…… 4 ……
見えないものは、見ようとしなければ、見えない。
見ようとしても見えないものならば、尚更目を凝らさねば、見えようはずもない。
誰も同じように、そこに存在しているのに――。
「見えたら見えたで、人はそれを恐れる。直視しがたい己の姿を映す鏡なら、いっそ壊してしまいたいと願うほどに」
何ゆえ、人が人を殺め、人でない自分が、いわれ無き別離の苦を味わわねばならないのか。
生まれ落ちたときから、ずっと傍にいた。
一番の理解者だったし、他に人の友人などいなかった。
「悲しむことなどない、どうせ人の寿命などたかが知れていることだ。魔物は情の薄さゆえに社会を持たないもの。それが生みの親であろうが何であろうが、関係のないこと」
かぼは、ゆっくりと巡から視線を外し、空を眺めた。
「そう、自分に言い聞かせてみたがの――」
かぼのために、人の物の怪の許を訪れた少女。
顔も知らぬ物の怪の、あるかどうかもわからない心を解きほぐすために旅立った彼女を待ち受けていた悲劇。
だからかぼは、雨が嫌いだ。
あの時、少女の血と命を洗い流した雨を、かぼは今でも好きになることができない。
言葉を交わした者が、一瞬にして肉塊と化したあの瞬間は、悠久の時を過ごすかぼの中では、永遠に風化してくれない。
そして、時を越えてその傷を抱え続けている者もまた、自分以外に存在したのだ。
あの時、禁忌の子供を生かしたがために。
だがそれは、もういい。
もういいというのも変な話だが、あの時に起こった一連の事件について、誰が悪いとか、自分が愚かであったとか、そんな言及や懺悔がしたいわけではない。
あれはそういう、流れだったのだ。
回避できる方法が無かったとは思わない。後悔して時が戻るのなら、誰だっていくらだって後悔するだろう。けれどそれでも、そうなってしまったのだから。過ぎ去った過去は、作り上げられてしまった運命であって、元には戻らない。
それが世界というものだ。
かぼを作り上げた人間という存在を、その事件のせいで忌み嫌うつもりも、ない。
恨むのではなく、共存できる方法を。
悲劇に胸が痛むのであれば、できるだけそれを起こさない方法を考える方が、かぼにとっては重要なことだ。
「メグをここに連れてきたのは、単に知っておいて欲しかったからだ」
何事もなかったかのように、かぼはニヤリと笑った。
氷村に受け継がれた悲劇の記憶の中に、かぼの存在があったことを。
そして、どんな運命であれ、共に存在し続けていく、自分は人間の物の怪なのだということを。
「……」
どう反応していいかわからない巡を、かぼはいつもの憎たらしい視線で見やる。
「ぬしが知りたがっていたんじゃないか。かぼが何の物の怪なのか、知れて嬉しかろ?」
からかうような物言いに、巡は眉を寄せる。
「そりゃそうだけど……」
事情が複雑すぎて、どんな顔をしていいのかもわからない。
正体を明かそうとしないかぼに腹を立てたこともあったけれど、長い時を過ごす物の怪には、それ相応の経験や事情があるという事実を、今実感したばかりだ。
途方も無く長い時間の中には、きっと他にも様々な出来事が。多分それは、巡の理解の範疇を超えるほどに、膨大なもの。
それを見通そうとするには、自分はあまりにも幼くて小さい。身体も――心も。
けれどそれすらも、当たり前で、仕方のないことで。
もちろんかぼは、そんな巡を叱咤するわけでもなく、励ますでもない。
「メグは、かぼが人間の物の怪だと知っても、恐ろしくはないかの?」
ニコニコと問うかぼに、それだけははっきりと、巡は首を横に振った。
「そんな訳ないだろ。他の物の怪だって沢山いるし、襲いかかってきた魔物だっているわけだし。その中で、なんで人間の物の怪だからって、かぼを憎んだり怖がらなきゃならないんだよ」
巡にしてみれば、人間の物の怪だというだけで彼を追い詰めた人々の方が理解できない。
「うん。メグが子供で良かったと、わちも思っているがの」
「なんだよ」
確かに子供だが、かぼにサラリと言われると、何となく悔しい。
そんな様子が目に見えたのだろう。かぼはさらに笑みを深くする。
「拗ねるな。馬鹿にしている訳じゃないぞ」
巡が何も知らない子供だと言いたい訳ではなく。
大人は色々と複雑なのだ。純粋で無垢な心を持ったまま大人にはなれない。故に大人は、余計な情報や感情を持ってしか他と接することができない。それが悪いというわけではなくて、それが、大人になるということなのだ。
巡がそういう大人だったなら、かぼは今ここでこうしてはいないだろう。
巡が子供であったから、かぼは彼と一緒にいられる。
そして、共にありながら大人になっていくことも可能だろう。
かぼは、巡に向かって両手をズイ、と差し出した。
「色々と話せることもあるが、とりあえず帰ろうかの?」
ニコニコと差し出されるその手は、巡を再び抱え上げようとしているのだろう。
「……!!」
あの悪夢のような時間が、再び。
「待て、ちょっと待て!」
巡は慌てふためきながら、胸にぶら下がる硬いものを握りしめた。
「……あ、携帯!」
こうなるとわかっていた訳ではないが、何気なく首からぶら下げていた、自分の携帯電話。これまで意識してもいなかったが、持っていて良かったと心から思う。というか、ここに来るまでに振り落とされなかったのは幸いだ。
巡は咄嗟に、胸の携帯をパカリと開いた。
「なんだなんだ」
「いいから黙ってて!!」
誰か……誰か。
というか、ここで頼れるのはおそらく、ひとりしかいない。
つい最近登録された番号を呼び出す。
頼む、暇でいてくれ。
『どうしたぁ?』
割とすぐに電話に出た相手ののんびりとした声に、巡は食って掛かるように叫んだ。
「先生、今すぐ迎えに来て!! でないと僕、多分死ぬ!!」
『……は?』
電話の相手――朝比奈に、巡はひたすらに、助けてくれと叫び続けたのだった。