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忙しなかった七月が過ぎ、八月となった。
夏休みともなれば課題もあるし、普段はやらなくていい諸々の用事も言いつけられたりして、それなりに忙しいものだが、それでも夏の暑さの中、巡は割と暇を持て余していた。
「アレはないのか。ほら、良く聞く塾だの、夏期講習だの」
「なんでそういう知識はついてるかな……」
これまた暇そうなかぼの言葉に、巡はげんなりとベッドの上でゴロリと寝返りを打つ。
巡は塾にも通っていないし、夏期講習などというものにも縁がない。一応小学校入学の際に受験はしたが、来年の進学時には藤乃木学園グループの中学に内部入学する予定だ。この学校は持ち上がりの場合内部考査しかない。よほど酷い成績でなければ、簡単に中学校まで持ち上がりで進学できるシステムだ。そこそこの成績を保っている巡は、余計な勉強をしようとまでは考えなかった。
「氷村さんのこともあったし、少しはゆっくりしたいよ」
暑さのせいか、いささかじじくさい巡の台詞。
実際、巡の夏休みなど、いつもこんな感じだ。父親は単身赴任で不在になってから長く、母はそういった企画力には乏しいほうだから、夏休みだからといって大型レジャーが待っている訳でもない。巡も芽衣もそんな生活に慣れ切ってしまっていたから、不満が出ようはずも無かった。
というか、要は出不精なだけか。そういう意味では本当に若さに欠けた姉弟である。
「氷村さん、かぁ……」
夏休みの前半は、色々な意味で衝撃的だった。
魔物に襲われるなどという前代未聞な経験もそうだが、氷村のように、魔物と人間の血を分けた存在が、自分の知らないところでしっかりと存在していたなんて。
世の中は広すぎるというか、考えていたよりも奇抜というか。
人間と物の怪が分かり合えなかった結果が彼であると見せ付けられているようで悲しいけれど。巡だって最初は、物の怪であるかぼを素直に受け入れようとはしなかった。昔の人や物の怪のことをどうこうとは言えない。
今の信頼関係があるのは、かぼが立ち回って巡の心を開いてくれたからだ。
「なんだ。あ奴のことが気になるか?」
相変わらずニヤニヤと笑った表情のかぼは、グラスに注がれたオレンジジュースの中に浮かんでいた氷をボリボリと噛んでいる。最近のお気に入りらしい。
「ん~……」
氷村そのものが、という訳ではなく、氷村にまつわる過去の事件と、これから自分が進んでいく未来のことが気になる、と言った方が正しいかもしれない。
過去のことを、言葉で聞いただけでは到底理解など及ぼうはずもない。そうでなくとも通常なら、おとぎ話としてでも語られそうな、突拍子もない話だ。
それでも魔の刻というものが、これから訪れるのは確実で。
以前かぼは、本格的な魔の刻が訪れる頃にはもう巡は生きてはいないと言っていたけれど。それでも時代は変わりつつあるのだ。
他人よりも一歩先を進んでいる自分は、これからどうやって生きていくのだろうと。
自分にどんな未来が待っているのかなどと、具体的に考えたことなどこれまでも無かったが、だからこそ、自分の未来に不安を覚えるようなことも無かった。
魔物との対立とか共存とか。
考えるというか、思いつきもしなかったのは、当然のことだ。
「ふ~む」
何事かを考えるような素振りを見せるかぼ。
飄々と、どうでもいいようなことを考えているようにも見えるが、その表情は、良く見れば存外に真摯なものに満ち溢れている。
「そんなに力むほどのことではないと、わちから見れば思えるのだがの……でもまあ、馴染めと言われても、素直にはいそうですかと言うことが出来ないのも、人間の特徴だからの~」
「……悪かったな」
その手のグチやら説教やらは、これまで散々聞いてきた。
人間は、正体不明のものを恐れ、排除するようにできている。もちろん例外だってあるが、それは単なる個人差で、実際人は、自分と違うもの、ましてやその根本を知ることの出来ない物の怪の存在を、そう容易く受け入れられるような社会は出来上がっていない。
いくら代を重ねたところで、そうそう変わったりなど出来ないものだ。
「今回改めて思い知ったが、人間の寿命は長い。他を招き入れないからこその長さなのだとしたら、このままでいた方がいいのかもしれんが、わちら物の怪にとっては寂しいものだの」
しみじみとしたかぼの言葉に、ゴロ寝していた巡はベッドの上で上半身を起こす。
「人間の寿命が長い? 百年足らずなんて、かぼにとってはあっという間のことだろ?」
しかしかぼは、首を横に振る。
「それは、例えばメグひとりの寿命を考えれば、その通りだがの。だが人間は、短い命だからこそ次世代を残す。もちろん人間以外の生の刻の住人も、皆そうだがの。わちが言っているのは、その長さの話だ」
人は子を生み世代を繋ぐ。歴史を作る。そうして古からこれまで、人間というものの存在を存続させてきた。かぼが言うのは、その人間全体の寿命の話だ。
人間全体の生きてきた時間は、とても長い。
「わちがこれまで存在し続けてきたのが、何よりの証拠だ……」
「……え?」
一瞬眉を寄せた巡に向かい、かぼはニッコリと笑顔を向けた。
「メグ、暇ならわちと旅行せんか」
「……はあ?」
突然のかぼの言葉にぽかんと口を開いた巡だったが、そんな彼を見つめるかぼは、ただニコニコと笑って返事を待っていた。