荒木課長と設計部で村本の同僚である村瀬は会社に一旦戻り、地元で一番大きな総合病院の廊下には雅樹と、駆けつけた村本の両親だけが残った。


「吉本さん、いつも娘がお世話になっています。」荒木課長を見送って戻ってきた雅樹に、村本のお母さんが頭を下げながら言った。


「いえ、こちらこそ娘さんにはいつも設計でお世話になっております。すごく仕事が丁寧だし、お客様からの無理な注文にも文句を言わず最善を尽くしてくれるので私も大変助かっています。それにしても…最近は風邪も引いていたみたいだし心配ですね。」雅樹が心配そうな両親に声を掛けると、今度はお父さんの口がゆっくりと開いた。


「娘は…、実は肺ガンになってしまったんです。」


お父さんは目頭を片手で押さえながら、声を絞り出すようにして呟いた。


「え…。」


 雅樹はお父さんの信じられない言葉に息をするのも忘れてしまった。


「先日娘が受けたCTの検査とレントゲンで、肺が異常に腫れているのが分かりまして…。止まらない咳と続く微熱の症状に、担当医はガンの可能性がとても強いと…。しかも進行が進んでいて末期だと言うんです。」

 お父さんの言葉は時々震えているように感じられ頬には涙が流れた。雅樹は握る拳が震わせ、言葉もなく下を向いて黙って聞いていた。


「今は先日の検査で採取した肺の組織をガンセンターに出しているので、その結果を待っている状況です。でもやはりガンで間違いはないだろう…と。」


「村本さんは…、本人は知っているんですか?」

 突然顔を上げた雅樹が声を大きくして聞くと、お母さんが両手で口を押さえたまま「…はい。」と応えた。


「これから本格的なガンの検査が始まるんですが、とても大掛かりなものになるので、これを“肺炎”とか“風邪”だとは誤魔化せないとお医者さんが言うんです。それよりも本人に病名を伝えて、しっかり治療と向き合った方がいい…と。」

 お父さんは落ち着きを取り戻して、ゆっくり説明をしてくれた。するとお母さんが話しを始めた。

「娘は会社にはまだ言わないでくれと言うんです。自分の口から言うから、まだ誰にも言わないでくれって。でも…私は吉本さんには伝えたかった。吉本さんにはどうか、娘に力を貸して欲しいのです。」

 お母さんは涙が止まらなかった。するとお母さんの肩に優しく手を置いたお父さんが続けた。


「娘は…、吉本さんのことが好きなんですよ。あの子は何も隠さず、私達に何でも話してくれる。吉本さんはいい先輩で、憧れだ…って。だから設計を頼まれた時は本当に喜んでいました。」

 お父さんの言葉を聞きながら、目頭が熱くなった雅樹は堪え切れずに涙を流した。昼下がりというのに病院の廊下は薄暗く、とても静かだった。




 村本の容態が落ちついてベッドで眠っている姿を見ると、雅樹は村本の両親に頭を下げて病院を後にした。村本に迫る現実を理解した雅樹は会社がライトバンに乗って向かった先は…、雅樹の実家だった。

 本人の意向もあって会社の人間には村本の話しはできない。でも、どうしようもないこの想いを、誰かに話したいと思った時、一番に思い浮かんだのは村本のことも良く知る自分の両親だった。


 数年前に二世帯住宅へと改築した自宅へ到着すると、いつも兄の宗孝が車を停めているところへ頭から車を入れた。そしてライトバンを降りると車の施錠もせずにゆっくりとした足取りで玄関へと向かい、チャイムを鳴らした。


「あら雅樹、どうしたの?」ドアを開けて玄関に出た母結衣の声は優しく温かかった。結衣の目を見ると自然に雅樹の頬を涙が流れた。すると結衣は何も言わずに優しく雅樹の肩を抱いて中へと招き入れた。


 通されたリビングのソファーに雅樹が腰を掛けていると、父親の茂が何も言わず雅樹の正面に座った。そして結衣は二人の前のテーブルにお茶を置くと、茂の隣に座った。

「どうした…、雅樹。」ソファーに深く座った茂が聞いた。久しぶりに見る茂は少し痩せたように見えた。口を開けば今にも涙がこぼれそうだった雅樹は、しばらくの沈黙の後、震える深呼吸の後に気持ちを落ち着かせて口を開いた。




ソファーに浅く座った雅樹は、村本の置かれた状況を両親に話し終わると両膝にひじをついて頭を抱えた。するとしばらくの沈黙の後、父親の茂がゆっくりと話し始めた。


「雅樹、人間とは皮肉なもので居なくなってから、その大切さに気付いたりするものだよ。その存在が当たり前で、その幸せに気が付かない。人は愚かな生き物だ。もしも当たり前の幸せにずっと謙虚で他人を敬うことが出来れば、人はもっと充実した人生を送れるだろうに。」

