…… 21 ……
※この回は、少々流血シーンがあります。ご注意ください。
自分の母体となる人間を傷つけ、命を奪う物の怪。
そんな彼とは逆に、少女は生まれた子供を心から慈しんだ。
神域とされるその場所に捕らわれ、奪われてその身に宿した禁忌の子供。
その子供や自分に対し、人間を憎む物の怪である彼が、何がしかの情のようなものを傾けることはない。けれど少女は、人間と物の怪の魂を分けたその子供を愛した。
己の中から生まれた小さな命を愛さない理由が、彼女にはなかったのだ。
子供が生まれるまでの間、ずっと物の怪の傍で半ば監禁されながら過ごしてきた少女だったが、子供のために、人の里へ下りなくてはならない。何もない山の中で身ひとつで、物の怪に投げ与えられるだけの糧では子供を育てることは出来ない。けれど。
鬼と呼ばれる物の怪は、それでも自分が人と同じように作り出した子供というものに、ある種の興味のようなものは抱いていた。だから少女に食べるものを与えたし、子供を育てるために人の里へ帰ろうとする少女を、繋ぎ止めようともした。
否、子供を連れ去るというなら、殺してしまおうとすら考えていたかもしれない。
少女が赤子を育てているのだと理解はしていても、自分が少女を殺してしまったら子供も育たないであろう事実までは思い至らなかったようだ。少女が子供を連れて逃げ出そうとすればその牙や爪を容赦なく振るい、そこには赤子だけは避けようなどという気遣いはまるでなかった。
そう、別にその子供を愛しているという訳でもない。
あるのは、自分が関わって生み出したという優越感と、好奇心。
このままここに留まれば、遅かれ早かれ、少女も赤子も死んでしまう。
分かり合えない物の怪の傍から、少女はようやく逃げ出した。
鬼と呼ばれた物の怪は、今や本当の鬼のようだった。人々を殺め続けた、その身体に備わった爪は逃げる少女の背中に躊躇なく振り下ろされ、尖った牙は彼女の首を腕を噛み砕こうと狙う。子供を庇いながら山を下る少女は、何度もその刃に傷を付けられた。
それでも走って、走って。崖をを転がり落ちても起き上がり走って。
木々が分かたれる。
人家が見え隠れする。
人里まで降りることができれば、少女は助かるはずだった。
何とか彼の目から逃れて家々の狭間に隠れ、息を潜める少女。
その腕に抱く赤子は泣き声も上げず、おそらくは弱りきっているのだろうが、まだ助かる見込みはあると思いたかったし、希望は潰えてはいない。
しかし彼女の命を絶ったのは。
鬼の爪ではなく、人間の持つ武器だった。
鍬か、鉈か。それが何かは、背後だったからわからない。
後頭部に受けた衝撃を、地面に倒れ伏す少女が自覚していたかどうか。
これが、鬼の子を宿した女だ。
この赤子が鬼の子だ。
人は。なんて。
――人は、悲しい。
何かと交わっては生きて行けない、彼らが悲しい。
結局逃げることしか出来なかった、自分が――悲しい。
いつの間にか降り出した雨に地面は湿り、広がる赤の血が、土の色と混ざり合う。
目を閉じることも叶わなかった少女が最後に見つめていたのは、その赤に染まった土の色と、自分の目の前に立つ、小さな少女の姿だった。
「その時に、わちがその赤子をさらって逃げたのだよ」
かぼは、ため息のような言葉で締めくくった。
「……」
僅かな間、その場の面々には言葉もない。
「……どうして、かぼが? その子をどうしたの?」
巡が口を開いた。
「ヤツの所業は、風に乗って物の怪たちの間に広まっていたからな。人間と、あってはならぬ接触のしかたを繰り返すヤツを制裁しようと、多くの物の怪がその場に集結していた。わちも様子を見に行ったひとりだった訳だがな、いたたまれなくなって、子供だけは救い出そうと、そう思っただけだ」
そうでなければ、子供の命もその場で奪われていただろう。
「禁忌の子だ。だがその子供は、何も知らん。せいぜい運を天に任せる程度の権利はあっても良かろうよ」
だからかぼは、その子供を遠く離れた集落の、人間の家の前に捨て置いた。
「物の怪では、人間の子は育てられん。誰かに拾われなければ自然に消え行く運命の命だったろうが……生きる力が、あったようだな」
こんなに永い間、その血を絶やさずにいたとは。
そして何より。
何も知らないはずの赤子。
誰がそれを育てたかは知らないが、その里親ですら、その子供の出生は知らなかったはずだ。なのに代々その末裔にまで、その出生が語られているということは。
それを最初に伝えることが出来たのは、ただひとりだ。
「やはり、ただの子供ではなかったということだな……」
その赤子は、生まれたばかりの己に起きた出来事を、記憶していたのだろう。
自分がどうやって生まれ、どうやって生かされたのかを。
自分の父親が何者で、母親がどんな末路を辿ったのかも。
物の怪は、そのほとんどが自分がどうやって生まれてきたのかを記憶しているものだが、その力が、その子供にも受け継がれていたということか。
「そして、その血を受け継ぐ代々の子供たちは皆、己のルーツとなる鬼――物の怪の記憶を、多かれ少なかれ生まれながらに持っている」
氷村の口から伝えられる真実。
だから彼らは、話としてだけ知っているのではなく、己と深く関わる過去の出来事として、そのことを知っているのだ。欠片でしかないその記憶は、随分と曖昧なものではあったが。
己の身体を構成する物の怪の細胞は。偽物であるが故に、どれだけ代を重ねても、消えて無くなることはない。
偽物の遺伝子。
けれどそれは、確かに受け継がれていた。
「人を憎んでいた物の怪の記憶と細胞を継ぎ、しかし魔を受け入れられない人間として、私たちは長い時代、命を繋いできたのさ……」
その末裔である氷村の表情は、苦渋に満ちたものだった。