 そう話した茂は結衣の方に一度目をやると、再び話し始めた。

「宗孝が結婚して、雅樹が家を出て静かになった生活の中で、私は改めて自分の人生を振り返ったよ。私はこれまで仕事と自分の時間ばかりで、家庭のことは全てお母さんに押し付けてきた。でもそれは大きな間違いだった。遅すぎるかもしれないが、今私は気が付いたよ。本当にお母さんには申し訳ないことをした。仕事を私が引退したら、これからは家庭に尽くしてお母さんを楽にしてあげたい。そしてお母さんに自分の時間を楽しんでもらいたいと思ってる。そのことに気が付けたのは家族のおかげだよ。本当に感謝しているよ。」

 「あなた…。」結衣は茂のひざに手を当てた。するとメガネを外して目頭に手を当てた茂は泣いているように見えた。そんな茂を結衣はこれまでにない優しい目で見ていた。


 茂は再び雅樹のことを見ると優しい口調で語り始めた。

「雅樹、どんな状況であれ村本さんにはまだ時間があるじゃないか。雅樹は自分の気持ちに気が付いているんだろう。それならその気持ちをしっかり伝えるんだ。後悔しないように、今を正直に全力でやってみろ。」



 会社のライトバンに乗ると、雅樹のところに茂ると結衣が来た。「雅樹、村本さんに宜しくね。しっかり力を貸してあげてね。」と結衣は窓を覗き込んで言った。「うん、分かったよ。お陰で気持ちが落ち着いたよ。」何か吹っ切れた表情の雅樹は車をバックさせると、二人並んで立つ茂と結衣に手を上げて車を発進させた。



「もしもし、美佳さん…。」



 雅樹は路肩の広い箇所に車を停めると、美佳に電話を掛けた。


「何言ってるのよ、私たち付き合ってないじゃない。そんな…謝らないでよ。私が惨めじゃない…。」

 何を言われても…たとえ美佳との件で田上邸の話しがなくなったとしても、雅樹は村本のそばにいる覚悟を決めていた。


 「何も変わらないよ。私は“田上さんの妹”。これまでも明日からもね。」気丈に話す美佳だったが、電話の向こうでは泣いているようだった。


雅樹は「ありがとう」と言って電話を切った。

      



















8、空を見上げて









 雅樹は机の引き出しを開けると、残された一つのUSBメモリを手に取った。そして両手で握り締めて額に当てると目を閉じて祈った。

 立ち上がったパソコンにゆっくりとメモリを挿し、雅樹は画面をじっと見詰めていた。そして「destroy destiny」と焼印された手帳が現れると、しばらく目を閉じた後、手にしたマウスを動かした。


― 村本を助けたい…自分の命に代えても。もしも村本が助かるのなら、俺の命をもって“運命のバランス”を取ろう。


「3月30日 村本の肺から完全にガン細胞が消滅する。」


 雅樹は今日の日付で入力をすると、ENTERを押したまま目を閉じた。


― その次の瞬間、雅樹の携帯が胸ポケットの中で振動した。それは病院で携帯電話の番号を教えた村本のお父さんだった。


「よ、吉本さんですが…村本です。吉本さん、国立のガンセンターから組織検査の結果が送られてきたようで、主治医の先生に呼ばれたら“ガン細胞が検出されなかった”って言うんですよ!主治医は“そんなはずは無い”“レントゲンやCTで見た肺の形は正常じゃない”と言うんですが、国立ガンセンターの検査の結果から肺ガンというのは、主治医の誤診ということになりました!」


 電話の向こうで村本のお父さんは「良かった…本当に良かった」と泣きながら呟いていた。「よかったです…とにかく今は会社のことは忘れて、ゆっくり静養するようにお伝え下さい。」そう言い残して電話を切った雅樹の閉じた瞳からもまた、涙が溢れていた。


「さて…。」


雅樹は再びマウスに手を置き、手帳を開くと“運命のバランス”をとるために、自分が死ぬという“不幸の予定”を入力しようと考えた。そしてホーム画面で「destiny balance」にカーソルを合わせる雅樹の手は震えていた。

 意を決してクリックをすると、運命の塔が姿を現した。しかし想像していたものとは異なり運命の塔は真っ直ぐそびえ、草原も風になびくこともなく静かだった。その時…。


 塔がグラグラと左右に動き始めると、まるでダイナマイトで行うビル解体の映像のように、塔の下から崩れ始め無音の画面の中で、全てが倒壊してしまった。その様子を雅樹はまばたきをすることも忘れて見つめていた。


― 木箱?


 雅樹は積み重なる瓦礫に大きな木箱を見つけた。それはかすかに輝き、点滅しているように思えた。雅樹はまばたきを何回か繰り返すと、カーソルを木箱に合わせてクリックをした。


 その瞬間に玄関のチャイムという名の古いブザーが鳴り響き、「郵便でーす!」という声が聞こえた。雅樹はパソコンに後ろ髪を引かれながら、廊下に出ると「はい」と低い声で呟き、低い玄関を開けた。


― それは叔母さんからの配達日指定で送られた手紙だった。


 寝室のパソコンの前に戻ると、雅樹は手紙を開け始めた。


「雅樹へ」

 この手紙は私が天国へ旅立つ一週間前に、ベッドの上で書いています。


雅樹…私はあなたの叔母だけど、あなたのことを本当の息子のように思っています。病室で静かに死を迎えるばかりの今、私は雅樹とあなたの家族のことが心残りで仕方ありません。

 実はね、雅樹。私は主治医の司馬先生からガンの宣告を受けた日の夜、“死神”に出会ったの。気が付いたら死神が私の部屋にいたの。でも不思議と全然怖くはなかったわ。そして「もう時間なの?」と私が聞くと、死神はゆっくり頷いた。

私は残念には思ったけど、すぐに覚悟を決めたわ。すると死神が「でも、心残りがあるのだろう。」と、古い手帳を渡してきたの。そして「助けてやれ。」とだけ残して消えた。

 

死神が姿を消した後、私は恐る恐る手帳を開いた。するとそこにはスケジュール帳のようなカレンダーがあったの。そして私はそこに自分の名前を見付けた。直感で「あ…これが私の最期の日なのか…」って思った。もちろん私の名前を消すことは出来なかったわ。


手帳をいろいろ試す中で分かった。それはいくら死神の手帳でも「人の誕生や死」は操作が出来ないということ。死神が操作を出来るのは、ちょっとした人間の行動だけ。例えば「医者がただの風邪を“肺ガン”と誤診をする。」とかね。


私の願いはあなたの幸せ。そこにはもちろん家族の幸せがあって、あなたへの愛に恵まれた未来があること。希薄な家族に愛を取り戻し、鈍感なあなたに愛する人の存在を気付かせることが出来たら、私は安心して最期を迎えられる。死神の手帳を前にして、私はそう思ったの。


 だから私は手帳に書いた。それは「雅樹が私の家を継いで、見付けたUSBメモリと真剣に向き合い、様々な経験をする」というシナリオ。

雅樹や家族は目の前に起きる様々な出来事の中で、家族という絆の大切さを再認識する。そして最期に雅樹は、命を懸けて守りたいと思う最愛の人の存在に気付く。

これこそが、私が手帳に書いた未来よ。


 だから…雅樹。USBメモリには何も力が無いのよ。私がいつも使っていたスケジュール帳にちょっと細工をしただけなの。いろいろ振り回してごめんね。これもあなたのことを想ってのことなの。

でも欲を言えば、最期に一目、雅樹が成長した姿を見たかった。雅樹がどんどん仕事をこなし、家族の愛に包まれている姿を。

雅樹、家族を大切に…ね。私はもうこの世にはいないけれど、天国からあなたのことをずっと見守っています。


                                         吉本好美

晴れ渡った春空の下、家族みんなの前で雅樹が叔母さんからの手紙を読み終わると、宗孝の腕に抱かれた赤ちゃんが大きな声で泣き出した。そしてお墓の周りを掃いていたひかりが「あらら、おいで。」と言い、ほうきを置いて宗孝から赤ちゃんを抱き上げた。


宗孝家族が赤ちゃんで大騒ぎの中、「全部お見通しだったんだね。」と結衣がお墓を見ながら呟き、茂は「姉さん…ありがとう」と結衣の肩を抱いた。


 「それにしてもさぁ…、俺はメモリに振り回されてホント大変だったんだからね、叔母さん。」


 宗孝夫婦に子どもが出来たことや目の前で起きた交通事故、それに美佳との出会いも…。全てが偶然の出来事で、田上さんの受注の件以外、雅樹が入力した手帳の力とは関係が無かった。もちろん村本のガン細胞も消滅したのではなく、はじめから存在していなかったのだ。

叔母さんの手のひらの上で雅樹は、ひたすら手帳の力を信じ、運命を良い方向へ向けるために必死に走り回った。


雅樹は腰を下ろしてお墓にお供えされた缶ビールを開けると、ポケットから取り出したUSBメモリを中にそっと落とした。そして立ち上がると、雅樹の肩に頭を寄せてきた村本と手をつなぎ、一緒に雲一つない青空を見上げた。


「叔母さん!ありがと~!」


 叔母さんのお墓に集合した家族全員が、大声で叫んで笑い合った。「みんなでご飯でも食べに行こうよ!」と宗孝が言うと、雅樹が「いいよ!“兄貴がみんなにご馳走する”って予定を入れといたから!」と言ってみんなで笑った。「こいつ~!」と追いかける宗孝を、雅樹と村本は笑顔で手をつないで走って逃げた。


桜の花びらが舞い落ちる中、繋いだ二人の手にはお揃いの指輪が光っていた。





おしまい。


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